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箱根外輪山一周 5 いよいよ大観山から白銀山を経て早川までの外輪山最後の行程に臨む |
◆ 2013年1月6日 大観山 〜 早川駅
箱根外輪山を徒歩で一周するという暴挙も佳境に入って、いよいよい最後のチャレンジとなる。今日の出発地点は大観山である。ここから外輪山を北東に向かって一気に早川まで踏破したいが、立ちはだかる様々な困難を克服しなくてはならない。なにしろ道があるかどうかわからないのである。外輪山一周という前人未到?のプロジェクトが成功するか否かは、まさに今日の成否にかかっている。
遠征隊も第5次の編成を迎えた。何しろ隊員が1名だけなので、小回りが利く。隊編成も装備確認も食糧・資金調達も意思決定も非常に迅速である。一方で、隊員のバックアップはなく、助言してくれる参謀もいないため、アクシデントに弱い。隊長兼隊員の判断がもし決定的に間違っていたら、そこで即時撤退又は死亡終了となるだろう。
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まず、最初の問題点はどうやって大観山まで行くかということである。方法論としては、パラシュート降下、ヘリ、ヒッチハイク、徒歩、バス、車、タクシーが考えられる。
落下傘降下は今日は気分が乗らない。ヘリについては、ヘリポートとしてターンパイクの駐車場を貸してもらえるかどうかが不明なので、とりあえず除外しよう。
ヒッチハイクは、若い女性ならともかく、汚らしいオッサンでは成功率は低い。
常識的には、バスが最良だと誰でも考えるだろう。しかし、箱根登山と伊豆箱根の両バス会社の時刻表は、その望みを見事に打ち砕いた。大観山に行くためには、湯河原駅または箱根町(芦ノ湖畔)からのバスに乗る必要があるが、本数は一日数本、それも始発は11時台である。大観山から早川までの距離は20km以上あるロングトレイルなので、遅い時間帯からの出発では無理である。
徒歩では、芦ノ湖から1時間以上、それも前回と同じくクルマやバイクがビュンビュン走る道を命がけで登ってこなくてはならない。登山道はない。時間と体力面でもかなりのダメージである。
車は一番便利だが、大観山に戻らなくてはならないという致命的な欠点がある。
残った方法は唯一つ、タクシーであるが、箱根湯本や湯河原からでは、とんでもない金額になりそうだ。
考えた末に、バスで箱根町芦ノ湖畔まで行きそこからタクシーで大観山へ行くことにした(そんな平凡な結論のためにここまで引っ張ったのか?)。そのために、前回、駅伝ミュージアムにいた貸切タクシーの運転手さんに聞いておいたところ、箱根町バス停付近には、タクシー乗り場はないそうだ。呼んだほうがいいだろうということだった。そこで、元箱根付近にあるタクシー会社の電話番号をメモしてきたのである。
しかし、当日は予定外の結果になった。元箱根バス停に停まったバスから外を見ると、早朝にもかかわらずタクシーが1台停まっていた。あわてて降りる。ここからタクシーに乗れば、少し距離は長くなるが時間は短縮できるだろう。わざわざ呼ぶ手間も省ける。
タクシーの運転手さんは話し好きで、写真が好きだという。地元のポスター用の写真を撮ったり、コンテストに入賞したりするセミプロらしい。箱根の風景写真を撮りためたアルバムを見せてくれた。用意してあるということは、よくお客さんに見せているのだろう。
そうしているうちに、大観山に到着した。時刻は8時35分、料金は2420円だった。寒いので、ビューラウンジに入って準備をする。
1 大観山 TOYO TIRES ビューラウンジ
8時50分、いよいよ外輪山最後の彷徨にでかけよう。
2 大観山から見る富士山・芦ノ湖・駒ケ岳
今日は、ついに大観山からの快晴の富士山を見ることができた。箱根と芦ノ湖の向こうにそびえる富士、日本が誇るべき風景である。それにしても、火山活動と地殻変動が作り上げたこの景色も、決して永遠のものではないこと、少しずつ変わりつつあることに地球の不思議を感じる。
3 斜面に残る雪
雪が張り付いたターンパイクの斜面は、なんだか南極基地から奥地に探検に行くようなワクワク感が。
前回当たりを付けておいた踏み跡を進んでいくと、笹が刈られた道が現れた。雪が残っているおかげで道が明瞭になっている。明らかに誰かが笹を刈って道を維持している感じである。
4 大観山駐車場から登山道へ 5 雪の残る道
実は、以前から箱根外輪山を一周できないかと、地図やネット上でも色々調べていたのだが、箱根峠から鞍掛山、大観山を経由して早川までの外輪山南側のルートがどうしても見つからなかった。大観山から早川まで、道がないわけではない。いや、むしろ立派すぎるほどの道路がある。外輪山の尾根を忠実にたどっているターンパイクである。しかし、ターンパイクは自動車専用道路なので人が歩くことは禁止されている。登山用地図にも、箱根のガイドブックにも登山道の記載はない。先ほど乗ったタクシーの運転手さんからは、大観山からどちらの方に行くのか聞かれ、石垣山といったら、道はあったかなあ、という返事だった。地元の人でも知らないのであった。道路はあるが歩くことはできないという、皮肉な状態なのである。
しかし、ある日地元の有志が、廃道になっていたこのルートを整備している、というネット上の情報をみつけた。
このルートは「関白道」と呼ばれているという。関白、すなわち豊臣秀吉の全国統一の最後になった戦、小田原北条氏を攻めるために、芦の湖畔から小田原に向かって進撃した道がこの外輪山の尾根ルートだというのである。その関白道を復活させようという試みらしい。笹が刈られているのも、そのお陰に違いない。ありがたいことである。400年以上前の関白秀吉と同じ道を歩いていると思うと、この誰も通らない道もただの道には見えなくなってくるから不思議である。
6 刈払われた道 7 巨大な霜柱
誰も歩いていないおかげで、巨大な霜柱が出来ている。足跡はあるが、すべて人間以外の動物のものだ。しかし、登山客が多ければ、泥濘になってしまうので、かえってありがたいことだ。平坦で気持ちの良い道が続く。この調子なら、早川まで楽勝で行けそうだ。思わず鼻歌が出そうなくらい快調な滑り出しである。
8 草原状の地形 9 植林地へ
写真10の地点で、少し道が険しくなり、やがてターンパイク横に出た。
10 急坂を下る 11 鞍部へ
12 ターンパイク横の鞍部 13 北西側の景色
14 ターンパイクと合流する 15 南東側の景色
一旦ターンパイクに出た後、再び左に入る道を見つけた。
16 ターンパイクから登山道へ 17 しばらく鞍部を歩く
いくつかの小さなピークを越えていく。標高は少しずつ低くなっていくが、一気に山を降りるという感じではない。
18 965mピーク 19 木についた苔
やがて、正面に痩せた尾根と尖ったピークを視認した。
20 980mピークへ 21 笹が茂る登山道
笹が刈られてた道もいつのまにか怪しい半藪になっている。水色のバンドは、目印か忘れ物か。そして、ついに踏み跡もなくなった。写真23の崖を登るしかなさそうである。
22 目印? 23 崖を登る
大観山からの滑り出しが順調だっただけに、そう甘くはなかったか、という感じで、木につかまりながらよじ登っていく。尾根が狭いので、嫌な感じだ。少し後悔が頭をよぎるが、ここは行くしか無いだろう。
24 崖上部 25 ピーク近くの落石防止ネット
崖の上部にはネットが張ってあった。ターンパイクに落石が無いように措置しているのだろう。つまり、ターンパイク側は崖で、降りられないということだ。ピークに登りつめると道はないが、なんとか行けそうな感じはある。やがて、写真27の平坦地に出たのでほっとする。しかし、この先もこの調子だと大変だなあと思いつつ、正式な登山道ではないので、あまり文句も言えない。好きで歩いているだけなのである。
26 980mピーク その1 27 980mピーク その2
28 怪しい踏み跡 29 一升瓶の広場
踏み跡は怪しいままだが、平坦な広場に着いた。一升瓶が地面につきささっている。人がいた証拠である。何故か気にかかったので、写真を撮った。そのまま直進すると写真31のようにだんだん藪が深くなってきた。これは怪しいと直感したので、時計のコンパスで方向を確かめる。なんと北に向かっていた。北東〜東方向に進まなければならないはずである。
30 一升瓶 31 一升瓶の広場から北への踏み跡
こういう時は、元来た道にもどれ、というのが鉄則である。50mほど戻ると一升瓶があった。さっきの広場だ。広場に一升瓶があったこと、そしてそれを写真にとったので記憶にあったことがラッキーであった。山の中では、目印がないので、同じ場所を行ったり来たりして、結局迷って現在位置を見失う、ということがあるらしい。道迷いの典型的パターンである。
さて、一升瓶の広場から改めてもう一つの踏み跡を探すと、それは北東方向にあった。方向的には合っているのでそちらに踏み込んでみる。しかし、途中から写真33のようにこちらも藪漕ぎになってしまった。地形的には尾根伝いであり、正しいようだ。
32 一升瓶の広場から東への踏み跡 33 藪漕ぎ
ここで、道迷い未遂を検証しておこう。今後のルートファインディング技術向上のためにも必要なことである。
想定ルートは概ね東に向かっているのだが、一升瓶の広場、すなわち写真29の直前では北に向かっており、そのまま直進して北側の尾根に入りかけたのである。頭のなかでは1本の道なので、右折するというのは何らかの情報、きっかけがないとなかなかできないことである。つまり、道標や目印があったり、明らかな踏跡の違いがないと人間は直進してしまう。
コンパスがザックの中にあると、取り出すのが面倒でつい確認を怠りがちだが、腕時計に電子コンパスがあると便利である。おかしいと思ったらすぐに確認できるというのは意外と重要だ。
下りで尾根の分岐を間違えるというのは、道迷いの中でも一番多いケースではないだろうか。逆に登りではこのようなことは起こり得ない。地形図上で常に現在位置を把握するというのは、言葉では簡単だが、歩行速度が遅くなったり、足元が疎かになったりで、なかなか理論どおりにはできないのである。
34 藪を抜ける 35 たくさんの足跡
登山道というよりも、獣道といったほうが良いのでは、と思えるほどのたくさんの足跡があった。
36 白銀山登山口方面へ降りる 37 ターンパイクと合流
ターンパイクと合流した。ちょっとした広場になっていたので、目の前を吹っ飛んでいくクルマやバイクを眺めながら水分とカロリーを補給する。
38 白銀山登山口広場 39 白銀山登山道入口
広場の東側に、白銀山の登山道と玉川大学演習林の標識があった。今日はじめての道標である。
40 白銀山登山道入口標識 41 白銀山へ その1
ここからは、登山地図には載っていないものの、明瞭な登山道となり、迷う心配もなくなった。しかし、白銀山に登る人は、ここまでどうやって来るのだろう。この広場に車を止めて往復するのだろうか。
今日はじめての足跡を見つけた。登山靴のパターンである。サイズも結構大きいので男性だろう。嬉しいというか、安心するというか、やはり自分と同種の動物の痕跡は、親しみが持てる。しかも、まだ新しそうだ。
42 人の足跡 43 白銀山へ その2
電波塔?が見えた。白銀山山頂である。標高993m、時刻は10時48分だ。三角点があり、笹が切り開かれて広場になっていた。道標があり、左に行くと畑宿、右は頼朝道(弾正ヶ原)と書いてある。頼朝といえば、鎌倉幕府を開いたあのお方だろう。どう考えてもおかしい。ここは関白道ではなかったのか。なぜ秀吉から一気に400年も時を遡ってしまったのか。頼朝が使った道を秀吉も使ったということだろうか。標識からはここが頼朝道の始まりのように読めないこともない。
後で調べてみると、白銀山から星ヶ山をへて真鶴半島に至る道を頼朝道と称しているようだ。頼朝が伊豆で挙兵した後、石橋山の合戦で敗れ、湯河原でさらに敗退したあとに箱根山中を逃げまわった時に利用した道だろうか。歴史上は頼朝はその後箱根神社に匿われ、真鶴岩海岸から房総半島に脱出し、立て直しを図ることに成功する。
44 白銀山山頂へ 45 白銀山山頂標識
白銀山からは、右、すなわち頼朝道を行く。ルートは、左に弧を描いており、次の目標地点は994mのピークだ。ここで右に分岐する道があるはずだ。しかし、頼朝道というたいそうな名前の割りには、写真47のように踏み跡は心もとない。マイナーな登山ルートである。
46 南方面の景色 47 994mピークへ その1
48 994mピークへ その2 49 994mピークの湯本方面分岐
事前に調査したGPS座標のとおりに分岐点が現れた。左方向には、写真49のしっかりした道標がある。白銀山は湯本から登る人が多いのかもしれない。
後でネット上の情報を調べてみると、湯本から白銀山を経て、ターンパイクを横切り、弾正屋敷跡、星ヶ山を経て真鶴方面に歩くルート(つまり頼朝道)が歩かれているようだ。標識があるのもそのためだろう。ただ、弾正ヶ原という場所がどこなのか、明確な記録はなかった。弾正屋敷跡の記録はあるので、関係があるのかもしれない。
さて、このまま湯本へ降りてしまうと、外輪山の尾根を外れてしまうので、右方向に入らなければならないが、写真50のように、そこは明らかに人為的に倒木で封鎖されていた。湯本へ降りるのはこっちじゃないよということだろう。真鶴半島−湯本間が一般的ルートであることの証明である。もちろん今回は写真50の倒木を越えて行く。
50 分岐を右へ 51 御所山へ その1
右手が崩壊している場所を過ぎると、写真53の分岐に出た。標識もなくどちらに行くか迷うところである。
52 御所山へ その2 53 御所山西の分岐
先ほど、左に行って違う尾根に入り込みそうになっていたことが、トラウマになっていた。右に降りれば、必ずターンパイクに出られるはずなので安全度は高い。今回のようにルートが明確でない場合、万が一のエスケープルートを考えておく必要があるが、今日は、最悪の場合はターンパイクに出てヒッチハイクをしようと思っていた。そんな気弱な判断で右の道を下りていく。
54 ターンパイクに出る 55 ターンパイク横の荒地
しかし、予想どおりターンパイクに出てしまった。ターンパイク沿いの道を探すが、脇道はイノシシの罠で行き止まりである。
56 鉄製の罠 57 ターンパイク横
ターンパイクも写真57のように、歩くには少し無理がある。そもそもターンパイクは歩行禁止である。そこで、登りとなり少し辛いが、元の分岐点に戻ることにした。
58 53の分岐に戻る 59 分岐を直進し御所山へ
写真53、58の分岐点に戻り、今度は左の道を選択する。20分の時間と体力のロスである。ここで、再び道迷いをGPSログで確認しておこう。それにしても、すでにこのルートは地形図の破線もないので、カンで進むしか無い。
60 放置されたヘルメット 61 藪
怪しい道を進んだが、写真62の標識杭を発見した。結果として、正解だったようである。関白道だ。
62 標識を発見 63 御所山砦入口標識
ここで、標識にある御所山砦に寄り道してみよう。この解説によると小田原北条氏が築いたものらしい。砦跡には特に解説板はなかったが、開けた平らな場所があり、いかにもという地形であった。
再び分岐点に戻る。標識では、この先は箱根ターンパイクとなっている。ターンパイクより先には道はないということだろうか。
64 御所山砦跡 65 丸い苔
66 怪しい踏み跡 67 聖岳方面へ
68 箱根竹の藪 69 ロープのある急斜面
藪や急坂を越えていくと、予告どおりターンパイクに出た。
70 ターンパイクに向かって下降 71 ターンパイク前の藪
72 ターンパイクの駐車場へ 73 鍋割駐車場から聖岳を望む
74 鍋割駐車場標識
ここは鍋割駐車場という名称だった。
75 太閤道解説板
ここでの解説は、太閤道となっていた。たぶん関白道と意味は同じなのだろう。秀吉が大観山から下って小田原城攻撃のために通った道だとはっきり書かれている。
76 鍋割駐車場から踏跡を探る 77 ターンパイク脇を歩く その1
これまでの2箇所の合流点と同じく、ターンパイクから再び左に入る道をさんざん探したが、どうしても見つからない。
しかたがないので、ターンパイクの横を歩く。道路内は通行禁止である。このサイトにおいては、道路交通法は守らなければならない。あくまで道路外の空地部分を歩くのである。そこならば山の中を歩いているのと変わらないはずだ。
78 ターンパイク脇を歩く その2 79 ターンパイク脇を歩く その3
しかし、道路外を歩くのは意外と難しい。落ち葉に埋まったりしながら、崖から落ちないように路肩部分を歩いていく。脇道はあるが、すぐにまたターンパイクに出てしまう。
80 ターンパイク脇を歩く その4 81 落ち葉に埋まる足
崖から落ちないようにストックで足場を確かめながら歩く。歩けない場合は、反対側に横断する。
82 ターンパイク脇を歩く その5 83 箱根中央火口丘を振り返る
84 緊急待避所 85 ターンパイク脇を歩く その6
緊急待避所を過ぎ大きなカーブを曲がると、左側に林道が現れた。桜山林道である。この桜山林道は、上の地図でわかるように、外輪山の尾根筋をゆるやかにくだっている。ターンパイクは、南側の尾根に行ってしまっているので、この林道が関白道に近いのではないだろうか。
86 桜山林道入口 87 桜山林道 その1
88 植林地維持管理作業 89 桜山林道 その2
林道は舗装も途切れ、車が通った形跡もない。広い平坦な登山道という感じである。
90 桜山林道 その3 91 桜山林道 その4
しかし、そのうち笹が生い茂り、路面がえぐられた、林道とはいえない状態になってしまった。完全な登山道である。霜柱が巨大に発達していた。まあ、歩くのには荒れていたほうが断然楽しい。が、道が崩落したり、消えたりしていないかとちょっと心配にもなる。
92 桜山林道 その5 93 桜山林道 その6
94 桜山林道 その7 95 桜山林道 その8
林道なので展望はなく、暗い人工林が続く。やがて、写真96の地点で白銀林道にでた。地図では、そのまま大杉窪林道に続いているが、実際にはクランクになっていた。
96 桜山林道白銀林道合流地点 97 白銀林道と大杉窪林道入口
98 大杉窪林道 99 大杉窪林道から湯本方面を望む
林道をゆるやかに下るが、相変わらず展望はない。標高は300mを切っている。左手はそろそろ箱根湯本を過ぎたあたりのはずである。林道がターンパイクにぶつかるともう地図上に道はない。また、ターンパイクの横を歩くのかと思ったが、よく見ると反対側に取り付きらしき場所がある。写真101である。
100 大杉窪林道ターンパイク合流地点 101 ターンパイク反対側の取り付き
登って行くと、写真102の切り開かれた植林用の作業道のような道に出た。そのまま行くと写真103で道路にぶつかる。不思議なことに歩道がついている。と言うことはターンパイクではないということだ。早川から入生田に抜ける石垣山農道である。ここからは、堂々と道を歩けるのが嬉しい。
102 植林地の横を歩く 103 石垣山農道へ合流
箱根方面に戻って橋の上からターンパイクを確認する。随分下を通っている。
104 湯本方面に続く石垣山農道 105 姫の水橋からターンパイクを見下ろす
106 スダジイ古木解説板
107 スダジイ 108 石垣山へ その1
スダジイの巨木を過ぎると農道の先に赤い屋根と駐車場が見えてきた。石垣山だろう。
109 石垣山へ その2 110 一夜城ヨロイヅカファーム
111 ヨロイヅカファームから小田原市街を望む
大観山以来初めて歩く人を見た。
ついに、関白道の終点、一夜城に着いた。14時15分、石垣山の標高は262mだ。400年以上前に、秀吉が同じルートで山中を下ってここまで進軍してきたことを考えると、外輪山の最後を飾るのにふさわしい見どころである。あまりにも有名な場所で、公園としてもよく整備されており、解説板も多いので、多言を要さないだろう。
112 石材解説板 その1
113 ノミの跡 114 刻印
115 石垣山一夜城案内板
116 石垣山一夜城歴史公園案内図
117 石垣山一夜城解説板
118 布陣図
それにしても、圧倒的な秀吉軍の配置である。これでも前田利家や上杉景勝は別働隊で八王子方面を攻めているため、参加していないのである。ライバルであった甲斐武田や越後上杉は、カリスマの信玄や謙信が死んで滅ぼされたり、秀吉に服従したが、関東を統一し、240万石の繁栄を過信した北条氏だけは最後まで抵抗し、滅亡してしまった。成功体験が命取りになったのか、苦労した家康が秀吉に屈服し柔軟な対応で生き延びたのに比べて、対照的である。
119 石材 120 城郭入口
121 南曲輪下の石垣 その1 122 南曲輪下の石垣 その2
123 南曲輪下の石垣その3 124 正面から本丸方面へ
125 保存状態の良い階段
この石段を有名な戦国武将たちも行き来したのか。
126 南曲輪跡 127 本丸西曲輪分岐
128 西曲輪跡 129 本丸へ
写真130は、ここに布陣した秀吉が毎日見たであろう小田原城下である。もちろん、小田原城天守閣も見えるが、写真だと豆粒サイズなので拡大しておこう。当時、木は切り払われていただろうから、左の方ももう少し良く見えたはずである。小田原城は、北条氏支配の初期は、左手の外輪山末端の丘の上、現在の小田原高校の場所にあったが、秀吉の小田原遠征の頃には、平地にある現在の天守閣の位置に移動したらしい。
130 本丸跡から小田原市街地を望む
131 武将布陣図
132 石垣山一夜城構造解説板
133 本丸跡 134 天守台跡
135 本丸跡から二の丸を見下ろす 136 櫓台跡
二の丸が一番広い。最後に井戸曲輪に向かう。
137 井戸曲輪跡 その1
138 井戸曲輪跡解説板
139 井戸曲輪跡 その2 140 井戸曲輪跡 その3
141 今も湧く水 142 井戸曲輪跡 その4
神奈川に住んでいながら、実は一夜城に来たのは初めてである。逸話から、ハリボテの城かと思っていたが、とんでもない誤解だったことがよくわかった。井戸の壮大さをみても、当時の豊臣方築城技術の凄さをまざまざと感じることができ、これ一つとっても北条方には勝ち目がなかったことがよくわかる。
143 一夜城から入生田・北側外輪山・中央火口丘を望む
反対側の外輪山を早川の向こうに見ながら、外輪山一周が終わりに近づいてきたことを感じた。
石垣山を後にして、農道を下っていく。外輪山最後の下りである。歴史への興味を盛り上げるように、武将の解説板が立っていた。
144 参陣した武将開設板案内
145 武将解説/豊臣秀吉
この戦の表記は、上では小田原合戦となっているが、一般的には小田原征伐と呼ばれることが多い。もちろん、これは秀吉側から見た言い方であるが、小田原市としては、北条氏を賊軍とはしにくいので、小田原合戦という言葉を使っているのだろう。
146 道案内標識
147 武将解説/淀殿
148 石垣山農道から小田原市街地を望む
149 武将解説/千利休
150 農道を下りていく その1
利休まで呼ぶとは秀吉も余裕である。
151 武将解説/羽柴秀次
152 武将解説/徳川家康
153 武将解説/宇喜多秀家
宇喜多秀家の解説板には目を引かれた。内容ではなく、その肖像画である。イケメンだ。おそらく豊臣方武将ナンバーワンのナイスガイだろう。当時18歳。身長170cmと当時の日本人としては長身で、50万石の殿様となれば、モテモテだったに違いない。しかし、その後、宇喜多秀家は関が原の戦いで家康に敗れ、八丈島に流されて、徳川五代将軍の時代まで失意の人生を永らえることになる。
154 宇喜多秀家アップ 155 農道を下りていく その2
156 反対側の外輪山末端を望む
157 武将解説/伊達政宗
158 早川と小田原市街
159 武将解説/堀秀政
武将解説にはないが、小早川隆景を取り上げておきたい。というのも、最近、毛利氏縁の広島県だとばかり思っていた小早川家のルーツを知ったからである。
時は遡る平安時代末期の平家の世、伊豆で挙兵した源頼朝が石橋山で敗戦した時の命の恩人、土肥実平の本拠地は土肥、つまり現在の湯河原町で、土肥という地名も残っている。その子である土肥遠平が、相模国の小早川を本拠地として小早川の姓を名乗った。小早川は現在の小田原市、おそらく早川に関係した土地であったらしい。土肥遠平は、平家討伐の恩賞として頼朝から西国の平家の領地をもらった。それが安芸国、現在の広島県三原市だったのである。これが、小早川家の始まりである。
時は過ぎて戦国時代、小早川家の血が途絶え、迎え入れた養子が、あの三本の矢で有名な、毛利元就の三男である小早川隆景であった。本能寺の変を経て、豊臣政権下で隆景は五大老となり、この小田原合戦にも参加している。秀吉の側近として、小早川家のルーツであるこの小田原の地を再び踏んだのである。長い時を越えた壮大なドラマだ。
ちなみに、秀吉が我慢しきれずに大阪に帰ろうとしたのを引き止め、淀殿を始めとする武将の奥さんや側室を呼んだり、利休を呼んで茶会を開くなど、長期戦を乗り切るためのお膳立てをしたのは、当時五七歳の隆景である。毛利軍本体は甥の毛利輝元に任せているが、この小田原合戦の影の立役者だと言えるだろう。
余談だが、小早川隆景には実子がおらず、毛利家のために養子に迎えたのが、秀吉の甥、後に関ヶ原で東軍に寝返った日本一の優柔不断男、裏切り者として名高い小早川秀秋である。
さらに余談だが、室町時代、上杉禅秀の乱で土肥氏を滅ぼし、土肥氏が支配していた相模国西部を得たのは大森氏である。その大森氏が小田原城を築城したのだが、後に北条早雲にその城を奪われている。その北条早雲の五代後に、今度は北条氏が小田原城で土肥氏の子孫である小早川隆景の主君、秀吉に滅ぼされる、という巡り巡った因果である。
外輪山は緩やかに高度を落として、ついに足柄平野に没することになる。南側外輪山の始まりが、ちょうど写真160の海蔵寺である。秀吉がここまで降りてきたのは、多分北条氏の滅亡が決まった後だろう。
160 海蔵寺 161 道祖神
15時54分、早川駅に到着した。
162 早川駅 163 早川駅構内
164 東海道線上り列車
早川駅から東海道線に乗る。
GPSによる本日の歩行経路
GPSによる今日の高度記録
(本日の歩数:33790歩)
箱根外輪山の楽しい5日間はこうして幕を閉じた。最終日の今日は、明確な登山道がなく、かなり苦労したが、なんとか徒歩でのルートをつなぐことができた。一部の区間は藪が刈られているが、踏み跡は薄い。一番いいのは、たくさんの登山者に歩いてもらうことだが、登山道としてガイドブックや地図に載っていないのが難点だ。行政が標識を立てて整備しないと難しいかもしれない。大観山から白銀山にかけては雰囲気もよく、頼朝や秀吉縁の地ということでの歴史的価値もある。箱根がジオパークに認定されたという良いタイミングでもあるので、ぜひ検討して貰いたいものだ。箱根外輪山一周の登山道を整備すれば、富士を間近に見るその雄大なスケールと、温泉や宿泊施設など観光資源の充実度から考えても、日本を代表するロングトレイルになるポテンシャルを秘めていると思う。現時点では、登山の起点、終点としての大観山は、なんといってもバスのアクセスが悪い、特に朝の便がないことが致命的である。
最後に、まとめとして一周の軌跡を地図に書いておこう。
外輪山一周の足跡
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〜 大観山
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宮城野分岐
関連ページ ◆箱根山中央火口丘 (2012年11月25日)
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