死後の世界                                   
     

 初めて死を意識したのは、大学を卒業する間際に自然気胸になり、開胸手術を受けた時である。大した病気ではないが、現在は内視鏡でできる手術も、当時は開胸手術である。大学病院の教授は「まあ、比較的簡単な手術だけど、胸を開けるわけだから、絶対安全だということはないよ。一応家族も呼んでおくように」といっていた。家族は薄情なのか、当日は来なかったが、代わりにおばさんが来てくれた。術後は背中に大きな傷跡と若干の運動障害が残ったが、一応健康になって何とか就職することができた。

 2度目に意識したのは、父親が死んだ時である。

 年をとると、周りの人間がすこしずつ死んでいくので、年下の人間が増えていく。それは、自分の順番がすこしずつ近づいていることにほかならない。最近は、死んで幽体離脱し、自分の葬式を見たいと思うようになった。誰が泣いてくれるのか、弔問客がどんな会話をするのか、興味があるではないか。
 私は無神論者なので死後の世界は信じないが、多くの宗教は人が死んだらどうなるのかについて、実に熱心に語っている。戒名に法外な金額を要求する坊さんとそれを支払う親を見ていると、宗教とは、死の恐怖につけ込んだ阿漕な商売ではないかと思わないでもない。

 話はかわるが、自宅のパソコンがネットに繋がってから、つまり、本格的なネット社会になってから、すでに15年近くが経過した。これは、ウェブサイトやブログの管理者が死ぬことが増えてくるということである。管理者を失ったサイトはどうなるのだろうか。おそらく、レンタルサーバやプロバイダーの契約が終われば、消えてしまうのだろう。
 現在レンタルサーバは、Yahooのジオシティーズを使っているが、退会後3ヶ月はデータを保存してくれるそうだ。その後はどうなるのかわからないが、私のDNAを半分受け継いだ娘達にはプロバイダの継続を頼んでおこう。私が死んでも、半分のDNAと、このサイト、そして仕事で書いた何本かの論文は後世に残るのだと思うと、少し死が怖くなくなった。
 何のことはない、自分も無宗教とか言いながら、死んだ後も現世に何らかの拠り所を求めている弱い人間なのであった。

                                          平成25年6月1日


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