海岸線をどこまでも 本州一周 (になるかもしれない旅)  千葉県九十九里浜を踏破中
◆第12+23日目(2009年12月30日)野栄 〜 飯岡

    

 起きて窓から海と空を見る。雲が多いが、まあまあの天気だ。朝食バイキングを腹いっぱい食べて、出発だ。それにしてもこの宿泊料金でこんな豪華な朝食がいただけるとはありがたいものである。

        本日の気象衛星写真 (日本気象協会 tenki.jp)
    

 1 野手浜の朝日                           



  2 野手浜の朝                     3 宿を振り返る
   

 海岸は砂浜が消失し、コンクリート護岸と消波ブロックの突堤が延々と続いている。もう九十九里「浜」とは言えないのではと心配になるほどだ。

  4 護岸の続く野手浜                  5 護岸工事
   

 自転車道が整備されている。ところでここは、匝瑳市である。「そうさ」市と読むのだが、恥ずかしながら最初はこの漢字を読めなかったことを告白しなければならない。昔の八日市場市と野栄町が合併してできたらしい。難しい地名で読めない人が多いらしく、地名の由来が市のHPのトップページに大きく出ている。歴史的根拠があるらしい。最近の合併市町村の名前は安直なものが多いだけに、あえて由緒ある市名にした勇気を応援したい。

  6 護岸で固められた排水路               7 長谷地区の太平洋岸自転車道
   

  8 自転車道                      9 護岸とテトラポッド
   

 新川を越える。

  10 新川河口                     11 新川大橋
   



  12 新川大橋から河口を望む              13 釣り人
   

 砂浜は消失しているが、突堤の根元に僅かな砂浜があり、サーファーもそこから海へ出ていくようだ。ブロックには、写真15のように青ペンキで文字が書かれている。読みにくいが、「蛤をとらないで下さい」と書いてあるようだ。

  14 サーファーであふれる駐車場            15 ペンキの注意書き
   

 匝瑳市から旭市に入る。相変わらず、コンクリートの護岸が続く。

  16 旭市駒込付近                   17 来た方向を振り返る
   

 護岸も破壊されてしまうようで、写真18では自然石で補修し、消波ブロックを置いている。護岸工事には建設時はもちろん、維持管理にも莫大な費用がかかるのである。

  18 護岸の補修跡                   19 旭市井戸野付近
   



 写真20の地点、突堤の先からは、コンクリートのスロープもなくなり、ついに垂直の護岸になってしまい、埋立地のような無残な姿を晒している。

  20 垂直の護岸                    21 砂丘を登る自転車道
   

  22 かんぽの宿旭遠景                 23 防砂柵
   

 このあたりは、沖合に消波ブロックを置いて、砂浜を維持している。しかしこの方法では砂浜が凸凹になり、美しい弧を描く砂浜は失われてしまう。
 遠くからも目立つ大きな建物は、かんぽの宿であった。政治家が絡んでもめていたようだが、結局どうなったのだろうか。

  24 かんぽの宿旭                   25 復活した砂浜
   

 写真26は、野菜を育てているわけではなく、中で人が寝ている。晴れている日は暑いだろう。

  26 ビニールハウス型のホームレス宅          27 海岸沿い駐車場
   

  28 旭市足川付近                   29 矢指ヶ浦の休憩所
   

 公園が整備された海岸に着いた。矢指ヶ浦というところらしい

 30 自転車道案内板

  31 かんぽの宿方面を振り返る             32 旭市椎名付近
   



 侵食がひどいところと、広い砂浜があるところと変化が激しい。沖合の消波ブロックの置き方によって差が出るようだ。

  33 旭市三川付近                   34 侵食がやや弱い海岸
   

 写真35の店は、面白い看板である。酒、たばこ、サーフィン用品、焼きたてパンと彼らに必要なものはすべて揃っている。看板が道路ではなく、海に向かって建っているのもおもしろい。そして、本人たちは、この寒空の中、写真36のように御昼寝中である。

  35 サーファーに便利な店               36 お昼寝中
   

 素泊まり3500円は安い。

  37 ペンション?                    38 飯岡海岸 その1
   



 飯岡海岸に到着した。ここは砂浜が結構広い。

  39 飯岡海岸 その2                 40 飯岡海岸護岸竣工碑
   

 ここには、写真40のとおり、護岸工事についての功績を記念する文字が刻まれている。たしかに頷ける部分も多々あるが、この記念碑には沼田元知事の名前があった。ようするに、土建国家日本の縮図であった千葉県の意見なので、少し割り引いて考えなければならない。
 そもそも、侵食の原因である護岸、防波堤、漁港などの建設による海岸の人為改変が砂浜の消失を招いている悪循環を理解しないと、将来日本列島のすべての海岸をコンクリートで固めて、その維持管理に莫大な税金を注ぎこむことを永遠に続けることになる。

 40 竣工碑解説版


 41 海岸工事解説版


  42 萩園交差点手前                  43 飯岡海岸 その3
   



 さらに進むと、防波堤が間近にみえてきた。写真44の小さな川をわたれず、迂回して防波堤に向かう。これまで歩いてきた九十九里浜を振り返ると、写真45のようにかんぽの宿が遠くに見えた。

  44 下永井海岸                    45 下永井海岸から九十九里浜を振り返る
   

 そして、ついに到達した九十九里浜の北の終末点が写真47だ。2009年12月30日12時21分、とうとう九十九里浜を踏破したのである。2009年1月2日に太東海浜広場を出発してから約1年間、実質的には5日間かけて歩いたことになる。
 九十九里浜の北端も、やはり防波堤で唐突に終わってしまった。

  46 最後の防波堤へ向かう               47 九十九里浜最北端
   

 感慨に浸るまもなく、今日の最終目的地である飯岡漁港に向かう。

  48 九十九里浜最北端からの眺め            49 飯岡漁港遠景
    

 漁港の隣にあるいいおかみなと公園に到着した。予定通りであるが、曇り空で寒く、帰りの交通機関も考えていないので、早めに引き上げることにする。

  50 海に面して建つ鳥居                51 いいおかみなと公園
   

 バス停を探したが、海岸通りにはないようだ。漁師町を抜け、市街地に行くと玉嶋神社前というバス停があった。さきほど海岸で見た大きな鳥居の神社らしい。そして、旭駅行きのバス時刻をみると、.....なんと2時間後である。交通の便が悪いと予想はしていたが、これ程とは思わなかった。誤算である。休日ダイヤにも関わらず、飯岡は結構大きな町なのでなんとかなるだろうと甘く見ていたのが失敗であった。ここから旭駅まで10kmくらいあるのだろうか。歩くしかないのかと、疲れた足を引きずって立ち上がると、当たり前ではあるが、道路の反対側にもバス停がある事に気がつく。行ってみると銚子方面行きとある。少し遠周りになるが、銚子から電車に乗っても良いと、ここで初めて気がついた。幸いなことに15分後にバスが有るではないか。最後まであきらめないことが肝心と思いながら、銚子行きのバスに乗った。

  52 玉嶋神社
   

  53 銚子駅
   

 銚子駅から帰路に着いた。
 
 今日は、ついに九十九里浜を歩ききった記念すべき日である。日本地図で描かれるあの長大で美しい円弧を歩いてみたいという思いが実現したことは、感慨深いものがある。サーファーや釣り人など、思ったより人がいて、さみしい思いをすることはなかった。また、ハマグリやカニなど浜辺での身近な漁を実際に見られたのも面白かった。天然ガスの産地であることから、工場から茶色の地下水が排水されているが、湘南海岸と異なり、下水処理水の放流は目立たなかった。これは、人口が少なく、下水道普及率が低いせいかもしれないが、外洋に面していることもあり、海は美しい。
 砂浜も、ウミガメが産卵にくるほどきれいであるが、残念ながら侵食によって、今、九十九里浜は存亡の危機に立たされていると言ってよいだろう。例えば、今日歩いた区間は、自然のままの海岸は皆無である。コンクリート護岸とヘッドランドが延々と続き、ところどころ砂浜があるところは、すべて沖合に消波ブロックが置いてある場所である。たった30年間という短期間でこのような状態にまで侵食が進行してしまったということは、非常に憂慮すべき事態である。極言すれば、すでに九十九里「浜」は存在しない。連続した九十九里の浜はなく、漁港とヘッドランドと消波ブロックと護岸工事が連続する海岸になってしまったのである。
 以前にも紹介した資料によると、九十九里浜の砂の供給先は、南の太東崎と北の屏風ヶ浦だということだ。ここがコンクリートで固められた今、砂が供給されない九十九里浜は、瀕死の重体に陥っているわけである。さらに、漁港の建設が拍車をかけてしまった。
 高度成長期に国民が働いて得た富の一部は、こうして浪費され、現在残ったのは天文学的な財政赤字と海岸の無秩序な自然破壊だけである。もちろん、その責任は、それを推進した権力者を選択した我々全体の責任である。
 批判を恐れずに言えば、太東崎と屏風ヶ浦の侵食は自然に任せて以前の状態に戻すことと、漁港の防波堤を沿岸流になるべく影響のない形にすることが必要だと思う。すでに漁業が成り立っていない小規模零細な漁港の統廃合も考えるべきである。太東崎と屏風ヶ浦は侵食されるが、それは自然の摂理である。現在は畑や雑木林がほとんどであるが、代替地など税金である程度保障した方が、護岸工事を続け、永遠に補修を続けるよりも安上がりかもしれない。経済の低迷と膨大な財政赤字で、もうすでに日本にはこのまま公共工事を続ける体力はない。このまま自然に逆らわず、放置して、100年後にコンクリートが崩れ去るのを待つというのも、将来の日本の選択肢ではないだろうか。まあ、愚痴はこれくらいにしておこう。
 
 さて、無事九十九里浜を踏破し、次回はいよいよ刑部岬から屏風ヶ浦へと、この旅も新たな局面に入ることになる。

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