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海岸線をどこまでも 本州一周 (になるかもしれない旅) いよいよ関東地方から東北地方へ |
◆ 第12+36日目(2012年9月9日) 磯原駅 〜 勿来駅
地球温暖化が確実に進む暑い夏も終わり、いよいよ秋、この海岸線シリーズを再開する時が来た。夏の間は、なぜか涼を求めて高い山に行っていたが、そろそろ海を見たくなるころである。若い時は、夏は海、冬は山であったが、なぜかこの年になって逆のパターンになるのも不思議なものだ。
さて、「海岸線をどこまでも」は、いよいよ関東地方の北端、つまり茨城県の最終局面となり、今日は磯原駅からの旅である。
いつもの、上野7時発のスーパーひたちに乗るが、磯原には停まらないので、水戸から普通列車に乗り換えて磯原駅に降り立つ。天気は最高だが、良すぎて残暑厳しくなるかもしれない。茨城県北部から福島県浜通りにかけては、海の影響で首都圏よりも涼しいと言われているので、それに期待することにしよう。
1 磯原駅
2 大北川
地名・駅名は磯原であるが、行政的には北茨城市である。北茨城という駅はない。
海に出る前に大きく蛇行する大北川に沿って北へ向かうと、観光バスが止まっていた。童謡作詞家、野口雨情の生家らしい。
3 天妃山遠景 4 野口雨情生家入口
地震の影響だろうか。屋根のブルーシートが痛々しいが、立派な家である。名家なのだろう。しかし、例に漏れず、野口雨情もこの家に安住したわけではなく、波瀾万丈、破天荒な一生を送ったようだ。
5 野口雨情生家 6 野口雨情生家解説
その野口雨情の代表作が、1921年に発表された「七つの子」である。「から〜す、
なぜ啼くの、カラスは山に〜」という歌詞を知らない日本人はいない。しかし、この歌は、およそ60年後の1980年代、天才志村けんによって、画期的なアレンジがなされた。「から〜す、
なぜ啼くの、カラスの勝手でしょ〜」を聴いた時、軽い衝撃を受けた。野口風情の日本情緒たっぷりの歌詞が、志村けんによって簡単に否定され、しかも、どう考えても志村バージョンのほうが真理を突いている。その短い歌詞でちゃんとオチがつくというのもギャグとして見事な切れ味である。
こうして、この替え歌は、元歌以上に日本中を席巻したのであった。筆者も小学生が楽しそうに歌っているのを何度も目撃している。もっとも、これは志村けんの創作ではないという説もあるらしい。
まあ、元ネタとなった野口雨情の童謡もまた、60年後に題材とされるほどの時代を超えた名曲であり、本人も草葉の陰で笑っていそうな気がするのである。
余談だが、この生家の横に、野口歯科という歯医者があった。子孫か親戚なのだろう。
7 野口雨情生家玄関 8 津波の傷跡
野口雨情の生家の先にある天妃山入口の石標を曲がると、左手に写真8の廃屋があった。その1階部分はモルタルが剥がれ落ちて木枠が露出している。その上にはくっきりと津波の水位が乱れた線となって残っていた。ここから類推すると、この地点で1.5m程度の津波だったようだ。
大北川の河口、海に突き出た緑の岬が天妃山である。遠くからでも目立つ海岸のランドマークである。
9 弟橘媛神社
天妃山の中心となる神社があった。
10 天妃山からみる大北川河口
天妃山から南、大北川河口の砂洲の向こうには、夏から秋へと移り変わりつつある青空と雲が広がっていた。
それにしても日差しが強い。日陰に入ると涼しく感じるので気温はそれほどでもないのだろうが、秋になって空気が澄んできた分、日差しが強烈になった気がして、今日は日焼けしそうである。
岬の先端には、山海館という遠目からもよく見えた立派な旅館があるが、残念ながら休業中であった。津波の直撃を食らったらしい。
11 休業中の旅館 12 天妃山から見る海
13 天妃山から北を望む 14 津波被害その1
海岸沿いに目立つ空き地、放置された馬頭観音、墓石でさえも流されたらしく、木製の仮墓標が立つ墓地など、津波の爪痕がところどころに残っていて痛々しい。
15 津波被害その2 16 津波被害その3
白く美しい砂浜を歩く。やがて前方に穴の開いた大きな岩が目に入る。コンクリートのように見えるが、位置や形から見て人工的なものとも思われない。
17 二ッ島遠景
近づくと、天然の奇岩であった。この二ッ島を正面に捉えるようにホテルが建っている。このホテルは営業しているようだ。なんだか少し嬉しい。もう観光客は戻ってきているのだろうか。泊まってあげたいが、今日は先を急がなければならない。
18 二ッ島近景 19 磯原シーサイドホテル
20 磯原海岸 21 護岸復旧工事
美しい磯原海岸を歩き続けるが、途中から護岸工事で立入禁止となってしまい、しかたがないので陸前浜街道を歩く。
大津港に近づいた地点の小さな川から海岸に復帰する。テトラポッドが続く残念な光景だ。
22 海岸に復帰し南を望む 23 海岸に復帰し北を望む
前方に見える緑の岬がだんだんと大きくなってくる。大津岬、五浦海岸である。その手前に大津漁港があるはずだ。
24 大津岬を望む
25 大津漁港手前 26 江戸上川河口
江戸上川に突き当たって、橋を渡ると大津漁港の埋立地になった。観光バスが停まっている建物がある。
27 関南新橋 28 北茨城市漁業歴史資料館 よう・そろー
その黒い建物には「北茨城市漁業歴史資料館 よう・そろー」と書いてあるが、残念ながら休業中のようだ。
29 よう・そろー入口 30 ノルディックウォーキング
in 北茨城市
しかし、その横の広場は人で賑わっていた。2本の杖で歩いている人がいる。ノルディックウォーキングのイベントのようだ。となりでは講習会のようなものが行われていた。講師の顔はよく見なかったが、荻原次晴だったらしい。
その横では、あんこうの吊し切りの実演が行われていた。地元の皆さんも一致協力してこのようなイベントに協力していることがよく分かる。すこしでも復興の一助になると良いのだが。おじさんの解説によると、あんこうは体が大きくヌルヌルしていて、まな板では捌きにくいので、こうして吊るして処理するそうだ。
参加者にはあんこう鍋が振舞われている。おもわず食べたくなったが、さすがに参加者になりすましてもらうだけの度胸はないので、自動販売機で買った缶コーヒーとともに、隅のほうで菓子パンを寂しくかじる。
31 ノルディックウォーキング講習 32 あんこうの吊し切り実演
33 大津港 その1 34 護岸工事
大津港は護岸の被害がかなりあるようで、復旧工事か行われていた。
35 工事看板 36 大津港 その2
37 津波の爪痕 38 大津港を見下ろす
漁港を過ぎて、五浦海岸に続く坂を上がる。
39 異国人上陸を伝える解説板
皇居内堀の桜田門のところでも書いたが、幕末の水戸藩士は相変わらず過激である。
40 五浦海岸 その1
いよいよ、風光明媚で知られる北茨城最大の観光地、五浦海岸に入ってきたようだ。ところで、五浦海岸は「いづらかいがん」と読む。「ごうらかいがん」だと思っていたが、まちがいらしい。もっとも地元の人は「いつうらかいがん」と発音しているつもりだという説もあるようだ。
41 海を見下ろす住宅 42 海辺のレストラン
別荘やレストランが、華やかな海辺のリゾート気分を演出している。
43 五浦海岸 その2 44 大津岬灯台
白亜の灯台である。地震で建て替えられたらしく、新しいコンクリートの白が目に眩しい。
45 大津岬灯台解説板 46 五浦岬公園入口
五浦岬公園の標識があったので行ってみる。
ここからは、あの六角堂がみえた。五浦海岸のハイライトシーンである。
47 六角堂を望む 48 六角堂望遠
公園を後にしてしばらく進むと、住宅街の中に突然六角堂が現れた。写真49であるが、なぜか海に面していない。この家を建てた人はよほど郷土愛に溢れ、六角堂を愛する人なのだろう。
49 六角堂? 50 五浦美術文化研究所
さて、写真50、こちらが本物の六角堂の入口である。正式には、茨城大学五浦美術文化研究所という厳しい名前がついている。
51 五浦美術文化研究所案内板
300円を払って、中に入ってみよう。
52 五浦美術文化研究所入口 53 ウォーナー像
54 ウォーナー像解説板 55 天心邸
56 天心邸内部 57 天心邸解説板
六角堂を建てたのは、岡倉天心である。どんな人だったかはともかく、たいていはその名前は聞いたことがあるだろう。明治時代の思想家で、芸大の創始者である。画家かと思っていたが、本人は画家ではなかったらしい。しかし、弟子は、横山大観をはじめとするものすごいメンバーである。本人は絵が描けないのに、画家を指導できたのはふしぎである。当時としては、その思想がすごかったのだろうが、それにしても「空気を描け」だの「もっと明快に」だの、そんな抽象的な指導に従った明治の天才画家たちもすごい。現代の芸大生だったら、「ごちゃごちゃ言うなら自分で描けよ」なんて言いそうである。
とまれ、岡倉天心がここに住まいを構え、芸大と喧嘩をして日本美術院を創設したのが、この五浦海岸を有名にしたきっかけである。
58 天心邸からみた海岸北方面 59 天心邸からみた海岸南方面
60 六角堂 その1
天心邸の正面、海岸に突き出している建っているのが、五浦海岸のシンボル六角堂である。津波によって流されてしまい、再建されたことは記憶に新しい。
61 六角堂 その2 62 六角堂内部
六角堂の中で、一日、本でも読んだら最高だろう。
63 六角堂天井
六角堂を後にして歩きはじめると、すぐに黄門様のお出ましである。
64 黄門の井戸 65 黄門の井戸解説板
風光明媚な海岸に建つ六角堂の景色は、もちろん天心邸の敷地からはみることができない。写真47の五浦岬公園からみることができるが、いかんせん遠すぎる。一番のビューポイントは、湾を挟んで北側に立つ、この五浦観光ホテルである。が、現在改修中のようだ。津波の影響だろうか。しかし、飲食店はやっていた。時間があれば、ここから、岬に建つ六角堂の全景を見てみたいものである。
66 五浦観光ホテル 67 開通した道
大きく立派な道路に出る。地図にはない道が開通したようだ。美術館もある。
68 天心記念五浦美術館 69 平潟漁港へ
道路沿いに日帰り温泉があるが、新しく、まだ開業直前のようである。平潟漁港への道に右折すると、風船爆弾放流地の碑があった。ここに基地があったらしい。
70 天心乃湯 71 風船爆弾放流地の碑
72 風船爆弾放流地解説板
敵国を爆撃するのに、風船とB29では、勝負にならない。風船はどこに飛んでいくかわからないので、米軍のB29による無差別爆撃を非難することもできないだろう。
朝から、水平線の写真を撮りながら気になることがあった。写真73の左半分を見て欲しい。水平線の上に白い雲が横に広がっているが、その手前に紫色の線がかかっているのである。水平線の端から端まで続いている。写真74がその拡大である。なんだろうか。謎である。検索してもわからなかった。
73 五浦海岸を振り返る 74 謎の線
75 九ノ崎 76 井戸の入隧道
隧道を抜けると平潟漁港である。茨城県最北端の漁港だ。小さな岬を隔てて北側は福島県のはずである。
77 平潟漁港 78 勿来漁港へ
茨城と福島の県境、いや東北地方の入口はどうなっているのだろうか。そこには何かモニュメントでもあるのだろうか。期待に胸を膨らませながらゆるい坂道を登る。写真78のようなごく普通の生活道路だ。
高さから見て、峠らしき場所に立って周囲を見回す。庚申塔があるようだ。左側、つまり南側には碑が建っている。
79 庚申塔 80 平潟洞門の碑
県境の碑かと思ったら、この峠に造られた洞門の記念碑であった。道の反対側に建つ看板は、写真82のとおり、北茨城市、すなわちまだ関東地方である。
81 平潟洞門の碑解説板 82 北茨城市設置看板
そこから目と鼻の先に、写真83の看板があった。なんと、福島県いわき市と茨城県北茨城市の連名である。水道水の相互融通の協定のようだ。つまりここが県境ということか。興奮が高まる。あたりを見回すと、足元に地味な石標があった。字体から見て古そうである。
そこにはたしかに「縣界標」の文字が刻まれていた。
83 いわき市・北茨城市共同設置看板 84 県界標
2012年9月9日 13時40分 ついに、関東地方の全海岸線を踏破し、今ここに、東北地方、つまりみちのくの地に、足を踏み入れたのである。2006年3月25日に湘南海岸を出発して以来、48日目の長い長い旅であった。
ひとしおの感激を噛み締めた後、冷静になって再度縣界標を見ると、側面には、両県の名前が彫られている。字体も彫り方も違うようだ。両県がそれぞれ独自に彫ったのだろう。
85 県界標茨城県側 86 県界標福島県側
87 県境から茨城県側をみる 88 県境から福島県側をみる
写真87、88のように県境から両県を見比べてみるが、区別できるほどの特徴もない、平凡な田舎の峠道である。しかし、切通しの上の山を見上げると、昔は洞門を作るほどの難所だったことがよく分かる地形である。
89 県境の山 90 福島県設置看板 その1
福島県側に入ると、写真90、91のように、急に福島県がその存在を誇示する看板を立てるようになる。まるでここが自分の領地だということをアピールしているようで可笑しい。
91 福島県設置看板 その2 92 仲良く並ぶナンバー
福島県側に数十メートル入ったところに駐車場があったので、ナンバーを確認してみた。写真92のように、水戸ナンバーといわきナンバーの車が仲良く並んでいた。水戸ナンバーの車は、車庫証明が面倒くさそうである。
陸前浜街道に合流すると、バス停があった。常磐交通と書いてある。どれくらいの本数があるのか興味があるので、時刻表をみて驚いた。平日の7時22分だけである。もはや、公共交通機関というよりもスクールバスといったほうが良いかもしれない。車社会になってしまうのは仕方がないが、こうして徒歩で旅をしていると、もはや頼れるのは自分の足だけだと痛感する。
93 九面バス停 94 九面バス停時刻表
東北地方に入って初めての集落は勿来漁港である。ちょうど市会議員の選挙期間中らしく、写真95のように宣伝カーやポスターが賑やかである。集会所は投票所になっていた。
95 勿来漁港入口 96 投票所
97 勿来漁港 98 勿来海岸 その1
漁港から切通しを抜けると、広々とした美しいビーチが広がっていた。勿来海岸である。海水浴シーズンは終わっているが、この陽気である。ビーチで夏の名残を惜しむ人がいて賑やかだ。
99 勿来海岸 その2
ビーチの向こうには発電所が見える。このまま小名浜を目指したいところだが、その前に関所を通らなければ陸奥国には入れないのである。
100 勿来の関案内板 101 勿来の関入口
そのみちのくへの玄関口、勿来の関へは、写真101のような立派な道路が通じている。関所っぽいモニュメントや標識があるなど、関所もやる気満々である。
しかし、歩きでは殊の外遠くて時間がかかる。しばらく坂を登ってやっと公園のような場所に出た。
102 勿来の関へ 103 勿来の関公園
公園になっており、様々な施設があるようだ。要するに観光地になっているわけである。
104 勿来の関公園案内板
まず、目を引くのが京都にあるような寝殿風の建物である。名前も吹風殿。しかし、中身は体験学習室というよくわからないコンセプトのお金がかかっている箱物である。歴史的な意義はないようだ。
105 吹風殿 その1 106 吹風殿 その2
107 吹風殿内部 108 電話ボックス
吹風殿の上にあるのが文学歴史館である。
109 勿来関文学歴史館 110 弓掛の松?
関所跡に向かうと、立派な松があった。由来を読むと、もう切られたと書いてある。実は、写真112が弓掛の松なのであった。
111 弓掛の松解説板 112 弓掛の松
勿来関跡についた。源義家像が建っている。源義家は、すごい人である。ひ孫が頼朝や義経、おまけに足利尊氏の先祖でもあるというのだ。父親とともに奥州の安倍氏を破っている。中央の奥州への支配強化である。安倍氏は、蝦夷つまりアイヌ、縄文人につながる土着の勢力の首領というのが通説らしいが、安倍晋三はその子孫だと主張しているらしい。まあ、たしかに安倍晋三は縄文顔ではある。
要するに陸奥国は道の奥というように、当時は中央の支配が及んでいない辺境の地であったことは事実で、江戸時代末期になってやっと北海道南部まで実質支配したに過ぎず、北海道が本格的に開拓されたのは、明治時代であることはよく知られている。
113 奥州勿来関跡碑と源義家像 114 勿来関の碑案内板
その陸奥国支配の拠点となったのが、この勿来関かと思ったら、知名度に反して、そもそも勿来関がどこにあったのかは史実として確定していない、というよりも勿来関が実在したのかどうかも怪しいらしい。では、今この目の前にある勿来関跡は何なのだろうか。ようするに、古来より歌に詠まれた「なこその関」をこの地に見立てて、江戸時代に観光地にしたということらしい。史跡ではなく、たんなる観光地だというのだが、まあ、位置的にもみちのく観光の入口として楽しめるところにはなっている。
115 奥州の宮 116 関東の宮
2つの神社は江戸時代のものだろう。
117 勿来関解説板
解説板には、歴史的根拠があるように書いてあるのがおもしろい。
118 詩歌の古道 119 漢詩現代訳 その1
古くから歌に詠まれただけあって、文学記念碑がたくさん立っている。
120 漢詩現代訳 その2 121−123 小野小町・源信明・和泉式部歌碑解説板
124 勿来関跡から山道を降りる 125 地下道から勿来海岸へ
勿来関から山を降りて、再び勿来海岸に戻ってきた。
126 勿来海岸 その1
127 勿来海岸 その2
海を見ながらランニングマシーンで走っている人が見える。
128 フィットネスクラブ? 129 勿来海岸 その3
この勿来海岸、別名菊多浦がなかなか気持ちのよい海岸なので、調子に乗って波打ち際を歩いていたら、靴下が濡れてしまった。気持ちが悪いが、残念ながら替えはない。写真131の若者のように最初から覚悟をしておくべきであった。
130 濡れた足 131 勿来海岸の若者
この東北地方で初めてのビーチを歩きながら今日の一日を振り返る。今日は海岸線が複雑で、寄り道、アップダウンも多く、時間的にもそろそろこのへんで限界だろう。勿来駅を目指すことにする。
132 勿来海岸 その4 133 勿来駅付近の小河川
海岸から駅への道は少しわかりにくかったので、途中で挨拶をしてくれた男の子に道を聞いた。コンビニに寄って350円の靴下を買って、駅に向かう。駅も関所の意匠になっており、歴史的事実はともかくとして、あくまでこの地に関所があったということをアピールしていた。駅で靴下を履き替えて、水戸行きの普通列車に乗り込む。
134 勿来駅前 135 勿来駅
勝田から特急に乗り換えて、今日靴下を濡らしてしまった失敗の反省会を一人で行う。つまみは、車内販売のワゴンで一番目立っていた仙台名物牛タンスモークである。千円もしたが、さすがに値段相応に旨いので驚いた。今までの50年余の人生で経験した中で、もっとも美味な車販のツマミである。20分ほどで反省会は終わったのだが、まだまだ真摯な反省が足りないと感じた。そこで、再び通りかかった車内販売で今度は違う銘柄のビールとツマミを買って、反省会の2次会を行う。
なぜか心地良い反省会のあとは、上野駅につくまで音楽を聞きながらぼんやりするだけである。
136 反省会1次会 137 反省会2次会
GPSによる本日の歩行経路 (時間:6h36m 距離:30.2km
)
五浦海岸は、風光明媚という言葉がよく似合う観光地であった。津波の被害から立ち直りつつあり、その美しい景色を再び沢山の人が見に来るようになってほしいものである。
そして、今日は、ついに関東地方を脱して東北地方に足を踏み入れた記念すべき日である。さすがに遠くまで来たものだと感慨深い。
天気は素晴らしかったが、その分残暑が厳しく、すっかり日焼けしてしまった。
次回からは、東北地方、福島県の海岸を一人で北上することになる。つまり、みちのくひとり旅である、というベタなフレーズが頭に浮かんでしまう筆者は、やはり典型的な昭和の人間である。そういえば山本譲二は最近テレビで見かけないが、元気だろうか。心配には及ばず、地方巡業でタップリと稼いでいるのかもしれないな、などという余計な感想が脳裏に浮かんだ。
(本日の歩数:38390歩)
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