神奈川県一周   現在、横浜市・町田市の県境を踏破中             
◆第18日目(2011年1月30日) こどもの国駅 〜 南町田駅        

  

 前回は、こどもの国駅から出発して、再びこどもの国駅に戻るという前代未聞の事態になってしまったが、これも複雑な尾根と多摩丘陵の村々の長い歴史が今も色濃く反映している、現在の県境のなせる技ということにしておこう。
 今日予想される行程は、複雑に絡み合った県境が一段落して、南へ向かった後、横浜インターから西に向かい、境川に到達するというものだ。どこまで行けるかわからないが、出発である。よく晴れた休日の朝だ。

  1 こどもの国駅                   2 こどもの国駅前桜並木
   

 出発の前に、駅前からこどもの国に通じる写真2の道を紹介しておこう。なかなかいい感じの桜並木である。周りよりも一段高い堤になっているのがわかるだろうか。
 こどもの国は、旧陸軍の弾薬庫であったことはすでに書いたが、その軍用路線の一部を旅客用に転用したのが現在のこどもの国線である。Wikiによると、この桜堤が弾薬庫への引き込み線跡らしい。確かにいかにも廃線跡という雰囲気である。あと1時間もすると、この戦争遺跡の上を、たくさんの子供たちが、こどもの国への足取りも軽く歩いていくだろう。平和とはそういうものだ。などと、朝からのんきなことを考えるが、そろそろ本題に戻ろう。



 駅前を東にそのまま真っすぐに進むと、県境の尾根の切通しに着き、左手の階段を登って県境に復帰する。

 3 こどもの国駅前メインストリート            4 切通の階段
   

 左手の神奈川県側は尾根の林、右手の東京都側は住宅地である。ここまでの印象では、県境の尾根の自然は、東京都側では住宅開発により破壊されているケースが多いように感じる。多摩ニュータウンが近く、開発圧力が強かった地域だったせいだろうか。したがって、今後、県境の尾根にのこされたわずかな自然を守っていくためには、神奈川県側の努力がより重要だということになる。

  5 青葉区奈良・町田市成瀬台の都県境尾根道 その1  6 都県境石杭
   



  7 奈良・成瀬台の都県境尾根道 その2         8 奈良・成瀬台の都県境尾根道 その3
   

 たとえこのように市街地の近くにあって標高が低いといっても、尾根を歩くのはなかなか楽しい。大袈裟に言えば、下界を見下ろしながら広い空の下をどこまでも歩くといった感じだ。

  9 尾根から横浜市側のマンション敷地を見る      10 尾根の小さな教会 
   

 小さな教会があり、尾根の緑と眺めの良さによくマッチしている。


  11 不思議な温室                  12 奈良・成瀬台の都県境尾根道 その4
   

 町田市側の不思議な温室をすぎると、写真12のように周辺が少しワイルドになる。



 舗装道路から、写真13の登山道のような登りにかかる。標識によると、成瀬尾根1号緑地というらしい。

  13 成瀬尾根1号緑地 その1            14 成瀬尾根1号緑地 その2
   

  15 成瀬尾根1号緑地 その2            16 保護された都県境石杭
   

 マムシやスズメバチがいるらしくなかなか緑深いところである。ここだけは、奇跡的に都県境の両側ともに開発から免れているようだ。

  17 成瀬尾根1号緑地 その3            18 マムシ注意の看板
   

  19 成瀬尾根1号緑地 その4            20成瀬尾根1号緑地 その5
   

 休日の朝ということで、結構歩いている人がいる。

  21 風の広場                    22 電波塔
   

 尾根の定番、携帯電話の電波塔もある。



  23 尾根から横浜市恩田町を望む           24 成瀬尾根1号緑地 その6
   

 木々の中を快調に歩いていると、前方に家が見えてきた。山道は終りである。住宅地に出てすぐに、右手が開けた。成瀬山吹緑地である。

  25 成瀬尾根1号緑地 その7            26 成瀬山吹緑地 その1
   

  27 成瀬山吹緑地 その2
  

 町田市側に大きく展望がひらけている。おじさんとおばさん3人が展望を楽しんでいた。写真を撮りながら、おじさんの話をそれとなく聞いていると、ここが映画のロケに使われたらしい。町田市の新興住宅地を舞台とした、ホームカミングという映画である。

 28 成瀬山吹緑地から奥多摩方面を望む


 映画に使われるのも納得するほど素晴らしい展望である。街中の県境の尾根といえども侮れない。

 29 成瀬山吹緑地から丹沢方面を望む


 写真30の左手は、横浜市側のあかね台住宅地の最上部に当たる。ここに並ぶ家に住む人は横浜市に税金を払っているはずだが、この素晴らしい景色を提供してくれる緑地の設置者である町田市に心から感謝すべきだろう。

  30 成瀬山吹緑地 その3              31 成瀬山吹緑地 その4
   



 緑の尾根もそろそろ終りが近づいてきたようだ。住宅地の末端で、階段になり、県境はそのまま緑の崖を急降下しているため、道路はない。迂回して、写真33の幹線道路に出る。標識の左にある崖が尾根の末端、つまり県境である。

  32 青葉区恩田町の階段               33 川崎町田線県境標識
   

 崖の下には、恩田川が流れており、県境も川に向かう。

  34 川崎町田線・恩田川間の都県境          35 恩田川の都県境標識
   

 2年ぶりの恩田川だ。県境は川に突き当たった後、左折して川沿いに東へ続いている。

  36 恩田川標識                   37 恩田川の都県境を東へ
   

 しばらく川沿いに進み、下水処理場の敷地が終わったところで県境は恩田川を離れて南へ向かう。ここは横浜市青葉区と緑区の境界でもある。

  38 恩田川沿いの横浜市青葉区・緑区・町田市境界   39 恩田川から南へ
   



 左手は土地が小高くなっており、木が生い茂る、いかにも県境といった感じの所だ。その緑が道路で途切れたところに、写真41,42の忠魂碑と石仏が建っていた。

  40 尾根の緑地                   41 日露戦争忠魂碑
   

 写真41は、日露戦争で戦死した中里好治という兵士を悼む碑である。横にある手作りっぽい説明板によると、この人が参加した旅順攻略作戦は無謀なもので、乃木将軍率いる司令部が無能であっため多くの犠牲者が出たというようなことが書かれている。かなり感情の入った過激な文章である。しかし、この作戦で、無謀な突撃を行って約6千名の戦死者を出し、現在でも乃木将軍の評価が分かれているというのも事実である。

 42 原嶋源右衛門の死刑執行の場所
   

 その横には、写真42のとおり、地蔵のようなものが建っていた。原嶋源右衛門という人が処刑されたという場所だそうで、ここにも、日露戦争忠魂碑の解説板と同じ人が書いたと思われる解説板があった。その概略は次のとおりである。

 
成瀬村の名主、原嶋源右衛門が、成瀬村と長津田村にまたがる葦沼という湿地帯を努力のすえ、新田として開発した。しかし、それを妬んだ長津田村から境界問題でクレームがつき、話し合った結果、一部を長津田村に譲って、境界を確定することで決着したと思われた。ところが、奉行所がこれに横槍を入れ「公儀をたぶらかした」として、原嶋源右衛門を罪人に仕立て、1716年に通称がけ山と呼ばれるこの場所で打首、一家断絶となった。その背景として江戸の発展と幕府の財政問題、それに関連した土地紛争の多発があり、紛争鎮圧のための見せしめとして犠牲になった。

 
しかも、この過激な説明文には、筆者の住所氏名まで明記されている。町田市成瀬の中里猪一という人である。ここで、ある一致に気がついた。となりの碑の旅順で戦死した人も中里という姓ではなかっただろうか。これは偶然ではないだろう。おそらく、子孫か縁者だ。だとすれば、乃木将軍を非難する理由もよくわかる。司馬遼太郎の小説に影響されたのかもしれない。
 余談だが、各地を歩くと、日露戦争の立派な碑が多いのに気付く。勝利したこともあるだろうが、やはり戦死者が多かったこともその理由だろう。戦死者数でいえば、太平洋戦争の方が桁違いに多いが、その割に碑は多くない。敗戦で戦前の思想や戦争そのものが否定されたこと、戦死者が多すぎたこと、そしてなにより、戦後しばらくは碑を建てるだけの国力が残っていなかったことがその理由だろう。
 
 江戸時代の原嶋源右衛門の話に戻るが、県境となった現在でもここは小高い鬱蒼とした暗い森で、当時も村はずれだったことは、処刑地であったことからも頷ける。しかし、「公儀をたぶらかした」とはどういう意味だろうか。「公儀」とは公権力を指すらしいが、ここでは江戸幕府のことだろう。「たぶらかす」とは「だます」という意味なので、直訳すれば「幕府をだました」ということになる。中里猪一氏の解説では、その経緯は詳しく書いていない。ただ、罪を被せられた、という意味のことが書いてあるだけである。この辺がポイントになりそうなので検索してみると、ここ「町田の民話と伝承第一集」という資料に基づく解説があった。以下、その一部を抜粋させていただく。

 昔、成瀬村の東光寺部落と長津田部落との間に境界争いが起こり、それがもつれにもつれた末、あらかじめここぞと思う場所に、一夜のうちに、有利なように地中に木炭を一列に埋めて境界の証拠とした。幕府の役人を呼んで検地してもらったところ、役人は以後、この境界のむこうを長津田とし、こちら側を東光寺とすることになり、東光寺部落は一応この訴訟に勝った。しかし、 訴訟に勝ったが、この木炭は埋められてからあまり期間が経っていないため、わざと境界を偽ったことが知られてしまった。この結果、首謀者の原嶋源右衛門が 捕らえられ、源右衛門及びその一家は悉く処刑されてしまった。

 これでは、「幕府をだました」と言われても仕方が無いだろう。今となっては、どちらが正しいのかはわからないが、正義は立場によって異なるということか。

 43 原嶋源右衛門屋敷跡
   

 町田市側の住宅地の一角には、写真43のように原嶋源右衛門の屋敷跡があった。ここにも、中里猪一氏の解説板がある。処刑場跡の解説よりもさらに詳しく書いてあるが、要約すると、
「木炭はあくまで両部落の合意のもとに埋められたこと、幕府役人はそれまでの経過を十分承知していたにもかかわらず、役人抜きでの決着が気に入らないか、紛争の多発を鎮めるための見せしめにしたかったのか、とにかく過剰に介入して、境界線変更の責任を原嶋源右衛門に押し付けたこと」
と書かれている。処刑に至った理由付けがちょっと強引だと思うが、それにしても、史跡に住所と実名入りで解説板を立てるというのもよほどの人物である。普通は地元の教育委員会あたりが、解説板を建てることが多いはずである。そもそも公有地であれば、私設解説板の設置そのものが許可されないだろう。
 そこで、中里猪一という人について、検索してみた。こういう時にネットは便利である。
 結論から言うと、この人は自民党所属の元町田市議会議員で議長もやった方らしい。これで納得である。地元の偉い人であれば、実名入りの解説板を建てたり、地元の歴史の遺恨を後世に伝えようとする行動も理解できるというものである。
 ちなみに、原嶋源右衛門の事件の発端となった新田というのは、先ほど通った下水処理場のあたりらしい。



 さて、県境は、怨念渦巻く処刑場跡の角を左折し、写真44の角を今度は右折する。

  44 右折する県境                  45 南へ向かう県境 その1
   

 やがて、県境の道は、写真47の地点で東急田園都市線の車庫に突き当たる。

  46 南へ向かう県境 その2             47 東急電鉄長津田車庫の突き当り
   

  48 長津田車庫                   49 車庫を越える陸橋
   

 県境は車庫の中に入るので、陸橋を迂回する。

  50 橋上からみた県境                51 横浜線東光寺踏切
   



 横浜線を越えて、再び県境に復帰する。

  52 横浜線南側の県境                53 横浜線から南へ
   

 普通の住宅地を抜けると、県境が田園都市線で分断される。後から鉄道が出来たので仕方がない。

  54 東急田園都市線                 55 つくし野駅
   

 つくし野駅を確認してから、田園都市線の反対側に回りこむ。

  56 田園都市線東側の県境              57 南へ向かう県境
   

  58 民家に突き当たる県境              59 長津田町・つくし野付近の県境標識
   

 写真58と59の間には、道路はなく、県境は民家の敷地の間を抜けている。



 東急の車庫以来、鉄道や住宅開発により尾根地形と緑が失われていたが、このあたりで復活の兆しを見せる。

  60 森村学園西側の県境尾根 その1         61 森村学園西側の県境尾根 その2
   

 学校の敷地の中に入った県境は、立ち入ることはできないものの、緑の尾根地形をはっきりと見せるようになった。

  62 森村学園西側の県境尾根 その3         63 森村学園西側の県境尾根 その4
   

 住宅地の中を尾根を横目に見ながら進むと、写真65の階段になる。階段の左側が県境だ。

  64 森村学園西側の県境尾根 その5         65 森村学園西側の県境尾根 その6
   



 つくし野4丁目の住宅地に入る。尾根の斜面まで住宅が建っており、その上の尾根をたどる道は残念ながら無いようだ。住宅の隙間から、尾根の緑が時々顔をのぞかせる。

  66 つくし野4丁目付近 その1           67 つくし野4丁目付近 その2
   

 住宅地の途中に尾根に登る階段があった。いつものパターンであるが、ここでも住宅が密集する東京都側と比べて、神奈川県側は広々としている。まるで県境の尾根が、必死に開発の波を食い止めているような感じだ。

  68 尾根に登る階段                 69 尾根の県境から北方面を望む
   

  70 尾根の県境から南方面を望む           71 国道246号線合流地点から尾根を振返る
   

 尾根が終わった。というよりも国道246号線の建設によって、尾根が無くなってしまったというのが正解だろう。



 しかし、国道の向こう側には、林があり、尾根の痕跡を残しているようだ。さっそく歩道橋で246の南側に渡る。

  72 国道246北側から南側の県境尾根を望む      73 歩道橋からみた北東側の県境
   

 こちら側には、道路の横にまだ尾根の緑が残っていた。横浜市側にはフィールドアスレチックがあり、県境の尾根にそびえる木の塔の上で子どもたちが歓声を上げていた。
 尾根はここでU字型に反転して、県境とともに写真75のように再び246号線を渡る。この写真では、尾根が国道で分断されているのがよくわかる。

  74 246号線南側                   75 歩道橋からみた南西側の県境
   

 尾根は再び上り坂になり、写真77のような広々とした景色になる。馬の背というそうである。

  76 246号線西側から続く県境            77 馬の背 その1
   

 この馬の背という尾根の県境からの眺めはなかなか良い。右側の斜面は田園都市線によってスッパリと削り取られている。

  78 馬の背 その2                 79 尾根から見る丹沢山地
   

  80 尾根の不法投棄                 81 国道246号線へ下る
   



 東工大入口から県境はほぼ246号線沿いになる。

  82 東工大入口                   83 すずかけ台駅
   



  84 国道246号線の県境               85 辻の県境標識(神奈川県側から)
   

 その名のとおり、辻という四ツ角についた。ここで県境は246号線を離れ、直角に左折する。

  86 辻の県境標識(東京都側から)          87 辻から南へ
   

 県境の道を直進すると、横浜町田インターチェンジにぶつかった

  88 東名横浜町田IC付近 その1           89 東名横浜町田IC付近 その2
   

 県境は今度は国道16号バイパス沿いに東へ向かう。インターチェンジの中にこのような複雑な歩道があるとは思っていなかった。しかし、これでは、地元の人は、インターの向こう側に行こうとするだけでも一苦労だろう。

  90 東名横浜町田IC付近 その3           91 東名横浜町田IC付近 その4
   

  92 東名横浜町田IC付近 その5           93 東名横浜町田IC付近 その6
   

 県境はなぜかこのあたりのバイパス上でV字型に折れ曲がって逆方向に進んでいく。なぜこのような形になったのだろうか。



 V字反転した県境は、写真94のあたりで道路から左斜め方向に入っていくが、残念ながら並行する道はない。

  94 東名横浜町田IC付近 その7           95 東名横浜町田IC付近 その8
   

 ホテルや建設中の物流センターを抜けて東名高速の手前を右折する。

  96 Water Hotel                  97 水道みち
   

 横浜市営水道の幹線が埋まるを水道みちを過ぎて、斜めにショートカットしてきた県境に合流し、さらに地下道で東名高速道路を潜る。

  98 東名高速道路沿いの県境             99 地下道で東名の向こう側へ
   

 東名に分断された県境は、写真100の生活道路とともに西へ進む。なぜこんな生活道路が県境になっているのだろうか。謎であるが、ひょっとすると、古い街道なのかもしれない。

  100 東名から246号線へ その1          101 東名から246号線へ その2
   



  102 東名から246号線へ その3          103 大山街道の県境標識
   

 県境は大山街道と国道246号線を越える

  104 国道246号線の県境標識 その1        105 国道246号線の県境標識 その2
   

 246を横断するために、東京女学館大学前の歩道橋まで大きく迂回させられた。

  106 歩道橋上から南の県境を望む          107 国道246号線の県境標識 その3
   

  108 国道246号線の県境標識 その4        109 246号線から境川へ
   



 境川の直前で道は、県境を少しだけ右に外れたが、2011年1月30日、13時18分56秒、写真110の地点、すなわち境川に無事到着した。矢野口で多摩川に別れを告げて以来、延5日間の長い長い多摩丘陵を横断する県境の旅の終着点である。少しだけ達成感が胸をよぎる。

  110 境川到着                   111 境川からみた県境
   

  112 境川を北へ その1              113 境川県境標識
   

 県境の標識を確認して、境川を上流へ向かう。旧河川流路の蛇行により多少の食い違いはあるが、県境はここからほぼ境川に沿っている。
 写真115の地点で川沿いのサイクリングロードが通行止めになっていたが、一向に悔しくない。なぜなら、ここから川をそれて、今日の最終目的地である南町田駅に向かうからである。

  114 境川を北へ その2              115 通行止め地点
   

  116 グランベリーモール              117 南町田駅
   

 華やかなアウトレットモールを通って、南町田駅に着いた。



 さて、ついに境川に達した神奈川県一周の旅であるが、ここから県境は境川という新たなステージに入る。この先は古くから相模と武蔵の国境でもあった、歴史のある県境である。境川とともに県境は、はるばる津久井山地まで相模原台地を北上していくのである。そこは境川の源流地帯でもあるのだ。
 しかし、お気づきの方もいるかも知れないが、実は、その境川は
2007年にすでに踏破している。したがってここから先のレポートは下記の境川探訪に引き継ぐことにしたい。境川に到達したときに達成感を感じたというのは、これが理由である。

 次回の県境の旅はいつになるかわからないが、境川の源流から上の津久井の奥深い山が、その舞台になるはずである。

 (本日の歩数:30032歩)

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