新河岸川探訪

 川越から江戸まで、水運のために開かれ、明治時代に鉄道が開通するまで繁栄した半人工河川。現在は、直線化され隅田川に注ぐ。
◆第2日目 2010年6月17日 いろは橋(埼玉県志木市)〜 旭橋(埼玉県川越市)

 池袋から東武線に乗り志木で降りる。バスで市役所前まていくと、いろは橋だ。前回、中流の主要河岸として繁栄した志木で終わったこの旅は、このいろは橋から再開した。



  1 いろは橋から柳瀬川上流を望む           2 再現されたいろは樋
   



 ここには、「いろは樋」という架橋施設があったという。いろは樋とはなにか、それは次の解説を読んでいただくのが手っ取り早い。

  3 いろは樋解説板
   

 江戸時代には、写真5の上の方にいろは樋が架かっていたのである。右岸が、引又河岸跡である。

  4 いろは樋ジオラマ                 5 いろは橋から柳瀬川下流を望む
   

  6 いろは橋上                    7 いろは橋から新河岸川上流を望む
   

 写真7の右側、左岸に宗岡河岸があった。花の彩も美しい道を歩いていく。

  8 志木市役所                    9 いろは橋上流付近
   



 袋橋についた。ところで、川を運河として利用する場合、下流に下る場合は流れに任せればよいが、江戸から上流に向かう場合はどうしたのだろうか。いくつかの方法が考えられるが、まず、南風が吹いている場合は、帆を使うことができる。しかし、風がやんだり、逆風だったらどうしたのか。その答えの一つが、写真10のレリーフだ。つまり、馬に引かせるのである。時間はかかるだろうが、確実ではある。

  10 袋橋レリーフ                  11 袋橋から下流を望む
   

 川の水は濁っていて、決して綺麗とは言えない。写真13のように、蛇行していた新河岸川のなごりがあちこちにある。

  12 袋橋から上流を望む               13 袋橋上流左岸の旧河川の堤防林
   

 志木市から富士見市に入る。平凡かつ由来が誰にでもわかる市名である。しかし、ここからの富士山はおそらく非常に小さくて、しかも見える日の方が少ないのではないだろうか。
 それにしても日本人の富士山をありがたがる気持ちは、笑ってしまうほどである。千葉の外房を歩いていると、地元の人が今日は富士山がみえるとわざわざ教えていただいたことを思い出した。たしかに豆粒のようなものが見えたのだが。

  14 岡坂橋                     15 山下河岸跡地付近
   

 山下河岸跡を過ぎると右岸に広いスペースが現れる。防災ステーションは、旧河川流路と現河川の間の空き地を利用した施設らしい。その証拠に、ステーションの端には、今にも水が流れそうな旧河川らしき跡が窪地として続いている。

  16 新河岸川防災ステーション付近          17 旧河川跡 その1
   

  18 旧河川跡 その2                19 防災センター
   

 やがて、木染橋に着くが、その入口には、写真20のような商店街が出現する。懐かしい感じの商店街だが、駅があるわけでもないのになぜここに??という気がしないでもない。

  20 寺下商店街                   21 木染橋から下流を望む
   



  22 下の谷公園                   23 富士見江川合流地点と鶉河岸跡
   

 鶉河岸跡である。右岸側には公園があるが、低地に広がっており、かつては湿地帯であったことを思わせる地形である。写真23の堤防はなかっただろうから、鶉河岸はこの公園内にあったのかもしれない。

  24 鶉橋から富士見江橋上流を望む          25 合流地点の公園
   

 富士見江川の合流地点に着いた。田園風景が広がる。

  26 富士見江川合流地点               27 第一新河岸橋を望む
   

  28 第一新河岸橋(国道254号線)           29 鶴馬本河岸跡地付近
   

 鶴馬本河岸跡地には、水門があった。その後背地にはかつて湿地帯であったと思われる空き地や田んぼが広がっており、水害に悩まされてきたことがわかる。
 一角には作業所があって植物を育成販売していた。一鉢買ってあげたかったが、荷物になるので諦めた。一所懸命働いている人がいる一方で、ハウスの前でただ座っている人もけっこういて、失礼だと思いながらも、少し可笑しくなってしまった。ありがちなほほえましい光景である。

  30 山村排水路水門                 31 むさしの作業所のファーム
   



 ひろびろとした風景が続く。

  32 南畑橋から上流を望む              33 富士見市上南畑付近
   

 左岸には桑畑が広がる。

  34 対岸の桑畑                   35 草刈り作業
   

 堤防の草刈も写真35のように機械が使えると楽そうだ。

  36 蛇木河岸跡地付近                37 砂川堀
   



 砂川堀に着いた。砂川堀は狭山丘陵を源流とする新河岸川の支流である。堀という名前からもわかるように、人工水路らしい。

  38 砂川堀合流地点                 39 砂川堀上流を望む
   

 砂川堀合流地点から、砂川堀の上流に向かってすぐのところには、写真40のとおり遊水池があった。

  40 蛇島調整池                    41 伊佐島橋
   

 伊佐島橋を渡り左岸側に移る。

  42 印象に残る民家                 43 伊佐島橋から上流を望む
   

 写真43、伊佐島橋から上流にむかって左側、つまり右岸側には、伊佐島河岸があった。
 さらに上流の新伊佐島橋の左岸側には、旧新河岸川(ややこしい言い方)があるが、写真44のように現在は水は流れていないようだ。

  44 旧新河岸川                   45 清掃センター
   

 清掃工場を対岸に眺めながら、長閑な風景の中、左岸の堤防上を歩いていく。ふじみ野市に入ったようだ。それにしても富士見市の隣がふじみ野市というのも、非常に紛らわしい。さらに、ふじみ野駅は富士見市にあるというのだからややこしい。なんとかならないのだろうか。

  46 ふじみ野市運動公園付近             47 ふじみ野市福岡付近
   



  48 左岸側に広がる田園風景             49 福岡橋 
   

  50 福岡橋から下流を望む              51 福岡橋から上流を望む
   

 福岡橋に着いた。写真のとおり、現在はただの田園風景が広がっているだけであるが、解説板によると、ここには新河岸川水運の主役である舟頭が多く住んでいたそうだ。そして、その守護神がこの大杉神社である。昔の新河岸川の安全はこの神様に委ねられていたのである。

  52 左岸から大杉神社を望む             53 大杉神社
   

 54 大杉神社解説板

 大きな水門に着いた。ここから新河岸川放水路が分岐している。写真56のとおり、放水路は、本川よりも立派である。

 55 渋井水門                     56 下流の新河岸川放水路を望む
   

 この放水路は、旧荒川であるびん沼川を経て荒川に通じているらしい。新河岸川の水位が上がった場合に、荒川に水を逃がすのであろう。

  57 渋井水門から上流を望む             58 観音堂
   



 国道254号線は、第二新河岸橋で新河岸川を渡っている。

  59 第二新河岸橋を振り返る             60 左岸川越市渋井付近  
   

 61 百目木河岸跡地付近                62 左岸から対岸の緑地を望む
   

 63 左岸から対岸のふじみ野市の堤防林を望む

 右岸に森が広がっていた。そして、養老橋に着く。

  64 川越市古市場付近                 65 養老橋と古市場河岸跡
   



  66 養老橋から下流を望む              67 養老橋から上流を望む
   

 橋を渡るとそこには、民家が立ち並んでいて、人々の生活の匂いが漂っている。しかし、その一角にある大きな土蔵が目を引いた。栄華の跡である。

 68 吉野家土蔵解説板


 69 吉野家土蔵                   70 裏手から見る福田屋
  

 土蔵の斜め奥には、写真70のとおり、お城のような建物が見える。

  71 福岡河岸解説板
   

 ここが、福岡河岸の跡地である。これまでにも、志木をはじめとする河岸跡を通ってきたが、この福岡河岸は特別である。何が特別かというと、河岸の主役であった回漕問屋の建物が現存しているのである。写真72の道は、江戸時代を彷彿とさせる光景である。

  72 川から登る石畳                 73 茂兵衛地蔵
   

 旧福田屋の建物は、現在福岡河岸記念館として保存・公開されているので、早速入ってみる。

 74 福岡河岸記念館解説板               75 道路から見た福岡河岸記念館
   

 76 福田屋解説板


 上の解説板によると、ここの当主、10代目星野仙蔵は、政治家になり、東武東上線の生みの親になったという。その鉄道が、新河岸川の水運にとって代わることになったのは歴史の皮肉ではあるが、もちろん星野仙蔵もそれを予想していただろう。時代の流れには逆らえなかったということか。それとも自らの利害を超えて地域の発展に尽くしたということか。
 ちなみに女優の星野真里は星野仙蔵の子孫だそうだ。

 77 福岡河岸の昔の町並み解説板


 78 主家と文庫


 実に立派な建物である。

 79 建物概要解説板


 80 帆柱解説板


 81 帆柱                       82 井戸
   

  83 台所                      84 オカジ解説板
   

  85 オカジ                     86 福岡河岸の三問屋解説板
   

 87 福岡河岸の古絵図


 88 早舟運賃広告の図                  89 古写真
   

 90 昔の新河岸川の流れと河岸

 写真90の地図は、重要な情報を与えてくれた。すなわち、新河岸川の源流は仙波河岸と伊佐沼だった、ということである。これは、今後の探訪の参考になるだろう。

  91 帳場                       92 離れ
   

  93 書院の間                    94 瓶
   

 2階に昇ってみる。星野仙蔵がみた風景である。

 95 主家の2階から中庭を望む             96 2階から河岸を望む
   

 江戸屋も昔の地図どおりの建物が残っている。こちらは、まだ人が住んでいるようだ。

 97 江戸屋主家                    98 江戸屋文庫蔵
   

 写真99は写真100とほぼ同じアングルから撮った90年後の光景である。

  99 江戸屋前から養老橋を望む            100 古写真(再掲)
   



 タイムスリップしたような福岡河岸を離れるのは名残惜しいが、先に進まなくてはならない。

  101 左岸から右岸の堤防林を望む          102 川崎橋から下流を望む
   

  103 川崎橋から上流を望む             104 九十川排水機場
   

 九十川は伊佐沼から流れ出る川である。福田屋にあった地図によると、伊佐沼が新河岸川の源流のひとつであるが、現在の九十川は直線的であり、新しく開削された流路のようだ。

  105 排水機場解説板 その1
   

 このあたりはもともと湿地帯であり、水害が絶えなかったのだろうが、それにしても、立派な排水機場である。災害が起こると誰も反対できない大義名分ができるので、ここぞとばかりに、お金に糸目をつけない公共工事が行われ、結果としてこのような豪華な建物が出来上がってしまうという典型例である。

  106 排水機場解説板 その2
   



  107 越流堤                     108 川越市牛子付近
   

  109 川沿いの田園風景                110 寺尾河岸跡地付近
   

 本日の最終目的地である、旭橋が見えた。このあたりは、NHK連続ドラマ「つばさ」のロケ地として度々登場したそうだ。

 111 旭橋手前                     112 旭橋から下流を望む
   

  113 下新河岸跡地                  114 上新河岸跡地
   

  115 なぞの看板                   116 新河岸河岸場跡の碑
   

 写真115の看板は誰が何のために立てたのだろうか。謎である。高瀬舟はもう無いだろうから商売の宣伝ではないと思うので、観光PRのためだろうか。

  117 河岸場跡解説板
   

 前回の調査で、新河岸川は川越の東照宮の焼失による資材運搬が始まりとされ、新たに作られて川の名前の由来となった「新河岸」とは、「五河岸」と呼ばれる河岸を指しているということがわかった。そして、この旭橋の解説板には、その五河岸が記されている。上新河岸、下新河岸、扇河岸、牛子河岸、寺尾河岸である。
 寺尾河岸は旭橋の下流側にあり先程対岸からみた。牛子河岸は今、通ってきた旭橋の左岸側である。そして右岸側の旭橋を挟んで下流側が下新河岸、上流側が上新河岸である。扇河岸はかなり上流に位置しているので、五河岸のうち4つがこの旭橋近くにあることになる。ここが、江戸初期に作られ、新河岸川の語源となった本家本元の新河岸なのである。
 そう思って周りの景色を見ると、今は静かな旭橋の周りの景色もまた違ったものに見えるのは気のせいだろうか。

 119 下新河岸跡から下流を望む



 旭橋右岸下流側、すなわち下新河岸跡には、写真120のように船着場が再現されていた。江戸から明治時代にかけて、大いに賑わったであろうこの場所も、今は静かに流れる新河岸川とともに長い眠りについている。

  120 下新河岸跡地の船着場             121 日枝神社
   

 日枝神社は、新河岸の成立と共に、川の流れと人々の営みを見守ってきたらしい。ここで最後の休憩をとった後、駅に向かって歩いていると、古い立派な家があった。斉藤さんというお米屋さんらしいが、その店構えは尋常ではない。122の写真を撮って後から調べてみると、ここは「伊勢安」という回漕問屋だったらしい。明治初期の建物が残っているようだ。
 踏切を越えて駅に向かう。途中の道端に、太った犬がつながれていた。近づいてみると、それは犬ではなく、なんとイノシシであった。ふしぎな街である。

  122 新河岸の古い家(伊勢安)             123 イノシシ?
   

 さて、ここが新河岸の本家本元であることが判ったわけだが、それを証明するように、交番の名前も駅の名前も「新河岸」であった。
 新河岸川に代わって、川越と東京を結ぶ大動脈となった、東武東上線に乗る。昔は、江戸に出ようとすると、船で何日もかかったのだろうが、現代の東武電車は、池袋駅まであっという間に連れて帰ってくれた。

   124 新河岸駅前交番                 125 新河岸駅
   



 今日は、新河岸川の歴史の真髄を味わえた充実した日であった。現在は、その経済的役割を終えて、関東平野をのんびり流れるこの川も、かつては江戸川越間の大動脈として繁栄した栄光の日々があったことが実感できた旅であった。

 次回はいよいよ川越市街地へ入っていく。

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