海岸線をどこまでも 本州一周 (になるかもしれない旅)  福島県いわき市の長い海岸線を歩く
◆ 第12+38日目(2012年10月20日)  小名浜 〜 四ツ倉     

 いわき市は静岡市が合併するまでは、日本で最も面積が大きい市であった。したがって、海岸線も長い。今日はいわき市の2日目である。
 もはや、通勤電車か?、というくらいよく乗る、上野発のスーパーひたちである。最初は珍しかったこの列車も、今では新鮮味がなくなり、水戸あたりまでは寝てしまうようになった。今までJR東日本に一体いくら払ったのか、怖いので計算していない。定期券のほうが安いなんてことはないだろうが。
 9時過ぎに泉駅につく。快晴である。今日の福島県浜通り南部の天気予報は晴れ、予報どおりだ。というよりも、衛星写真を見ると日本全国が晴れている。

         本日の気象衛星写真
   

  1 泉駅                       2 橋出バス停
   

 泉駅から江名行きのバスに乗る。もう一人のお客さんであるおばあさんは途中で降りてしまい、小名浜からはたった一人の乗客となってしまった。バス路線が海岸に出たところが、橋出バス停である。海とコンビニがあってなんとなく開放感があるところだ。



 少し北に歩くと、永崎海岸という美しい砂浜になる。

  3 永崎海岸 その1                 4 永崎海岸の卒塔婆
   

 津波の傷跡が残る海岸線を行く。

  5 大平川河口                    6 壊れたままの標識
   

  7 三崎公園を振り返る                8 八大龍王尊
   

  9 中之作魚市場                   10 船の修理ドッグ その1
   

  11 船の修理ドッグ その2             12 中之作港
   

 漁船の修理施設だろうか。レールが海の中に消えていくのはかっこいい。



 中之作漁港は少し閑散としている。中之作漁港の北側には、岸浦という集落がある。海岸に面した住宅密集地である。

  13 中之作港岸壁                  14 岸浦集落 その1
   

 しかし、その岸浦集落は、往時の賑わいをよそに、空き地の目立つひっそりとした寂しげな佇まいに姿を変えていた。ある家は門の石柱だけをのこし、ある事業所は1階部分がその骨組みだけを残す無人の廃墟となっている。

  15 岸浦集落 その2                16 岸浦集落 その3
   

  17 岸浦集落 その4                18 岸浦集落 その4
   

 そんな中でも、写真17のように生き残った犬と新築で家を再建したり、写真18のように、事業を再開してパートのおばちゃんの歓声が響く海産物加工場など、懸命に復活を遂げようとしている地域の人々の生活がある。

  19 岸浦集落 その5                20 江名港 その1
   

 江名港はほとんど船がなく閑散としている。

  21 江名港 その2                 22 諏訪神社
   



  23 合磯岬付近                   24 合磯海岸へ
   

 岬を超えると合磯海岸である。美しい弧を描く砂浜は海水浴場だった。

  25 合磯海岸                    26 合磯海岸の住宅地 その1
   

 いままでたくさん見てきた、空き地が目立つ被災地である。

  27 合磯海岸の住宅地 その2            28 合磯海岸の住宅地 その3
   

 海岸が行き詰まり内陸部に入る途中に、Villa Oceanと書かれたリゾートっぽい建物が現れた。ホテルかと思ったが、そうでもないようだ。調べてみると、ここは個人の別荘のようだ。インターネットはすごい。ここに内部の様子まで紹介されている。これが個人の別荘だとは...ケタはずれの豪華さである。
 このあたりでは、住宅が津波に流されて仮設住宅に入っている人も多いと思われるが、一方で、こんな別荘で贅沢三昧の生活を送っている人がいるということに、矛盾を感じないでもないが、これが資本主義の現実というものであろう。筆者は、別にここの住人のような贅沢を非難したり、資本主義を否定するものではない。努力した人、競争に勝った人が成功する世の中は、ある意味で平等な社会である。しかし、一方で、日本は法治国家である。成功者が正当化されるためには、国民総背番号制度で所得を100%補足することが前提だと思う。災害など個人の努力ではどうしようもないことには、納税者である国民全体がそれ相応の負担をすべきだろう。

  29 別荘                      30 いわき病院
   

 海岸沿いなのにもかかわらず、大きな病院があった。元国立病院のようだ。こんな場所に病院がある場合は、そのルーツがサナトリウム、つまり結核療養所であることが多いが、ここはどうなんだろう。



  31 兎渡路バス停 その1              32 兎渡路バス停 その2
   

 病院を過ぎると、再び被災地が現れた。道路だけがまっすぐに続いているが、両側には建物の土台だけがのこる荒野が広がっている。バス停の名前が、「兎渡路」「の印」などユニークである。「兎渡路」はまだわかるが「の印」とはどんな意味があるのか、不思議である。

  33 の印バス停                   34 小河川(名称不明)河口
   

 橋の袂で、中年の男性に声をかけられた。セブンイレブンのご主人のようだ。キョロキョロしていたらどこから来たのかと聞かれたので、ちょっと悪戯心がでてきて、神奈川県から歩いてきた、と答える。言葉を失っていたので、いや、何日もかけて少しずつ、といったら、ようやく正気に返ったようだ。「旅はいいなあ、昔バイクで旅をしたなあ、時間があれば私も旅をしたいんだけど、こんな商売をやっているとね、ところで、あなたは学校の先生?」と聞かれた。「いや、違います。」と返事をする。教師という職業は、暇な人という先入観が根強いようだ。教師といっても小学校から大学まで様々であるが、高校や大学の先生あたりだと、やっていることがマニアックすぎて暇に見える人もいるのは確かである。
 こんなことをやっているおまえはどうなんだというもっともな質問は、今回は無視することにしよう。

 周囲の家々がすっかりなくなっていますね、という言葉は、さすがに言えずに飲み込んだ。

  35 移設された?石塔群               36 卒塔婆の建つ豊間海岸
   

 塩屋埼灯台がくっきりと見えてきた。

 37 豊間海岸から塩屋埼灯台を望む




  38 塩屋町付近                   39 希望の松
   

 何もなくなった土地に、立派な松が生えている。根本には力強い字で「HOPE」と書かれていた。希望の松の木である。

  40 監視台                     41 大國魂神社跡地 その1
   

  42 大國魂神社跡地 その2
       

 神社跡には、地元の氏子らしい人たちが集まっていた。 

  43 大國魂神社由来
   

 門柱だけが残っているのが痛々しい。

  44 残された門柱                  45 津守神社
   

  46 津守神社 再建石碑               47 豊間漁港豊間地区
   



 塩屋岬に続く山の峠を越えると、灯台と駐車場が見えた。観光客がたくさんいて賑やかである。

  48 塩屋埼灯台へ                  49 塩屋埼灯台駐車場
   

 残念ながら灯台は立入禁止になっていた。この塩屋埼灯台は、かなり遠くから標識があったのでそんなに有名な灯台なのか、と思っていたら、この観光客である。あとで調べてみると、この灯台が有名になったのは2つの理由があった。ひとつは、古い映画「喜びも悲しみも幾歳月」の原点となった手記の作者がこの灯台職員の妻だったこと、ふたつめは、美空ひばりの「みだれ髪」という曲の歌詞の中に、塩屋の岬が出てきたことである。
 実は、喜びも悲しみも幾歳月という映画は、題名だけは知っていたが見たことはない。今度、DVDを借りて見てみよう。

  50 塩屋埼灯台入口                 51 美空ひばり記念碑
   

 というわけで、美空ひばり関連のモニュメントが建っていて、人が群がっていた。

  52 薄磯海岸                    53 美空ひばり像
   

 賑わいからさらに北に続く海岸沿いの遊歩道を歩く。素晴らしい景色だ。昼食にしようと思ってベンチに座ると、ダミ声が聞こえてきた。写真53がすぐ後ろにあり、そこから美空ひばりの歌を流しているようだ。正直に言うと、観光地で演歌を流しているセンスは、自分には合わない。げんなりして、写真54まで離れるとようやく静かになったので、おにぎりを食べる。

  54 海岸から塩屋埼灯台を振り返る
       

 目の前に広がるのは薄磯海岸である。

 55 薄磯海岸




 砂浜の続く海岸沿いには、平薄磯地区の集落が広がっている。いや、広がっていたといったほうが正確である。眼の前にある惨状に言葉が出ない。もちろん震災直後の映像を見るとこの比ではない。瓦礫が片付けられ、道路が補修されているのがよくわかる。この報告によると、人口の20%が死亡、家屋の流失98%、当日は死体の山で地獄の光景だったそうである。

  56 豊間中学校                   57 平薄磯地区 その1
   

 中学校の校舎や体育館は破壊しつくされ、校庭はガレキ置き場になっていた。防波堤にはカラフルな絵が描かれている。

  58 防波堤のペイント                59 平薄磯地区 その2
   

 家々の土台だけが残るだだっ広いこの集落に、ギターの音がした。初老の男性が弾いているようだ。ここには誰も住んでいないと思ったが、写真60に写っている後ろ側のコンテナのような仮設住宅に住んでいるらしい。多分ここにマイホームがあったのだろう。コードを押さえているだけだが、物悲しい音色が破壊され尽くしたこの街に響く。ご家族を亡くされたのだろうか。
 一人ぼっちになってしまい、うつろな目をしてギターを爪弾く一人の男、なーんていうシーンは映画ではありがちだが、まさか、現実に被災地でそんな光景を見るとは思いもしなかった。不謹慎だが、なんだか、ハマりすぎて、悲しいと云うよりも可笑しいというか、笑えてしまうのは、過酷な現実があまりに非現実的だからだろう。ギターを弾く初老の男と明るい海岸で風に吹かれる卒塔婆というどこかで見たようなこの光景は、映画の1シーンではないのである。

  60 ギターを爪弾く男性               61 薄磯海岸の卒塔婆
   

 62 小学生の書いた塩屋埼灯台と豊間中学校


 防波堤には、子どもたちの記憶の中にある、破壊される前の学校と灯台が描かれていた。このペイントは、もちろん震災後に描かれたものであることは、写真63や64でわかる。コンクリートの基礎の残骸にはWe will stand strong again と書かれている。もちろんその願いは誰もが抱いているだろうが、私個人的には、言葉や思いだけでこの地区が以前のように復興すると考えるのは甘いと思う。市の復興計画はあるようだが、どれくらいの人が戻ってくるのだろうか。もしその日が来るとしても、それはこの震災を体験した人たちがこの世からいなくなり、津波の惨状が人々の記憶から薄れる遠い未来のことなのではないか。
 地元の人には大変申し訳無いが、そんな日が来る保証はどこにもない、というのが現地を冷静な目で見た私の感想である。そして、さらに言えば、数百年後か千年後かわからないが、とてつもなく長い間隔で再び太平洋のプレートが動いて、この地を大津波が襲うだろう、という予測は、間違いない科学的事実なのである。そして、前回とは違う決定的な事実がある。それは、確実な記録が残っていない前回とは異なり、2011年の津波は、膨大な文字や写真や動画の記録によって、確実に次回の津波がおこる時まで歴史として引き継がれるだろうということだ。つまり、人類はこの事実を忘れたくても忘れられないのである。
 個人的には、ここは公園や芝生にして、住民の方は安全な高台に住めないものか、と思う。避難といっても、深夜に地震が来たら、お年寄りや病人や障害者の犠牲は避けられないのではないだろうか。

  63 平薄磯地区 その3               64 平薄磯地区 その4
   

 65 薄磯海岸北端




  66 安波大杉神社                  67 豊間漁港沼ノ内地区
   

 68 豊神崎から新舞子海岸方面を望む


  69 豊神崎を振り返る                70 平沼ノ内海岸 その1
   

 このあたりは、テトラポッドがやたらと多い。せっかくの砂浜が無残である。何故と思ったら、写真72のように、海岸で大規模に作っているのであった。復興予算がたくさんついているのだろうか。

  71 平沼ノ内海岸 その2              72 テトラポッド工場
   

  73 滑津川河口                   74 新舞子海岸へ続く県道382号豊間四倉線
   

 滑津川を超えると新舞子海岸入口の標識が見えた。林の中を見事な一直線の県道が続いている。

  75 滑津川河口から塩屋埼灯台を望む         76 枯れた松林
   

 塩水で枯れてしまった松林があった。



  77 新舞子海岸 その1               78 新舞子海岸 その2
   

 海岸が整備されており、このあたりが新舞子海水浴場の中心らしい。歩いていて結構切実なのは、茨城県北部から北は、海岸線のトイレが津波のせいでことごとく封鎖されており、使えないことである。

  79 新舞子海岸 その3               80 新舞子海岸公衆トイレ
   

  81 津波で倒れたままの海岸標識
  津波のことを知らなければ、美しい海岸である。

 82 新舞子海岸 その4




  83 かんぽの宿いわき                84 新舞子海岸 その5
   

 かんぽの宿いわきが見えてきた。この内陸部は池のある公園だが、かなり荒れ果てている感じである。ここで、道路に復帰しないと、河口の砂洲で行き止まりになりそうである。

  85 新舞子海岸 その6               86 磐城舞子橋へ
   

 道路の内陸側も低湿地帯になっている。

  87 県道382号線沿いの湿地帯
  川が海沿いに流れている。 



 88 夏井川河口と磐城舞子橋


 夏井川河口付近は、広々とした原野という感じの光景が広がっていて、歩いていても気持ちがいい。

  89 磐城舞子橋
  立派な磐城舞子橋を渡る。 

 90 磐城舞子橋から夏井川河口を望む

 91 磐城舞子橋から夏井川上流を望む



  92 新舞子海岸 その7               93 消失した砂浜
   

 このあたりは侵食が激しく、砂浜は完全に消失し、海岸沿いの堤防の上も崩落により歩けなくなっていた。重症である。

  94 新舞子海岸 その8               95 不法投棄の山
   

 おまけに、震災の影響からか、不法投棄された粗大ごみの山で荒廃した雰囲気である。

  96 新舞子海岸 その9               97 海岸の新たな生活の営み
   

 堤防はまだ壊れているが、ようやく何とか歩けるようになった。落ちないように気をつけながら北へ向かう。

  98 新舞子海岸 その10              99 ガレキ置き場
   



  100 放棄された家屋                101 東舞子橋
   

 美しい海岸線と破壊された傷跡が奇妙なバランスを保ちながら続く。こうした光景をみてつくづく思うのは、人の作ったもののはかなさと自然の強靭さである。1000年に一度という津波による、これまでの海岸の被害を見ても、自然は復元しつつあるが、人工的なものは破壊されたまま荒廃するばかりである。波や風や太陽エネルギーの調和の結果が自然状態であるのに対して、人工物はエントロピー増大則に逆らっているからである。しかし、人工物の荒廃は、あくまで人の目から見た結果であって、放置すれば、やはりエントロピー増大則にしたがって、長い長い時を経て自然と同化し、定常状態に落ち着くのではないだろうか。
 もっとも、以上の理論は、高田純次並みのテキトーさであるから、あまり信じないように。

  102 横川河口                   103 瓦の瓦礫
   

 瓦の瓦礫の写真を撮っていたら、警備員のおじさんに睨まれた。



  104 四ツ倉海岸 その1              105 四ツ倉海岸 その2
   

 四ツ倉地区に入った。遠くから見えていたランドマークである白いマンションがすぐ近くに見えてきた。そろそろ四ツ倉駅へ行くために西に向かわなければならない時が来たようだ。長かった海岸線の最後の写真を撮って別れを告げる。

  106 四ツ倉海岸 その3              107 四ツ倉駅へ
   

 四ツ倉駅は、懐かしい感じのする木造駅舎であった。次の上り電車まで40分以上あるので、駅前のスーパーで水分補給と車内反省会の買い物をする。喉が渇いたので、駅の待合室で缶ビールによる水分及び少量のアルコール補給を行う。

  108 四ツ倉駅                   109 四ツ倉駅の上り普通列車
   

 15時50分発の普通列車に乗って16時にいわき駅につくと、16時16分発のスーパーひたち50号がすでにホームに停まっていた。車内で恒例の反省会をしたが、先程のビールの相乗効果はあまりなかったようだ。

  110 いわき駅のスーパーひたち           111 本日の反省会
   

          現在地
  

 GPSによる本日の歩行経路 (時間:5h53m 距離:25.9km )


 かつては美しかったであろう、いわき市の海岸は、今、自然の光景はもとどおり、あるいは新しい秩序のもとに落ち着きを取り戻しているが、人が作り上げた人工的なものは荒廃しつつある。破壊された住宅地はやがて自然に還るのではないかと思わせるほどだ。
 破壊され尽くした海岸を見ると、映画「猿の惑星」のラスト、崖の下の砂浜から自由の女神の残骸が見えて、猿が支配するこの惑星が、実は人間の文明が滅びた後の地球だったという衝撃的なシーンを思い出す。

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