石 神 井 川 (しゃくじいがわ) 探 訪          

 武蔵野台地から湧き出て東へ、練馬区、板橋区を横断し、北区で隅田川と合流する典型的都市河川
第3日目(2013年3月2日)
  
  下野谷橋(東京都西東京市東伏見) 〜 源流跡(東京都小平市鈴木町)  

  1 東伏見駅                     2 下野谷橋
   

 青空の下、高田馬場駅、上石神井駅で乗り換えて東伏見駅に降り立つ。若者が多いが早稲田の学生さんだろう。下野谷橋につくと、まだ工事の真っ最中であった。



 前回、ここより上流では流れがなく、ここが石神井川の源流かもしれない、ということでショックを受けた。昨日あたり小雨が降っていたが、今日ははたしてどうだろう。

  3 下野谷橋から下流を望む              4 下野谷橋から上流を望む
   

 結論は、写真3,4をみていただくとわかるとおり、下野谷橋より上流に流れはない。その水源は、写真4での左側から流れ込む暗渠からの水であった。かなりの水量があり、水質も良い。おそらく、東伏見駅からここまでの斜面の湧水を集めたものだろう。ここは、早稲田大学の広大な敷地になっているので、湧水が残っている可能性が高い。前回パイプで流していた水も、この北からの湧水だったのかもしれない。なぜなら、前回はちょうどこの北斜面からの暗渠の工事をしていたからである。ただし、ここが源流であると断定するためには上流も見る必要があるので、弥生橋に向かう。

  5 下野谷遺跡公園                  6 復元遺跡
   

         7 下野谷遺跡解説板
     

 弥生橋への途中に下野谷遺跡公園がある。詳細は解説に書いてあるとおりだが、こんな大規模な集落があったのも、縄文時代の石神井川の豊富な流れがあったからこそだろう。水がなければ人の定住地にはならなかったはずである。

  8 弥生橋                      9 弥生橋から下流を望む
   

  10 弥生橋から上流を望む              11 弥生橋・東伏見橋間
   

 弥生橋付近にはわずかに水があったが、流れはなく、溜まっているだけだ。



 弥生橋から東伏見橋の間には、写真12のようにわずかな流れがあるが、この流れは弥生橋に辿り着く前に河床に吸い込まれて消えてしまう。

  12 かすか流れ                   13 東伏見橋
   

 工事中の東伏見橋を渡る。大きな神社もあり、賑やかだ。

  14 東伏見橋上                   15 東伏見稲荷神社
   

  16 坂下橋                     17 坂下橋から上流を望む
   

 この辺りの石神井川も、完全に干上がり、流れはない。やはり、恒常的な流れが見られるのは下野谷橋より下流という事のようだ。

  18 柳沢橋から上流を望む              19 都道4号東京・所沢線
   

 田無駅に近づくと、整備されていない鉄と垂直のコンクリートの川となる。水は流れていない。

  20 都道4号から上流を望む             21 川桐橋から上流を望む
   



  22 蓮華橋から上流を望む              23 石神井川南町調節池
   

 24 石神井川南町調節池解説板


 このように、流れの途絶えた石神井川上流は、巨大な雨水排水路となってしまっているわけで、残念なことである。
 写真24の解説板の前に数人の老人がいた。カメラを持っている。話を聞いていると、石神井川を遡ってみようということらしい。要するに同好の士というわけだ。しかし、地図も持たず、「とにかく行ってみようよ」といっているくらいなので、散歩のようなものかもしれない。
 河畔道が整備されていない都市部の小河川の場合、下調べをして、現地に地図を持参しないと、川を辿ることは絶対に無理である。次の橋にたどり着くまでの迷路のような路地、大きな道路など人工物による行き止まり、暗渠、不規則な支流の合流(分岐)などがあるからである。詳細な地図を用意し、歩きながら常に現在地を確認できる読図能力が不可欠なのである。
 相模川や多摩川などの大きな川の場合は、そんな心配は無いが、大きな支流の合流や鉄道・道路によって河畔の道がなくなることがあり、橋も限られているので、やはり事前図上調査をしておかないと、とんでもない大回りを強いられることになる。

  25 文化大橋から下流を望む             26 富士見橋上流付近
   

  27 西東京市南町付近の汚水流入           28 南町4丁目の無名橋から上流を望む
   

 写真27は古いアパートからの汚水である。下水道普及率は100%のはずであるが、建物のオーナーが経費を惜しんで下水道に繋がないのだろう。



  29 向台学童クラブ付近               30 庚申橋から上流を望む
   

 学童クラブの横を通る。この道は地図では抜けられないが、もしかすると歩行者が通れる道があるかもしれないと思いチャレンジしたが、ダメであった。戻る途中で、先ほどの老人グループに会った。ついてきたらしいが、早足で路地を曲がり、振り切った。怪しい行動は集団で目立ってはいけないのである。付近住宅密集地を抜けると周りの景色が少し広々としてきた。

  31 植木農園                    32 多摩湖自転車道を見上げる
   

 大きな川の土手のような築堤に突き当たる。多摩湖から境浄水場までの導水管を布設し、上を緑化した、狭山・境緑道、そして並走する多摩湖自転車道である。多摩湖まで真っ直ぐ伸びるこの道をどこまでも歩いてみたくなった。が、それはいつか機会があればということにして、今日はその邪念を振り払い、石神井川の上流を目指そう。

  33 多摩湖自転車導水管上              34 多摩湖自転車道から下流を望む
   

  35 多摩湖自転車道導管上から上流を望む       36 多摩湖自転車道から上流を望む
   

 多摩湖自転車道を過ぎると上流側はかなり田舎...いや、上品な言葉で言えば武蔵野の面影を色濃く残す風景になってきた。



 畑が残る新興住宅地の中を歩いて、小金井公園内の北側にたどり着いた。公園北橋という名前がついているこの場所には、一級河川石神井川上流端という青い大きな標識が東京都によって立てられている。町田市内の恩田川の上流端にも同じものが立てられていたことを思い出す。東京都の河川管理当局は河川法上の境界として、上流端を宣言するのが好きらしい。ただし、恩田川と同様、実際の自然環境上の源流は完全に無視である。これより上流は川ではなく、あくまで単なる排水路として扱うということだ。尤も、土木当局はある意味で自然を破壊することが仕事だし、河川法の運用が目的なので、本来の源流や自然環境上の意義を考慮しろといっても所詮お門違いということだろう。

  37 公園北橋                    38 石神井川上流端標識
   

 もちろん今まで見てきたとおり、ここに水の流れはなく、本来の源流の意味はとっくに失われている。

  39 公園北橋から下流を望む             40 小金井公園内の池 その1
   

 小金井公園内の池に行ってみた。池の名前が分からないが、位置から見て、石神井川の源流の湧水池の一つだった、あるいは石神井川の流路だった可能性はある。ただ、現在、この池に湧水があり石神井川に流れ込んでいる証拠はなかった。

  41 小金井公園内の池 その2            42 公園北橋から上流を望む
   

 公園北橋から上流は暗渠になってしまうが、喜悦大学の構内で再び開渠となり写真44のようにさらに上流に繋がっている。ただし、水の流れはない。これより先は立ち入ることができないので、小金井公園内に戻って迂回することにしよう。

  43 嘉悦大学へ                   44 大学内へ伸びる水路
   



 45 見えない貯水池解説板


  46 見えない貯水池
       

 小金井公園では、江戸東京たてもの園に寄り道してしまった。
  関連サイト 江戸東京たてもの園                

 小金井公園を出て北に向かう。石神井川流路跡を探ってみよう。都道15号線の写真47の地点が谷の最低地点である。おそらくここが流路跡だろう。そこから、東、すなわち下流側を見たところが写真48である。もちろん流れはないが、昔源流だったことを想像ではないわけではない。

  47 都道15号の最低地点              48 小金井ゴルフ場内
   

 さて、もうとっくに水が流れず、流路も無いのに源流跡を執念深くたどっているのは、ある情報があったからである。昔、石神井川の源流は、鈴木小学校付近にあったらしいのだ。ゴルフ場を大きく迂回して鈴木小学校にたどり着くと、道路を挟んで反対側に小平市の鈴木遺跡資料館がある。工事現場の事務所のようなプレハブの建物で入りにくい雰囲気だが、勇気を出して中に入ってみた。

  49 小平市鈴木遺跡資料館              50 鈴木遺跡資料館入口
   

  51 鈴木遺跡資料館でもらった資料
  鈴木遺跡〈5〉小平市立鈴木小学校地下通路 (1984年)

 しかし、そこでは、予想以上の成果があった。
 中には年配の職員の方がいて、丁寧に解説してくれる。鈴木遺跡は、1974年に小学校の建設時に発見された遺跡で、3万年前の旧石器時代の遺跡としては、関東でも最大級のものだそうだ。石神井川についてもたくさんの情報をいただいた。館内には石神井川の源流で狩りをする旧石器時代の人々の想像図もあった。写真はダメだと思うので、以下資料から、石神井川に関する部分を抜粋してみよう。

 鈴木遺跡の範囲は、東西約670m、東西約600mにおよび、東に開く馬蹄形(C字形)をなしています。これは、現在の石神井川のかつての源流部を取り囲むような場所で人々が生活を営み、その結果そのような形に遺跡が遺されたのです。そして、この石神井川の当時の水源部は、鈴木小学校のグラウンド付近にあったと思われますが、現在ではより下流に、つまり東方約1kmの、ゴルフ場の中に移っているものと考えられます。(鈴木遺跡 −解説− 平成7年3月31日 小平市教育委員会編集)

 Wikiで、石神井川の源流が小金井ゴルフ場内と書かれているが、誰も現地を確かめずに上の記載がそのまま定説になってしまっているのだろうか。再び資料から抜粋してみよう。

 遺跡が大規模である理由は、そこが川の源流だからです。おそらく谷奥には湧水があったと考えられます。その水を求めて小動物が集まり植物が群生し、そして人々は水と動植物を求め、その谷上の見晴らしのきく場所を選んで、繰り返し居住地を選んだので、大規模に遺跡が形作られたものと考えられます。(ぶらり旧石器さんぽ Vol.1 たてのよこやま89)

 縄文時代...住居跡は発見されていません。旧石器時代の終りごろから縄文時代の初めにかけて、水源がより下流に移ってしまい、鈴木遺跡の範囲には、集落が営まれることはなく、狩猟採集の場として利用されていたものと思われます。(鈴木遺跡 −解説− 平成7年3月31日 小平市教育委員会編集)


 その後、江戸時代までは原野になっていたらしい。弥生時代以降は、水がないこのあたりは水田にならなかったためだそうだ。再び利用されるようになるのは、玉川上水により新しい畑が開墾されてからである。鈴木さんによる鈴木新田である。畑なのになぜ新田なのかと職員の方に聞いたところ、昔は畑であっても開墾したら○○新田といったのだそうだ。

 江戸時代の後半になると、現在の鈴木小学校の場所には深谷定右衛門によって、水車が設けられました。水車は玉川上水からの用水を引き込んだ水路に掛けられ、水車を回した水は、石神井川のかつての流路に流されました。(こだいらの遺跡ウォーク 平成24年11月10日 小平市教育委員会編集)

 下左図は、江戸時代の絵図で、中央に石神井川の源頭が描かれている。右写真は、鈴木遺跡発掘時の水車関連遺構で、共に、「こだいらの遺跡ウォーク」から複写したもの。

                 

 この資料館のおかげで、石神井川のかつての源流の全貌が明らかになった。



 さて、いよいよ外に出て現地で石神井川源流の今を見てみよう。源流跡の西側の崖は、写真52のコンクリートの崖になって残っている。段差は3〜4mだろうか。小学校は西の台地よりもかなり低い場所にある。

  52 鈴木小学校西側の崖               53鈴木小学校校庭
   

 迂回して今度は南側から源流跡に行ってみよう。写真54の下り坂である。

  54 武蔵野団地の低地へ               55 武蔵野団地案内板
   

 かつての石神井川源流は、現在東西に細長い武蔵野団地になっている。住所は、小平市鈴木町で、江戸時代の地名を残している。

  56 武蔵野団地低地南端               57 武蔵野団地低地西端
   

 写真56は南端の崖だったところである。右側に川が流れていたはずだ。ここを西に向かい、突き当りを少し北に行く。つまり、窪地の最西端から西の小学校の方向をみたのが写真57である。ここが、かつて、崖から豊富な水が湧き出て、美しい泉ができ、ナウマン象やイノシシやシカが水を求めて集まっていた楽園、3万年前の石神井川水源の跡である。落とし穴の跡がたくさんあったことから、獲物を穴に落として、槍で突いて狩りをしていたらしい。
                    

 次にかつての流れにそって下ってみよう。窪地の真ん中を東へ向かう道が写真58、59である。ここが石神井川の源流跡で、泉から湧き出た水が東へ向かって流れていたはずである。資料にもあった水車は、1908年(明治41年)まで存在したそうだ。しかし、残念ながら、源流跡は、太平洋戦争中に埋め立てられてしまったらしい。食糧難で畑になってしまったのだろう。その後、おそらく高度成長期に、この細長い低地は畑から住宅地になってしまったわけである。川の跡を住宅地にしても、地元の人は住まないだろうが、ここを買った人はかつてここが川底であったことを知らなかったのかもしれない。駅から遠く、敷地面積も狭いこの住宅地は、おそらく当時の庶民でも手が届く値段だったのだろう。しかし、地形は正直である。この川の跡地にある住宅地は豪雨で1m以上も浸水することがあったようだ。

  58 武蔵野団地低地を東へ その1          59 武蔵野団地低地を東へ その2
   

 源流流路は武蔵野団地の東端で、写真60のようにゴルフ場に突き当たる。そこから写真61,62のように南北を見ると、どちらも登り坂になっており、ここが川底であったことがわかる。

  60 武蔵野団地低地東端               61 武蔵野団地低地東端から北を望む
   

 そして、石神井川源流は、そのままゴルフ場内に入っていたはずであるが、写真63のようにはっきりした窪地は外からは確認できない。

  62 武蔵野団地低地東端から南を望む         63 武蔵小金井カントリークラブの中
   

 ゴルフ場は、正式名を小金井カントリー倶楽部というが、なんと戦前の1937年(昭和12年)に出来た、日本で最も古いゴルフ場である。超名門コースで格式が高く、簡単には会員になれない。田中角栄もここが気に入っていたらしい。ゴルフ場ができた時にも、湧水や細々とした流れは残っていたはずである。というよりも、このゴルフ場は、石神井川源流跡の窪地を利用して造られたといったほうが良いかもしれない。かつての源流なので、浸水をおそれて誰も住まなかった土地だったのだろう。

 さて、下の地形図をみてみると、源流地帯は、住宅やゴルフ場開発で破壊されたにもかかわらず、地形的には痕跡がかなり鮮明に残っていて、源流流路が容易に推定できる。ゴルフ場内には今も、下図の推定流路の場所に池や水路が残っていることが、地図で確認できる



 資料館の方の親切な説明や資料のおかげで、時を超えた石神井川源流の様子を知ることができた。感謝しながら、玉川上水を越えて、武蔵小金井駅から中央線に乗る。駅のホームからは、空中に浮く歩道橋の奇妙な光景を目撃した。

  63 武蔵小金井駅                  64 ホームから見える不思議な歩道橋
   

 GPSによる本日の歩行経路(時間:6h24m 距離:27.3km 累積標高:+801m -784m)


 石神井川の最後の日、過去と現在の源流の姿をみることができた。石神井川の源流は、Wikiによると「現在は小平市花小金井南町にある小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし...」と書かれている。しかし、この通説は、事実ではなかった。もちろん、時季によって流れができることはあるだろうが、冬の渇水期でも恒常的に水が流れているのは、もっとずっと下流の、東伏見駅方面の斜面の雨水溝を水源とする下野谷橋以降である。下谷野橋の水源は、北から流入する水路で、その水質はかなり澄んでいることから、東伏見駅からの斜面のどこかからの湧水である可能性がある。下谷野橋から上流は、痕跡はあるものの、水が流れるのは、おそらく降雨時だけだろう。そういう意味で、今日はかつての石神井川流路跡をたどった、というのが正しいかもしれない。
 もはや、川ではなく、巨大な雨水放水路になってしまった石神井川上流部の現実である。下水道が普及すると都市河川で起こる典型的な現象だ。水質の悪化で死んだ石神井川上流は、下水道の普及でよみがえるはずだったが、皮肉なことに、今度は水が流れなくなってしまったことにより、2度目の死を迎えたことになる。途中にある主要な水源であった富士見池や三宝寺池も、湧水は枯れて、地下水をくみ上げてやっとその状態を保っている現状である。

 しかし、今日は収穫もあった。それは、鈴木遺跡の存在を知ったことである。旧石器時代に豊富な水により人間だけでなく動物たちの楽園でもあった鈴木町には、その姿を偲ぶ遺跡と地形の痕跡がまだ残っていた。現地に立って、3万年前にこの源流に水を飲みに集まるナウマン象を我々の祖先が狩っている姿を想像するのも、悪くないと思う。
 かつて、石神井川は数多くの生き物を育む母なる川であったことを、現代の私たちは知らない。いや、忘れているだけかもしれないが。
(本日の歩数:33686歩)           

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