旧玉川 (きゅうたまがわ) 探訪 追加調査編        

 河川の氾濫を防ぐため人工的に流路を変えた新玉川の開削により消えた幻の川の痕跡を辿る
◆2013年3月16日 厚木市小野地区

 旧玉川探訪をネット上で公開してから、10日ほど経った時、ある読者の方からゲストブックに一つの情報がよせられた。旧玉川流路の小野橋より上流部分、2月21日に筆者が辿ったルートは正しくないのでは? という指摘である。根拠として、推定した流路のカーブが不自然なことと、昭和27年に米軍によって撮影された航空写真の痕跡が挙げられていた。実は、前者については、筆者も同感で気になっていた。それに、最上流部分である金井橋下流の旧河川跡の道路と古い家との位置関係もなんとなくしっくりこないものを感じていた。しかし、他に流路が想定できる場所がなく、途中で石碑という動かぬ証拠を発見したので、結果オーライでルートを推定したわけである。問題の航空写真は、新玉川開通後に撮影されたものなので決定的な証拠にはならないが、確かにそれらしき影が写っている。

 徹底した現地現場主義、実証主義が唯一、かつ最大のストロングポイントであるこのサイトの最高責任者(いつから就任したの?...)としては、放置しておく訳にはいかない。しかし、闇雲に現地を再訪しても、新たな証拠が見つかる可能性は低い。
 旧玉川の実際の流路を調べるにはどうしたら良いだろうか。航空写真をネットで探したが、戦前のものはない。そりゃそうである。仮にあったとしても、当時の日本にとって最高機密だろう。連合国側に渡ったら、大変なことになる。同じ意味で、地図も同様である。戦前の地図は陸軍が作成して、非公開であったことは常識である。

 しかし、天は私を見捨てなかった。ネットでさらに検索すると二筋の光明が差したのである。一つは、「明治前期関東平野地誌図集成」という戦前の地図集が資料として刊行されていたことである。もう一つは、「玉川河川水害史」という地元郷土史家の書いたローカル本だ。もちろん、どちらも世界最大の書店であるAmazonからでさえ、手に入れることは不可能である。しかし、現場主義なら可能である。直接厚木図書館へ足を運んで、二つの本を探した。といっても、こんな特殊な本は素人では探せないので、図書館の人に頼んで懸架場所を教えてもらう。

  1 明治前期 関東平野地誌図集成                 2 玉川河川水害史
         

 地図コーナーの最下段の端にあった「明治前期 関東平野地誌図集成」は、やたらと大きく重い。閲覧テーブルで広げると、となりでのんきに漫画を読んでいる人の邪魔になるくらいデカイ。1880(明治13)年〜1886(明治19)年の地図集で参謀本部陸軍部測量局作成参謀本部陸軍部測量局作成の「第1軍管地方迅速測図」と第1師団司令部作成補足図を集成したものらしい。100年前の南関東全域を網羅しており、1992年の刊行、定価は147,000円である。たとえAmazonに在庫があったとしても、私の安月給ではとても買えない値段である。
 もう一冊の本は、さすがに地元だけあって、複数用意されていた。それにしても、今日ほど図書館の有り難みを実感したことはない。しかも、厚木市民でもないのに、閲覧はタダである。地図は大きすぎてコピーが出来ないが、こんな事もあろうかと、ちゃんとカメラを用意して来た。

 前振りが長くなったが、さっそく明治の地図で小野地区の旧玉川を確認してみよう。

 3 関東平野地誌図集成 小野村付近


 これではわかりにくいので、二つの資料をほぼ同じ縮尺と範囲で比較したのが、4と5である。

  4 関東平野地誌図集成新玉川起始部         5 玉川河川水害史新玉川起始部
  

 両方共ほぼ一致しているので、間違いなさそうだ。そして、現在の地形図が6である。わかりやすいように、7で前回の調査において私が推定し、実際に歩いた流路跡を赤線、地図で実証された本当の流路跡を水色で示した。

  6 4,5と同じ場所の地形図             7 旧玉川推定流路の検討
  

 ご指摘をいただいたとおりである。実際の旧玉川は、現在の玉川駐在所(地形図の右岸×印)の上流から北東に向かっていたのである。米軍撮影の航空写真のとおり、昭和27年には、まだその痕跡が現地に残っていたのだ。

 ここまでわかればもう迷う必要はない。行動あるのみだ。さっそく現地へ飛ぶ。(とはいっても飛行機で行ったわけではなく、乗ったのは神奈中バスであるが...)
 明治の地図によると、新旧玉川の分岐点は、神明橋の下流にある写真8に写る小さな堰のあたりだ。電信柱あたりで右へ流れていたことになる。

 8 推定新玉川起始部(厚木警察署玉川駐在所付近)から上流を望む


  9 8の地点から流路跡を望む             10 旧玉川流路跡から新玉川起始部を望む
   

 写真9がそこから旧玉川の下流に向かって撮ったものであるが、完全に周囲と同化した平坦な農地になっており、何の痕跡もない。言われなければ、ここに川が流れていたことは絶対に予想できそうもないほどの変わり様である。それは、「玉川河川水害史」にある資料を見ると謎が解ける。現代なら、公園か緑道になるはずだが、当時の食糧事情から農地として払い下げてしまったのである。農地なら整地するのは当然だ。

 資料 旧玉川河川敷の土地利用 
 玉川の改修工事や耕地整理事業がようやく終わった戦後の日本の食糧事情は、戦中以上の困窮がつづき、ひたすら食料確保が大事であったので、旧玉川河川敷を利用して食糧増産方策を打ち出したらどうかと当時、亀井善彰氏が神奈川県経済部参事の要職にあって、近藤知事に進言したところ即決され、その決定は玉川沿岸各町村に伝えられた。小野地区においては、耕地整理事業の換地処分にからめ、旧玉川河川敷はそれぞれの関係者に配分された。当時、旧玉川河川敷の関係町村の総面積は、24町歩(約24ヘクタール)に及ぶ広さであり、この事業を推進させた亀井善彰氏に深甚なる敬意を表するものである。(「玉川河川水害史」より抜粋)

 亀井善彰氏の名前は、籠堰橋近くで出会った老人の話にも出ていた。後に参議院議員を務めたはずであるが、この事業を成功させた功労が当選を後押ししたのだろうか。確か子と孫も国会議員だったと思う。

 1本入った道から逆に新玉川方面を写したのが写真10である。やはりただの田んぼだ。



 そして、旧玉川跡だと睨んだのが写真11の一段高くなった集落と農地の段差のカーブである。あの縁を旧玉川が流れていたに違いない。

 11 旧玉川流路跡の集落と段差


  12 集落 その1                  13 流路跡に立つ家
   

 その集落と畑の境界に近寄ってみた。写真12である。そこにちょうど一人の老人が通りかかったので、確認してみることにした。日本昔話では、こういう時は地元の古老に聞くのがお決まりである。その老人は、若く見えたが、なんと年齢は87歳だそうで、まさに玉川改修をリアルタイムで経験された世代である。

 まず、旧玉川と新玉川の分岐点について聞いてみると、事前地図調査のとおり、写真8の「白い壁」のところ、つまり、SUZUKIの広告のある白い看板のあたりからこちらに向かって流れていたそうである。堰のあるところだ。
 次に、旧玉川はどこを流れていたのか確認してみた。この段差の低い部分を流れていた、という答えを予想していたが、それは見事に裏切られた。なんと旧玉川は、写真11や12に写っている集落、農地よりも高くなっていて現在家の建っているところを流れていたというのである。勘違いかと思ったが、そうではなかった。なぜなら、この方は、この集落の家に現在も住んでいるからだ。玉川村を襲った昭和16年の洪水のあと、このあたりの人たちは一旦、背後の丘の上に引っ越したらしい。そして、新玉川が改修された後しばらくして、洪水の危険性が無くなったことがわかったので、旧玉川の河川跡を払い下げてもらって、宅地にしたのだという。ただし、この老人は、当時独身の若者で、父親が土地を得て家を建てたそうだ。

 家が建った時期はいつ頃だろうか。読者から紹介された昭和27年撮影の米軍航空写真では、流路跡が残り、家は建っていない。「玉川河川水害史」の年表によると、昭和28年2月に玉川村小野耕地整理組合の換地登記が完了したと記載されているので、宅地になったのはそれ以降だろう。住民は、昭和16年の被災から少なくともその頃までの10年以上にわたって、丘の上での不自由な生活を強いられたことになる。

 川の跡なのに、なぜ周囲よりも高いのか、聞いてみた。それは、土砂が堆積して、川が高くなっていたからだという。つまり天井川だったわけだ。ここで、下流の玉川緑道も同じ状況だったことを思い出した。天井川の堤防間を埋め立てれば、周囲よりも高い土地になることは、当たり前である。前例を見ていたのに、河川跡は低い土地にあると勝手に思い込んでいた自分の馬鹿さ加減に呆れてしまった。写真11のあのカーブの段差は、旧玉川の南側堤防斜面の名残だったのである。農地よりも高い土地だったため、洪水に対する安心感もあってみんな家を建てたそうだ。東へ向かう旧玉川は、写真13の2軒の住宅のあるところを流れていたという。

 その他に、重機がないので鋤で掘ったとか、色々話してくれた。概ね、すでに聞いたり調査したとおりだったが、完成時期については、昭和23年頃だったという。「玉川河川水害史」の年表によると新玉川は21年完成だが、灌漑用水など周辺工事は昭和23年までかかっている。戦争中の工事について聞くと、ご本人は出征していたそうである。



  14 旧玉川流路跡                  15 14の地点から下流を望む
   

 すっかり住宅地になった旧玉川跡は、写真14で森の里へ行く道路にぶつかる。その後は、写真15のように丘のふもとを流れて、旧玉川の小町竹橋跡へと続いていく。指摘をしていただいた読者の推定した流路は、ここから南下し、新玉川付近をかすめるものであるが、これは、先ほどの明治地図や資料で否定されるだろう。実際に丘の麓を流れていたのである。

 ここで、当時の様子を記録した「玉川河川水害史」の一部を紹介しよう。

    16 新聞報道
     

    17 堤防決壊場所
   

 18 桜橋より旧玉川と龍鳳寺を望む


    19 中屋の堤防決壊現場
       

    20 復旧工事(中屋地区)
       

 写真にはないが、年表があったので概要を記載しておこう。
 改修工事の起工式は昭和16年10月22日である。洪水が昭和16年7月12日なので、それからすぐに動き出したことになる。それほど切羽詰まった状況だったのだろう。昭和14年に計画ができていたことも大きい。昭和18年2月25日玉川村小野耕地整理組合工事設立、昭和21年4月改修工事終了、昭和28年2月整理組合の換地登記完了という過程で悲願の玉川の付替えが終了している。
 予定では、工事は昭和19年に終了する予定だったらしい。旧玉川の石碑に

 旧玉川は、大山の東側が源で農業用水として大きな役割を果たしましたが、関東大震災後は、降雨の度に河床が高くなりたびたび氾濫して、被害が続出した。かっては美田を潤した川が人命を奪う魔の川となったので、昭和十九年に新玉川が造られた。

 と書いてあるのは、計画上の年を書いてしまったのだろう。碑文にしては文章も稚拙なので、担当の市役所職員がいい加減だったに違いない。

 さて、厚木地理歴史防災学会を二分した旧玉川流路問題も無事解決したところで、「明治前期関東平野地誌図集成」により、さらに下流の旧玉川についてもみておこう。

 写真21は、現在の愛甲石田駅から伊勢原市下落合にかけての地図である。明治初期なので、基本的には江戸時代と大差ないはずだ。現在の駅名となっている愛甲村と石田村が隣り合っている。厚木市街に通じる国道246号線はない。東から来る場合は酒井村からの道を使ったのだろう。比較のために同範囲の現在の地形図も載せておいた。

 21 「明治前期関東平野地誌図集成」より愛甲石田駅付近と現在の地形図の比較




 写真22は、現在の伊勢原市小稲葉から渋田川、歌川、笠張川(旧玉川)の三川合流地点にかけての地図である。右側が玉川、左側が渋田川だ。広大な農地が広がっている点は現在と同じだが、道路はほとんど整備されていない。

 22 「明治前期関東平野地誌図集成」より小稲葉・三川合流地点付近


 写真23は、現在の渋田川から鈴川、金目川の合流地点にかけての地図である。地図右上に「玉川」の名称が記載されている。やはり、前回推定したとおり、渋田川と玉川が合流してから下流は、現在の「渋田川」ではなく「玉川」が正式名称だったのである。左下の「南原村」の文字の左側にあるのが、玉川橋だ。
 中央やや左「中原下村」の文字の上に四角で囲まれた場所がある。これは多分家康が鷹狩に利用した「中原御殿」跡だろう。現在は中原小学校になっている。

 23 「明治前期関東平野地誌図集成」より渋田川・鈴川・金目川合流地点付近と現在の地形図の比較




 「明治前期関東平野地誌図集成」の原図である「第1軍管地方迅速測図」であるが、後日、ネット上でも見られることがわかった。こちらである。便利な世の中になったものだ。

 熱心に読んで誤りを親切に教えてくれる読者のおかげで、旧玉川に関する事実をより詳しく正確に知ることができた。あらためて感謝したい。
 旧玉川の探索にあたっては、現地で玉川改修工事の当時の状況をよく知る地元の方二人から、貴重なお話を伺うことができたのも大きな力になった。改修工事からすでに67年が経ち、旧玉川をその目で見た人は少しずつ少なくなっていくはずである。

 関連サイト ◆旧玉川(2013年2月11日)金井橋 〜 渋田川・笠張川合流地点

       ◆(新)玉川 第1日目(2013年2月11日)相模川合流地点 〜 金井橋

       ◆渋田川 第1日目(2007年6月24日) 東雲橋 〜 野原橋

       ◆玉川 第2日目(2013年3月16日)金井橋 〜 源流
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