江戸城内堀 探訪
徳川氏の居城であり、江戸幕府の政治の中心だった江戸城を守る内堀を一周してみる
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2012年1月7日
2012年の正月のある日、今年第一回目の「放浪神奈川 水の旅企画会議」が、神奈川県某所で秘密裏に開催されていた。いつも人のいない山奥や源流、河川敷ばかりでは調査員も人恋しくなるだろうから、たまには都会でどうだろうか、という意見が出たので、東京の地図で水辺を探す。東京のど真ん中、千代田区にその水辺はあった。それは、皇居の周囲、つまり江戸城を複雑に包囲している濠である。
私を含めて首都圏に住む一般の人は、たまたま通りがかって断片的に見ることはあっても、内堀を体系的、網羅的に見ることはない。いったい、どこまで続いているのか、どこからか流れこんでくるのか、そして、どこかへ流れ出しているのだろうか。これは、首都東京の前身である江戸の成り立ちを考える上でも、重要なテーマである。そこで、得意の○○一周である。うまくいけば外堀にも挑戦だ。
こうして、構成員がたった一人の脳内企画会議の結論が出たので、実行に移す。
どこから始めるのか。もちろん堂々と表玄関から入ろう。東京の表玄関であり、全国の駅の最高峰に位置するあの東京駅、丸の内口に降り立つ。振り返ると、その東京駅は、改装中であった。もうすぐあのレンガ造りの東京駅が蘇るのだろう。
そして、東京駅と江戸城址の間にあるのが、日本のサラリーマン憧れの聖地、丸の内である。どんなに儲かっていようと、丸の内界隈に本社ビルがない会社は
歴史と伝統がある真の超一流企業とはいえないのである。逆に、都内勤務のOLとの合コンで「勤務先が丸の内だ」とさえ言えば、他の面で多少難があるサラリーマンでも一目置かれることは間違いない。
1 東京駅 2 丸の内ビル
3 丸の内ビル入口 4 行幸通りから東京駅を望む
東京駅からまっすぐに皇居に向かう広い道は、その名のとおり、行幸通りである。和田倉門の交差点を渡ると最初の内堀との出会いがある。左が馬場先濠、右が和田倉濠だ。今回はじめて知ったのだが、内堀に限らず、江戸城の濠にはそれぞれ名前がついているようだ。
ところで、江戸城を築城したのは太田道灌だというのは有名だが、最初にここを本拠地としたのは、平安時代の江戸氏であり、地名もここから来ているらしい。城を造った太田道灌が主君の上杉定正に殺された後、上杉氏に代わって関東を支配した小田原北条氏、その北条氏を滅ぼした豊臣秀吉の家来である徳川家康、その徳川幕府を倒した明治政府すなわち皇居と持ち主が変わっている。
今回は反時計回りで回ろうと思うので、右に行くと和田倉橋がある。
5 和田倉橋 6 和田倉橋からきた方向の和田倉濠を望む
7 和田倉橋から南方向の和田倉濠を望む
和田倉橋では団体の歴史ツアーをやっていた。
和田倉濠の内側には、内堀通りが走っているが、ここからみると存在感あふれる白い優美な姿を濠に映しているのが桜田二重櫓である。そのまま時代劇に使えそうな風景だ。そして内堀通りと桜田二重櫓を隔てているのは、桔梗濠である。
8 桔梗濠と桜田二重櫓
内堀通りの歩道には、ウワサどおりカラフルなランナーが次から次へと北に向かって走っている。逆方向はいないので、反時計回りに走ると決められているのだろう。陸上のトラックもそうだが、人間は左回りのほうが走りやすい気がする。
まあ、それはいいのだが、今日は土曜日、しかも午前中である。丸の内の会社は休みなのにこれだけたくさんのランナーがいるとはどうしたことだろうか。天皇陛下はともかくとして、たいていの庶民はこのあたりに住んでいるとは思えないので、郊外から電車や地下鉄でわざわざ出てくるとしか考えられない。休みなのだから、自宅の近くの公園で走れば良いと思うがそうでもないらしい。まあ、定期券があるから、交通費はタダだろう。
この現象は、江戸城内堀が首都圏のランナーの聖地となっているとしか考えられない。一種の社会現象である。背景には、タレントがマラソンに出たりといった、ランニングブームがあるのかもしれない。
とにかく、ヨットの江の島、サーフィンの鵠沼、山ガールの高尾山、スノーボードの苗場、カヌーの多摩川と同じ、人が集まり、そのスポーツの最新流行ファッションを披露する場所としての地位を確立したと断定しておこう。
9 皇居を走るランナー 10 北に続く桔梗濠
11
内桜田門
(
桔梗門
) 12 内桜田門標識
桔梗濠を奥に進むと内桜田門に突き当たる。別名桔梗門。桜田門外の変があったのは外桜田門なので、ここではない。車が入っていったので、一般人も入れるのかと思ったら、写真13のようにお巡りさんに止められてしまった。皇宮警察があるらしい。
13 内桜田門入口 14
桔梗濠外側から見る窓明館?
しかたがないので、内堀通りに戻って、大手門方面に進むと、また門の前にお巡りさんが立っていた。
15 大手門橋から
北方向の大手濠を望む 16 大手門 その1
また、止められるかと思ったら、なんと入れるらしい。いつもの放浪と同じ汚い格好をしていたので、後ろめたさを感じ、怪しい男ではないことをアピールすることにした。若いお巡りさんに愛想笑いをしながら話しかける。「壁が剥がれてますねー」と聞くと、3月の地震でやられたらしい。「関東大震災や空襲でも残ったのに、修理もお金がかかるんでしょうね−」とたたみかけると「いや、予算が無いので修理はいつになるかわからないです。」とのこと。
後から調べてみると、実は太平洋戦争の時に渡櫓門は全焼し、1960年代に再建されたものだ。つまり、初めての大地震で土壁が剥がれたわけである。一方、外側、写真17の高麗門は、江戸時代のままらしい。
とにかく、国家権力を前にして、いい加減なおべっかを使ってしまった。やはり、その場しのぎのテキトーはよくない。ますます怪しまれたに違いないが、とりあえず中に入ることに成功である。
17 大手門(高麗門) 18 大手門(渡櫓門)
ちなみに、大手門はその名前のとおり、江戸城の正面玄関である。
19 同心番所 20 同心番所解説板
番所である。現代の警備員室か検問所のようなものだろうか。
21 同心番所後ろの石垣
石垣の組み方が素晴らしい。
22 百人番所 23 百人番所解説板
すぐに百人番所である。メインの警備施設だ。
説明によると、甲賀、伊賀、根来...とある。おおっ、忍者ではないか。とすると、この大きな建物に黒装束に手裏剣を持った忍びが100人いたということか。つまり、忍者屋敷である。これはスゴイ....
って、そんな馬鹿なことはないが、忍者の子孫が警備に当たっていたことは本当らしい。
24 本丸中之門石垣 その1 25 本丸中之門石垣 その2
百人番所の向かいが中之門である。江戸城の正面玄関だけあって、その石垣の巨大さは半端じゃない。一体いくらかかったのか。
28 本丸中之門石垣解説板 その1
29 本丸中之門石垣解説板 その2
30 本丸中之門石垣解説板 その3
31 本丸中之門石垣解説板 その4
瀬戸内海や伊豆からこの巨石を舟で運んだということだろうか。
32 本丸中之門石垣解説板 その5
33 本丸中之門石垣解説板 その6
34 大番所 35 大番所解説板
36 富士見櫓
いよいよ本丸に入っていく。富士見櫓が見える。
今はただの公園の一角にしか見えないところに石碑と説明板が立っている。浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった、「殿中でござる」の事件の現場である。後に浅野内匠頭が切腹を命じられ、赤穂浪士が復讐する事件はあまりにも有名だが、その現場がまさにここだったのである。たった310年前の大事件の現場を目の前にして、なんとなく興奮を覚える。
37 松の大廊下跡 38 松の大廊下跡解説板
39 富士見多聞 40 富士見多聞解説板
江戸城の遺跡が続く。
41 石室 42 石室解説板
そして、青い空の下に天守閣が載っているのを想像させるような曲線を持つ石垣が現れた。江戸城天守閣跡である。
43 天守台 その1 44 天守台 その2
見事な石組みである。
45 天守台 その3
46 天守台解説板 47 天守台 その4
写真47の石が黒ずんでいるのがわかるだろうか。明暦の大火の跡である。
48
本丸御殿解説板
天守台から本丸御殿跡を見下ろすと、現代の感覚で言えばそれほど広いとは思えないこの公園の中に、江戸幕府のほとんどすべてがあったことがなんとも不思議である。
写真49の芝生のあたりに大奥があったということになる。数千人の女性がこの狭い所で生活していたとは信じられない。日本中の美女を集め、何度も映画やドラマや小説の舞台となったあの禁断の大奥が、100数十年前まで、確かにあそこに存在したのである。そのドロドロとしたイメージとは全く違って、今の大奥跡はただの明るい芝生の広場であることに、ものすごいギャップを感じるのは私だけだろうか。
49 本丸御殿跡
50 北桔橋門
天守台の裏の北桔橋門から梅林坂へ向かう。
51 梅林坂 52 梅林坂解説板
53 天神濠 54 平川濠
平川濠、天神濠を経て、平川門を内側からみる。後で外側から見ることになるだろう。
55 平川門
大手門へ戻ろう。
56 汐見坂 その1
ここの石垣も見事だ。
57 汐見坂 その2 58 白鳥濠
59 汐見坂付近の石垣解説板
大手門を出て、内堀通りを再び北へ向かう。
60 大手濠 その1 61 東京消防庁
大手濠の水は綺麗とは言えないが、悪臭がするわけでもない。
62 気象庁 63 大手濠 その2
内堀通りを挟んで、気象庁の反対側に広場がある。大手濠緑地である。ここには、写真64のようにランナーたちがたくさん集まっていた。ここがスタート地点のひとつなのだろう。
64 大手濠緑地和気清麻呂像 65 大手濠緑地震災イチョウ
66
震災イチョウ解説板
67 大手濠緑地から平川橋を望む 68 平川橋
先程内側から見た平川門とそれに続く平川橋である。大奥用の裏門として、また、不浄門として罪人や死人を搬出するのに使われたらしい。大手門が玄関なら、こちらは通用門である。
69 平川橋から大手濠緑地方面を望む 70 平川橋から竹橋方面を望む
通用門といっても立派なものだ。
71 平川門 72 竹橋
竹橋に着いた。ここから北の丸に入る。左手の平川濠の石垣も見事だ。
73 竹橋から平川濠を望む 74 北桔橋から東方向の平川濠を望む
この門はかなり高さがあり、積まれた石垣の見事さは江戸城の築城技術の底力を見せつけている。
門の前で着物で写真を撮ってもらう若い日本人女性を、ハリウッド映画から抜けだしたような外国人の背の高い美男美女のカップル、特に女性の方が、とても羨ましそうに見ていたのが面白かった。
75 北桔橋門と北桔橋門 76 北桔橋からみる平川濠石垣
77 北桔橋から西方向の乾濠を望む
乾門は、江戸時代の門ではない。皇室と宮内庁のための門のようだ。すぐに首都高に入れるようになっている。
78 乾門 79 首都高都心環状線入口
代官町通りを横断して北の丸に入る。ここは公園になっており、一般人も入れるが、左手にレンガ造りの気になる建物があった。美術館の別館であるが、ただの建物ではないらしい。なんと、元大日本帝国陸軍近衛師団司令部だそうである。重要文化財だ。
80 国立近代美術館工芸館 その1 81 国立近代美術館工芸館 その2
82 国立近代美術館工芸館 その3
83 北の丸公園から千鳥ヶ淵を望む その1 84 北の丸公園 その1
北の丸公園の西側はベンチがあり、千鳥ヶ淵が見える。しかし、かなり高度差があるようだ。
85 北の丸公園 その2 86 北の丸公園から千鳥ヶ淵を望む その2
北の丸公園の目玉は、泣く子も黙るあの日本武道館である。武道館という名前の割には、武道というよりも、コンサート会場として名高い施設である。武道館で公演をやるということは内外問わず、それなりの動員ができる一流ミュージシャンの証明のような事になっている。
今日は、若くて、黒っぽい服装をして、顔のどこかに金属でも刺さっていそうな感じの女の子が多い。よく見ると、ViViDと書いてあるので、これがバンド名だろう。
後で調べてみると、若手ビジュアル系バンドらしい。PVを見てみると音楽性はどこかで聞いたような相変わらずのよくあるバンドだが、確かにビジュアル的にはViViDである。武道館でやるということは結構売れているということだろう。
87 日本武道館 88 田安門
しかし、徳川幕府が、顔中に穴を開けて奇抜な格好をしている若い女の子が江戸城田安門に並んでいるのをみたら、ペリー来航以上のショックを受けるだろう。
田安門のある武道館から東側に回りこむ。見える濠は牛ヶ淵である。
89 北の丸公園から牛ヶ淵を望む 90 清水門
清水門もなかなか立派な門だ。竹橋に戻って再び内堀の外周の内堀通りを歩く。ここは、清水濠である。
91 北の丸公園から清水門と清水濠を望む 92 清水濠外周(内堀通り)
93 内堀通りから清水門を望む
清水門の外側に着いた。
94 清水門解説板
清水門橋から見ると、内堀の外側よりも江戸城側がかなり高くなっていることがわかる。
95 清水門橋から東方向の清水濠を望む 96 清水門橋から西方向の牛ヶ淵を望む
明治時代から清水門の姿はあまり変わっていないようだ。
97 旧江戸城写真帖「清水見附」(1871) 98 写真97と同じアングルの現在
ここから、内堀通りは内堀と離れ、その間に建物が建っている。千代田会館ビルには、ラジオでよく聞くあの「日本道路交通情報センター」があった。となりは九段会館、日本遺族会が入る立派な建物である。ここは、旧軍人会館であり、二・二六事件では、ここに戒厳司令部が置かれた。さらに、3月11日の東日本大震災では、天井が崩落し、2名が死亡、26名の重軽傷者を出し、廃業したらしい。
99 千代田会館ビル 100 九段会館ビル
101 藩書調所跡 102 田安門橋から東方向の牛ヶ淵を望む
田安門である。コンサートにくる若者たちで賑わっているここが、内堀の最北端になる。一番山側になるが、特に水が流入している場所は見当たらないようだ。
103 田安門 104 田安門から西方向の千鳥ヶ淵を望む
105 九段坂上常燈明台 106 靖国神社
写真105は灯台である。灯台は海岸沿いにあるのが普通であるがなぜここに... 明治時代はここがもっと高台であり、すぐ近くまで海だったからである。
107 千鳥ヶ淵緑道
最北端を過ぎて、内堀は南へ下っていく。
108 千鳥ヶ淵解説板
内堀の最北端西側は、千鳥ヶ淵である。桜の名所だ。先程は北の丸公園側から見たが、今度は反対側から千鳥ヶ淵を見ると、石垣と土塁が高く、江戸城の防御力の高さを誇示している。
109 千鳥ヶ淵 110 千鳥ヶ淵ボート場
111 千鳥ヶ淵と都心環状線 112 代官町通りから千鳥ヶ淵を望む
千鳥ヶ淵の中で首都高はトンネルで地下に潜る。竹橋から続く代官町通りを先程、道路を横断した北の丸公園の入口まで戻ろう。代官町通りの北側のここは、写真113のようにちょっとした緑道になっており、千鳥ヶ淵の南側を歩くことが出来る。
113 代官町通り北側の緑道 114 国立近代美術館工芸館
代官町通りを横断して、今度は道の南側を東方向に戻る。皇居一周のコースは、北の丸公園は一周せず、この代官町通りの南側を通っているようだ。ランナーが途切れない。一体、何人の人が皇居を走っているのか、多分ものすごい数になるだろう。代官町通りの南側、塀の向こうは、皇居になっているので、写真116のように警備が厳重である。
115 代官町通り 116 代官町通りの皇居警備施設
代官町通りを過ぎると、半蔵濠になる。相変わらず迫力のある姿である。このあたりの内堀は、運河のような大手濠などと比べて遙かに雄大で立体的である。その理由は、北側の内堀が自然の地形、すなわち谷戸や川を利用したものであるかららしい。
117 半蔵濠 その1 118 半蔵濠 その2
服部半蔵の名前がついた門の橋は高い土塁になっている。
119 半蔵門遠望 120 麹町高等小学校校舎跡
正面は皇居で立入禁止だが、特に半蔵門橋の南側、桜田濠側は非常に高度感があり、雄大な景色といっても差し支えないだろう。写真119と122を見比べると、半蔵濠と桜田濠との間の水面の高さにもかなりの差があることがわかる。
121 半蔵門正面 122 南側からみる半蔵門橋
東京に写真123のような素晴らしい景色が広がっていたことをこの歳まで知らなかった。人生の感動の半分を知らずに過ごしてしまったことを心から後悔する。実際の景色は、写真よりもずっと壮大である。
この景色を見ながら走れるのが、皇居がランナーたちに愛される理由の一つかもしれないことに気がつく。
123 半蔵門橋から南方向の桜田濠を望む
124 国道246号線起始点 125 246起始点から桜田濠を望む
126 柳の井戸跡 127 桜田濠 その1
桜田濠の正面には外桜田門。その向こうには、丸の内のビル群がそびえ立つ、現代と過去が融け合った不思議な光景である。
128 桜田濠 その2
右手は霞ヶ関の官庁街だが、ここで道路を渡って寄り道をする。この道は通称内堀通りだが、正式には半蔵門から先は何と国道20号線になっているらしい。
129 霞が関合同庁舎3号館 130 桜の井
道を横断すると桜の井である。彦根藩邸でもある。井伊直弼はここに住んでいたのである。
131 桜の井解説板
公園の入口で貴重な住居表示を見つけた。永田町一丁目1番地である。なんだか日本の政治を左右しそうな場所である。が、目的の場所はここではない。その先にある日本水準原点である。このサイトも地図を多用しているが、全国の地図ヲタク...いや、地図マニアの聖地だ。
132 永田町一丁目一番 133 日本水準原点
134 日本水準原点解説板
写真134の下から3行目が修正されているのにお気づきだろうか。2011年3月11日の地殻変動でここ東京の標高も変わってしまったということらしい。
135 日本水準原点標庫解説板
濠に戻る。右手にある変形ビルに見覚えのある方も多いと思う。刑事ドラマで「桜田門」といわれる、そう、お馴染みのあの警視庁である。警視庁は、名前からすると中央官庁のように思われるが、全国の警察を統括するのは警察庁で、警視庁は東京都を所管する地方警察に過ぎない。要するに、東京都警察本部なのである。しかし、本部長は「警視総監」という特別の名前の警察官の最高ポストになっている。ちなみに、警察官出身者の最高ポストは警視総監よりも偉い警察庁長官であるが、身分上は警察官ではないそうである。霞が関は中央官庁街であるが、警視庁は地方組織であるにも関わらずなぜか霞が関にあることをみても、特別扱いされていることがよくわかる。やはり、皇居や国家の中枢機関などがある首都を守る機能が重要視されているのだろうか。
道路を挟んで反対側にあるレンガのクラシックな建物は、旧法務省である。
136 警視庁 137 中央合同庁舎6号館赤煉瓦棟
138 外桜田門標識 139 桜田濠越しにみる国会議事堂
地形が平坦になってきた。外桜田門の標識がある。桜田濠の向こうに日本の歴史を変えることになった事件の舞台のあの門が見える。
140 桜田門橋から凱旋濠を望む 141 外桜田門 その1
桜田門橋を渡ると、警視庁ではなく本物の桜田門、正式には外桜田門がある。幕末の大老井伊直弼が暗殺され、江戸幕府が瓦解していくきっかけとなったあの桜田門外の変の舞台である。152年後の今、その現場に立っている。写真130の井伊家屋敷からここまでは歩いてもすぐの距離である。大手門に匹敵するようななかなか立派な門だ。
142 外桜田門 その2 143 外桜田門解説板
写真144は、井伊直弼が死の直前に仰ぎ見たかもしれない、真下から見た桜田門の姿である。もちろん、ピンク色のウェアを着た若い女性はそんなことを気に留める風でもなく、軽快に走り去っていく。
144 外桜田門 その3 145 外桜田門 その4
146 外桜田門の桜田濠 147 桜田濠を二重橋方面へ進む
外桜田門を入って左に曲がると、やがて二重橋である。皇居の象徴的な風景としてあまりにも有名である。ここの濠は二重橋濠である。
148 二重橋(石橋)と伏見櫓
外国人の姿も目に付く。我々が外国の王宮を観光するのと同じ感覚だろう。
149 皇居正門 150 記念写真を撮る子供
皇居前広場からみる近代的な丸の内のビル群は、重苦しい幕末の歴史とは別世界の蜃気楼のようである。
151 皇居前広場と丸の内ビル群 152 楠正成像
本当はさらに北に向かい、坂下門を見るべきであったが、失念して楠正成像から外桜田門に戻ってしまった。坂下門外の変は、井伊直弼の後に幕政を担当した安藤信正が襲撃された暗殺未遂事件である。犯人はまたもや水戸藩浪士である。どこまで暴れまわるのか。当時の水戸藩、戦中の日本、そして現代の中国をみるにつけ、教育というものがいかに若者に影響を与え、かつ、重要なものかがわかる。
153 内側から外桜田門越しに外を見る
154 夕陽に染まる外桜田門 155 日比谷濠
桜田門橋を過ぎると凱旋濠、祝田橋を過ぎると日比谷濠である。このあたりの内堀は、海を埋め立てたためか、直線的で平坦である。陽が傾いて、ビルが赤く染まってきた。
156 第一生命ビルと帝国劇場 157 日比谷側から北方面日比谷濠を望む
日比谷濠が左に90度曲がる地点に、写真158のような排水口らしき水門を見つけた。ここから、海に向かって流れ出る感じである。
158 日比谷濠排水口? 159 明治生命ビル
160 馬場先門から北方向の馬場先濠を望む
濠沿いに帝国劇場や生命保険会社の豪壮なビルが並ぶ。
161 夕暮れの皇居外苑
和田倉門に帰ってきた。東京海上ビルの赤いレンガが夕陽に照らされてさらに赤く輝いている。
162 和田倉門から見る夕日 163 赤く染まる東京海上ビル
164 和田倉橋解説板
16時30分、和田倉橋で内堀一周が完了である。
165 和田倉濠 166 東京銀行協会ビル
東京駅に向かう途中に大手生命保険会社から黒いスーツの若者がたくさん出てきた。来春採用される社員だろうか。
167 日本工業倶楽部 168 日本生命本社玄関
本日のGPS歩行記録 (時間:6h7m 距離:24.9km 累積標高:+1063m -1243m)
内堀を一周したが、全てを網羅的に歩いてみると一日がかりでかなりの長距離の行程になった。内堀は、自然の河川ではなく、江戸城の遺構そのものなので、今回はさながら江戸城史跡巡りの様相を呈したが、それはそれで新たな発見も多く、楽しめるものであった。特に、様々な歴史の大舞台の現地に自分が立っている感覚は新鮮である。景観的には、西側の千鳥ヶ淵から桜田濠にかけての雄大な濠は、初めて見る素晴らしいものであった。東京の絶景と表現してもおかしくない。江戸時代の富と土木技術を惜しみなく投じた、当時の最高権力者による壮大な作品が、当時とあまり変わらない姿でこの都心に残っていることに感動さえ覚えるほどである。
さて、当初の目的であった、内堀の水源と流出先は、今回の現地調査ではよくわからなかった。それは、朝日マリオンコムの記事の抜粋で答えに替えたい。
江戸城の堀の水はどこから来ているのでしょう? 江戸城構築以前からあった池や沼を生かして作った堀では、そのもともとの水源で水量を維持できますが、人工的に作った堀では、その水源も確保されていました。江戸城の構築当初がどうだったかはよくわかりませんが、玉川上水ができてからは、外堀も内堀もその余った水を使っていました。
内堀は半蔵門が境で、北は千鳥が淵から牛が淵に注ぎ、日本橋川から隅田川に向かっていたようです。南は桜田堀から日比谷堀に、また本丸あたりの堀の水も平川堀あたりから日比谷堀に流れ、やはり築地川から江戸湾へ注いでいました。今は日比谷堀と築地川はつながっていませんので、日比谷堀からは都の下水道に流れています。
しかし1965年に玉川上水方面から取水していた新宿の淀橋浄水場が廃止されると、細々と続いていた堀への水の流入が止まり、次第に水質の悪化が問題となってきました。そこで環境庁は、95年に内堀の浄水施設を完成させました。馬場先門跡のところで日比谷堀の水を取水し、先ほど話した外苑内の浄水施設で水をきれいにします。浄化方法はプラスチック製の濾過材で藻などを除去するというもので、アオコなどの繁殖が旺盛な4月から11月のみ運転しています。浄化された水は導水管を通って半蔵門まで運ばれ、そこから放水しています。一部は桜田門の裏あたりからも放水しています。
http://www.asahi-mullion.com/column/edojyou/90202edojyou.html
より抜粋
(本日の歩数:32502歩)
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