新河岸川探訪
川越から江戸まで、水運のために開かれ、明治時代に鉄道が開通するまで繁栄した半人工河川。現在は、直線化され隅田川に注ぐ。
◆第1日目 2010年6月12日
隅田川合流地点
(東京都北区)〜
いろは橋
(志木市)
隅田川を探索した時
、その起点は荒川であることを知ったが、実際に地形図でその川筋を見ると、新河岸川が隅田川の上流だと言えないこともない。しかも、新河岸川は昔、川越と江戸を結ぶ重要な交通路だったという。
しかし、新河岸川とはいかにも時代がかった名前である。河岸とは船着場あるいはその後背にある物資の集積地のことである。「新河岸」というからには、新しい河岸が作られたのだろうか。それはどこなのか、作られたのはやはり江戸時代なのか、なぜそれが川全体の名前になったのか、など興味深い点が多い川である。
また、たとえ運河としての役割を担っていたとしても、川である以上、どこかに源流があるはずである。今回、これらの謎に挑むべく、新河岸川を遡ることにした。
1 赤羽駅 2 庚申堂
赤羽駅で下車して隅田川との合流地点に向かう。赤羽へは、湘南新宿ラインのおかげで神奈川県南部から乗り換えなしで来ることができる。
岩渕水門付近に右岸側から接近しようとしたが、写真3のとおり、カミソリ堤防で対岸が全く見えない。仕方無く上流に移動すると、隅田川合流前、つまり、新河岸川最後の橋である志茂橋につく。
3 隅田川合流地点付近の堤防 4 志茂橋
写真5の先で隅田川と合流するのだが、やや遠くてわかりにくい。以前に、隅田川探訪で左岸側から接近したので、合流地点の詳細は
こちら
を参照していただくのが良いだろう。
5 志茂橋から下流を望む 6 志茂橋から上流を望む
緑の河畔を遡るが、堤防の反対側の荒川の雄大さと比べると、新河岸川側はやや地味である。
7 河畔の緑道 8 岩淵橋から下流を望む
9 岩淵橋から上流を望む 10 岩淵橋付近の自由人
岩淵橋の袂には、いくつかのブルーシートのテントがあり、そこの住人が気持ちよさそうに日光浴をしていた。
鉄橋がクロスしている。複線が3本もある大動脈である。東北本線と京浜東北線ともう1本は何線だろうか。
11 東北本線・京浜東北線鉄橋 12 中の橋
13 浮間橋と北赤羽駅
大きな橋が見えた。
橋の手前は、広い芝生になっていて気持ちが良いが、残念ながらここで左岸側の遊歩道は行き止まりである。
14 浮間橋手前の堤防上から下流を望む
15 浮間橋の碑解説板
16 浮間橋の碑 17 浮間橋から下流を望む
浮間橋の向こう側、埼京線鉄橋には駅のホームがあった。川の上に強引に作られた北赤羽駅である。たしかにここならば駅の用地買収費は少なくて済むだろう。
北赤羽駅から一時的に川沿いを離れて、再度出会った橋は、新河岸大橋というそのものズバリの名前であった。
18 北赤羽駅 19 新河岸大橋から下流を望む
新河岸大橋から下流右岸側には、小豆沢水上バス乗り場が見えた。ここまで
観光船が上ってくる
らしい。
20 新河岸大橋から上流を望む 21 東京都建設局の船
河畔に遊歩道が復活した。堤防が少し邪魔だが、緑や花があって、中々楽しい。次の橋は、さらにそのものズバリの名前の新河岸橋である。
22 新河岸橋遠望 23 新河岸橋から下流を望む
24 新河岸橋から上流を望む 25 長後さくら橋から下流を望む
26 長後さくら橋から上流を望む 27 平成橋
新河岸橋、平成橋と続く大仰、いや、立派な名前の橋は何故かアーチ型の鉄橋である。
28 平成橋から下流を望む 29 平成橋から上流を望む
志村橋でこの川を渡るのは中山道である。
30 志村橋から下流を望む 31 志村橋から上流を望む
32 蓮根橋から下流を望む 33 蓮根橋から上流を望む
地図では、新河岸川の左岸側に切れ込みが見える。新日本製鉄製造所とあるが、やはりあの新日鉄なのだろうか。クレーンのようなものがある。工場への物資輸送のための設備だろうか。
34 新日鉄製造所の運河? 35 舟渡大橋
やがて正面に二階建ての大きな橋が見えた。舟渡大橋である。
36 舟渡大橋歩道 37 舟渡大橋から下流を望む
下段は、歩道になっており、ベンチなどもあって左岸の公園と一体化した豪華な橋である。上段は車道になっている。
38 舟渡大橋橋から上流を望む 39 舟渡水辺公園
公園から上流も、写真40のように快適な緑道が続く。
40 西台橋 41 西台橋から下流を望む
42 西台橋から上流を望む 43 板橋清掃工場対岸付近
対岸の高いタワーは、清掃工場の煙突らしい。
そして、校舎にある看板から、小学校の名前も新河岸小学校であることがわかった。このあたりの住所は、板橋区新河岸である。江戸時代、ここに新河岸が作られて、新河岸川の名前の由来になったのだろうか。おそらく、そうではないだろう。その理由は後ほど明らかになるとして、そもそも、このあたりの新河岸川は、当時はなかったものである。
44 新河岸小学校 45 徳丸橋から下流を望む
46 徳丸橋から上流を望む 47 芝原橋
48 芝原橋から下流を望む 49 芝原橋から上流を望む
写真49のように、芝原橋の上流側からは、新河岸水再生センターからの下水処理水が流れ込んでいる。放流口には何故かシャワーがついていた。推測だが、おそらく、下水処理水が泡立って見た目が悪くなることを防ぐための消泡装置ではないだろうか。
50 早瀬橋と板橋市場 51 早瀬橋から上流を望む
卸売市場を過ぎると、大きな橋が架かっている。国道17号線新大宮バイパスと首都高速5号線である。ここで川沿いの道が途切れ、荒川の土手に登る。いいまで、市街地を流れていた川の風景が一挙に開けた。
笹目橋の下をくぐると、対岸に支流が合流しているのが見える。白子川である。実は、この小さな川には大きな意味がある。ここが東京都と埼玉県の都県境なのだ。板橋区から和光市に入ったのである。
このサイトでは、ずいぶん長く旅を続けてきたが、埼玉県に入るのは初めてである。正確には、
多摩川源流の探索
で笠取山の山頂まで行った時に、山梨県と埼玉県の県境の分水嶺までは到達しているが、完全に埼玉県に足を踏み入れる探索は今日が初めてなのだ。
52 笹目橋 53 白子川合流地点
埼玉県に入ると、対岸も何故かのんびりした風景に変わり、田圃が広がるようになる。
54 芝宮橋 55 芝宮橋から下流を望む
56 芝宮橋から上流を望む 57 アムール号
こんなところに、クルーザーが係留されている。どうみても座礁しているようにしか見えないが。大雨の時だけ出航出来るのかも。
58 新倉橋 59 新倉橋から下流を望む
60 新倉橋から上流を望む 61 土圧で曲がったH鋼護岸
62 幸魂大橋(さきたまおおはし) 63 新河岸川処理センター放流水
このあたりの住所は、和光市新倉であるが、写真65のとおり、養豚場の横に工事用に作られたと思われる橋がかかっていた。このあたりが新倉河岸跡地である。ここは、大正時代までは新河岸川の終点であり、荒川との合流地点であった。ここより下流は昭和初期に開削されたので、水運には使われていないことになる。つまり、板橋区新河岸には河岸はなかったことになる。
写真64は荒川と新河岸川の間にある土手から見た荒川であるが、江戸時代にはこの土手はなく、写真64と65の両川は繋がっていたということだ。
ここから上流は、朝霞市になる。荒川の対岸にはゴルフ場が広がっていた。
64 和光市・朝霞市境界付近の荒川 65 立入禁止の仮設橋
66 朝霞水門 67 朝霞水門近影
朝霞水門に着いた。まだ新しい感じがする大きな水門である。ここは、新河岸川と荒川を結ぶ水路である。増水したときは、両方の川の水位を見て水門を開くのだろう。ここに水門があるのは、昔新河岸川がこのあたりで荒川と合流していたからだろうか。
68 朝霞水門から下流荒川を望む 69 朝霞水門から上流新河岸川を望む
水門の上流に架かっているのが内間木橋であるが、残念ながら仮設の鉄骨の橋になっていた。
70 内間木橋から朝霞水門を望む 71 内間木橋下の謎の鳥
その橋の下には、不思議な鳥がいる。カメラを向けても動じないふてぶてしさだ。なんという種類だろうか。
72 内間木橋から下流を望む 73 内間木橋から上流を望む
74 朝霞大橋 75 朝霞調節池の越流堤
朝霞大橋という新しい橋を過ぎると対岸に越流堤が見えた。堤防の一部分が低くなっており、川の水位がこれより上になると向こう側の遊水池に水が溜まるという仕組みである。遠くから見る遊水池は緑と水が豊富な自然の楽園のように見える。
76 新河岸川終点の石標 77 黒目川合流地点
ここでとんでもない石碑を発見した。写真76の「新河岸川終点」の碑である。まだ新しそうだ。ここが新河岸川の終点なのか。何かの間違いではないのだろうか。
ここは、昔、台河岸があった跡地である。
右岸側には、
黒目川
が合流しているため、東橋まで迂回する。
78 東橋から黒目川下流を望む 79 神明神社
地図を見て気になる水色の部分があった。上の地図の右下、田島二丁目と書かれているところである。釣り針のような曲がった水路が描かれているのがわかる。これは、私のような素人でも、蛇行していた旧河川の流路跡ではないかと疑うだろう。
そこで、現地を確かめた結果が、写真80と81である。なんと、ここは
釣り堀
になっていた。イワナやマスなどの渓流魚の釣り場らしい。実際には、湾曲した水路はいくつかの池に仕切られているようだ。
80 朝霞ガーデン その1 81 朝霞ガーデン その2
新盛橋の袂には新河岸川の由来が書かれている。これを読むと、「新河岸」とは、「五河岸」と呼ばれる河岸を指しているようだ。そして、それは川越の東照宮の焼失による資材運搬が始まりだと書いてある。新河岸川の由来が少しわかってきた。しかし、五河岸とはどこだろうか。これから自分の目でそれを確かめたいと思う。
82 新河岸川由来解説板 83 新盛橋から下流を望む
周囲は田園風景である。
84 新盛橋から上流を望む 85 武蔵野線鉄橋
武蔵野線の鉄橋を過ぎる。このあたりには「浜崎河岸」があったらしい。
誰も通らない寂しい川沿いの道をさらに進んでいくと、学校と川の間の道は、写真86のように数人のホームレスに占有されていた。異次元の空間である。一応天下の公道のはずだが、彼らにしたら、勝手に庭に入ってきた乱入者と見えなくもないだろう。缶を潰している住人を横目に、急いで走り抜ける。幸い無事に元の世界に脱出することができた。
86 ホームレスさんの住居 87 新宮戸橋から下流を望む
左岸に水資源開発公団の施設があった。荒川から取水した水を沈砂後、サイフォンの原理で地下で新河岸川を横断して、朝霞浄水場に送っているらしい。このあたりにも、湾曲した池があり、旧河川流路跡が疑われる。
88 新宮戸橋から上流を望む 89 朝霞水路沈砂池のサイフォン
宮戸橋の横には大きな水道橋がかかっていた。朝霞浄水場に続くのだろう。
90 宮戸橋 91 富士下橋から下流を望む
富士下橋についた。緑が深い河川敷の中に架かっている美しい歩行者専用の吊り橋だ。このあたりの両岸は親水公園として整備されている。
写真92の正面に見える大きな建物は、右側の新河岸川と左側の柳瀬川の合流地点に立つ志木市役所である。
92 富士下橋から上流を望む 93 富士下橋
この付近では、何本かの堤防が重なっている。写真94はいちばん外側の堤防だが、弧を描いているのがわかる。昔の川が蛇行していたのだろう。
このあたりは、市街地に近いためか、公園で遊ぶ子どもたちが多く、歓声が川面に響いている。
94 いろは親水公園の堤防 95 親水公園の子どもたち
96 いろは橋 97 いろは橋から下流を望む
いろは橋に到着した。柳瀬川との合流地点である。志木市役所が志木駅の近くではなく、ここにあるということは、志木が新河岸川の水運を中心に発展してきたなごりなのであろうか。いろは橋のレリーフには、船の荷物の積み下ろしで賑わう志木の様子が描かれている。
98 いろは橋から上流を望む 99 いろは橋レリーフ
100 いろは橋右岸側から下流を望む 101 旧村山快哉堂
合流地点は、歴史ある建物が保存された公園になっている。
102 旧村山快哉堂解説板
写真103の右手、合流地点の右岸側が「引又河岸」の跡地である。この河岸は、新河岸川途中の河岸の中でも特に規模が大きく、ここ志木は、
大いに栄えた
らしい。
今日もだいぶ歩いたので、ここまでにしようと思い、志木駅行きのバスに乗った。
103 柳瀬川合流地点 104 志木駅
新河岸川は、事実上隅田川の上流といってよい川である。前半は、隅田川から上流、昭和になって開削された部分を歩いた。都心から少しづつ離れていく川は、川沿いをずっと歩ける都会のオアシスだ。
朝霞水門付近は荒川と連なる雄大な景色が望める。朝霞水門より上流は、江戸時代に開かれた、水運の河の面影を残しており、なかなか楽しめる。
最後の志木市役所周辺は、歴史と自然がよく調和し、
新河岸川を中心として街が発展してきた
ことを偲ばせるのに十分な風景が広がっていた。
次回は、いよいよ水運の目的地である川越に迫ることになる。川の名前の起源となった「新河岸」はどこにあるのだろうか。
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第2日目(2010年6月17日)いろは橋〜旭橋
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