海岸線をどこまでも          

    本州一周(になりそうもない旅) 福島県の海岸線の旅もいよいよ終わりの時が
◆ 第12+39日目(2012年11月10日)  四ツ倉J-Village      


 福島県、すなわち東北地方に足を踏み入れて3日目、眠い目をこすりながら、上野駅の早朝、見慣れたスーパーひたちに乗るが、いつもと違うことがある。それは、スーパーひたちで終点のいわき駅まで乗り通したことである。完乗である。そして、もしかすると最後の乗車になるかもしれない。
 今日の天気予報は関東地方はもちろん、福島県浜通り南部も晴れ、絶好の日本一周日和である。

            本日の気象衛星写真
      

 しかし、いわき駅から普通列車に乗り換えて降り立った四ツ倉駅は雲が多い。衛星写真でもこの日は東北地方の太平洋側に少し雲がかかっているようだ。

  1 四ツ倉駅                     2 四ツ倉海岸 その1
   



 しかし、海岸にでると日が差してきた。ちょっと雰囲気がリゾートぽっくなってきて、一瞬被災地であることを忘れさせてくれる。

  3 四ツ倉海岸 その2                4 四ツ倉海岸 その3
   

 四倉港は、新しく綺麗な道の駅が目を引く。子供を連れた家族連れが多く、何の変哲もない平和な海辺の公園である。1年半前の災いの爪跡は、言われなければわからないほどには復興しているようだ。

 5 道の駅よつくら港



 何よりも海辺の公衆トイレが使えるようになっていることは素晴らしい。蘇った海辺のトイレは、東北地方に入ってからは初めてかもしれない。

  6 四ツ倉港の公衆トイレ               7 四ツ倉港前
   

 しかし、目立たないところでは、写真8のようにまだ復旧工事が続いている。

  8 四ツ倉港災害復旧工事               9 四ツ倉から海岸沿いを北へ
   

 海辺のホテルは残念ながら休業中のようだ。ロケーションから見て直撃だったのだろう。

  10 ホテル蟹洗                    11 滝の御前稲荷 その1
   

  12 滝の御前稲荷 その2
      

 岬に小さなお稲荷様があった。無事だったのだろうか。

    13 滝の御前稲荷解説板
      

 この先は、やたらと波が激しく押し寄せており、歩道にもしぶきがかかって濡れている。歩道橋は錆びて真っ赤である。

  14 蟹洗から望む海                 15 激しい波浪
   

 激しく打ち寄せる太平洋の白い波濤の先にはトンネルがあった。

 16 江之網トンネルへ向かう



  17 江之綱トンネル                 18 歩行者用トンネル
   

 トンネルを2つ抜けるが、両方共横に歩行者用のトンネルがあり、安心して通行できた。

  19 波立トンネルの歩行者用トンネル
      

 トンネルを抜けるとそこには島があった。

 20 弁天島

 弁天島である。かつては観光客が嬉々として渡ったであろう橋は、津波のせいか、それとも波浪かのせいかはわからないが、破壊されて通行できなくなっている。しかし、橋の上は今でも海水がかぶっており、はたして濡れずに通行できたのだろうか。それとも地震の影響で地盤が沈下したのだろうか。

  21 波立海岸                    22 波立薬師
   

 写真でもお分かりのように、とにかくこのあたりは波が高いので、地名も「波立」である。ただし、お寺の解説板によると読み方は「なみたち」ではなく、「はったち」らしい。

    23 波立薬師解説石碑
   

  24 波立海岸から弁天島を振り返る          25 テトラポッドが並ぶ浜
   

 今は荒れ果ててテトラポッドで埋めつくされている波立海岸であるが、以前はこのように美しい海岸だったらしい。弁天島や波立寺がある風光明媚な観光地だったのだろう。



  26 被災地                     27 ビジネスホテル
   

 写真27のリゾートホテルは、復興公共事業関係者のビジネスホテルに様変わりしていた。

  28 久之浜第一小学校田之綱分校跡          29 被災地に咲く花
   

 眺めの良い場所があったので一休みする。珍しく海を見下ろす電話ボックスがぽつんと立っている。使う人はほとんどいないだろうに。
 悪いことに、波立海岸に入ってから小雨まで降りだしてきた。東の空は晴れているが、上空には黒い雲が低く覆いかぶさっている。帽子をかぶってウインドブレーカーのフードを引っ張りだして雨を凌ぐ。弱気の虫が頭をもたげるが、交通機関があるわけでもなく、どうしようもないので、とりあえず久之浜駅まで頑張って歩くことにしよう。

  30 電話ボックス                  31 石碑
   

 気を取り直して写真32の海岸線を歩きはじめるが、途中で道がなくなり、仕方なく陸側に渡る。リゾートホテルのような建物の敷地に迷い込んでしまった。企業の研修施設のようだ。路がないので、ちょっとだけ敷地内を通らせてもらう。

  32 久之浜海岸へその1               33 クリナップトレーニングセンター
   

 道路に復帰し、旧道らしき道を斜めに右に入ると、もうそこは美しい久之浜海岸である。

  34 旧道を久之浜海岸へ               35 久之浜海岸 その1
   



 美しい砂浜と壊れていない海岸堤防は津波の痕跡を感じさせないが、写真36の場所には悲しい情景があった。

  36 久之浜海岸 その2               37 久之浜海岸 その3
   

 堤防の上に置いてあるのは兜である。端午の節句用だろう。男の子が健やかに育って欲しいという親の願いは波の向こうに散ってしまったのだろうか。近づいてよく見ると、ピンクの子供用腕時計が置いてある。こちらは多分女の子用だろう。思わず眼の奥の涙腺が緩みそうになるのを必死に堪える。子供はいけない。死ぬのならば歳の順にすべきである。神様は順番を間違えてはいけないのである。

 堤防から、久之浜の市街地が見えてきた。いや、元市街地であったところである。ローマの遺跡のように土台のコンクリート区画だけが残った見渡す限りの広い土地に赤い鳥居と神社の社だけが異彩を放っている。

 38 久之浜市街地


 神社の敷地だけは周りよりも数メートル高くなっており、社の全壊はかろうじて免れたらしい。地域の守り神様だけが残り、周囲の家は跡形もなくなっているこの光景はこの世の無常観を現しているように感じてならない。神社の神様も津波の前には無力だったのだろうか。この光景はどこかで見たような気がする。そうだ。焼け野原に残った広島の原爆ドームのイメージに共通するものを感じる。

 39 稲荷神社から見る太平洋


 神社の杜からみる海は何事もなかったように変わらず青く輝いている。海風に「ここに故郷あり」の幟がバタバタとはためいていた。海の恵みに包まれた故郷を、跡形もなく失ってもなお、地域を見守っている神社。その小高い丘から北を見ると、写真40のように虹が見えた。復興の希望となる虹だろうか。破壊され尽くした荒野の上に架かる虹の意味は、それを見る人の心の中にあるのだろうか。

 40 稲荷神社からみる被災地と虹




  41 立派な建物                   42 残された風呂場
   

  43 蔭磯橋                     44 大久川
   

 大久川に突き当り、橋を渡って上流に向かって歩く。ふと川を見ると写真45のように大きな魚が泳いでいた。黒い魚だ。一部白い色をしているので錦鯉かと思ったが、どうも様子が違う。よく見ると間違いなく鮭である。白く鱗がはげて見えるのは、産卵後のせいだろうか。川で泳ぐ鮭を見るのは初めてである。感動した。さすがに東北地方である。津波がこようが、地震があろうが、鮭は太古からの営みを今も続けながら、故郷の川で力強く生きている。
 写真46の地点では、住宅街に赤い幟が見えた。その上にある住宅は津波の被害を受けなかったようで、平穏な落ち着いた町並みである。たった数mの違いが、明暗を分けた非情な光景である。

  45 大九川河口の鮭?                46 明暗を分ける住宅
   

  47 傾いた橋脚                   48 流された橋跡
   

 圧倒的な津波の力の前に、傾いた橋脚だけが残る。



 岬の向こうにある漁港に行くために丘を越えるが、漁港への道は立入禁止だった。

  49 久之浜漁港へ                  50 久之浜漁港入口
   

 人家のない海沿いの寂しい道を北へ向かうと、白い波しぶきが見えた。金ケ沢海岸である。相変わらず波が高い。

  51 金ケ沢海岸へ                  52 金ケ沢海岸
   



 この海沿いの谷間の小さな集落は高台にある1件の家を残して、全滅していた。ここでも、集落の中心の小高い場所に神社がある。高台にあった社の本体だけはなんとか全壊を免れたのか、それとも仮設の社なのか。雨が強くなってきたので、社の軒下で雨宿りをしながらパンをかじる。無人となったこの集落では、奇妙な静寂と猛々しい波の音だけが空気を支配している。

  53 日吉神社 その1                54 日吉神社 その2
   

 神社の横には、写真54のようにまだ新しい石碑が倒れて、真っ二つになっていた。そこには、「此の里の安全と繁栄を祈念し建立」と大きく書かれ、区長以下おそらくこの集落全員であろう、25の名前が刻まれている。同じ姓も多い25世帯がこの海辺の小さな集落で助けあいながら肩を寄せあって暮らしていたのだろう。建立の日付は、2006年2月14日になっている。それから5年後の災いなど想像もしなかったに違いない。碑に込めた住民の願いも虚しく、今、ここに、石碑は割れて、死んだように横たわっている。見守るべき住民がもういなくなったここでは、神社はその役割を終えたのだろうか。このまま草葉の陰に埋もれていくのだろうか。

  55 日吉神社からみた金ケ沢集落跡地         56 国道6号線を目指して内陸へ
   

 常磐線を越えると山側の集落は健在で、何事もなかったような農村風景である。

  57 金ケ沢第1トンネル               58 久之浜パーキング
   

 国道6号線に出て、そのままトンネルを通る。途中のパーキングエリアの店はすべてシャッターが閉まっており、自動販売機だけが作動していた。

  59 末続海岸                    60 末続駅入口
   



  61 国道6号線陸前浜街道              62 いわき市から広野町へ
   

 しばらく陸前浜街道、すなわち国道6号線を歩く。そして、12時50分、長かったいわき市の行程を終えて、ついに広野町に入った。市町境から旧道に入る。

  63 夕筋トンネル                  64 ひっそりと佇むホテル
   



  65 傾いた資材置き場                66 海岸近くを通る常磐線
   

 車の通行も少ないのんびりとした田舎道である。畑を耕している老夫婦が、カメラを持つこちらを、よそ者への警戒の目で観察している。そもそも、徒歩で移動している人は皆無なのでかえって目立ってしまう。

  67 常磐線高架                   68 折木地区から海を望む
   

  69 折木川河口                   70 浅見川へ
   



  71 坊田橋                     72 浅見川
   

 山を越えて浅見川に出る。川の水は恐ろしく澄んでいる。広々とした広野町の中心地区である。

  73 テトラポッド工事現場
      

 浅見川河口付近では、復旧工事が盛んに行われていた。

 74 復興が進む浅見川河口付近


 津波の去った後の荒野の向こうにいるパワーショベルの力強いオレンジ色が、曇天の空の下で復興のシンボルのように輝いていた。

  75 下浅見川の集落 その1             76 下浅見川の集落 その2
   

 広野町の海側の集落に入る。家並みは残っているが、まだ住むための準備をしているようだ。広野町の役場がここに戻ってきたのが、2012年3月のことなのでしかたがないだろう。

  77 下浅見川の集落 その3             78 北迫川へ向かう
   

 79 荒涼とした海岸線




  80 無人になった集合住宅              81 北迫川河口
   

 人がいなくなり、補修されない道路を歩きながら、北迫川河口に向かうが、河口の橋はすでに無くなっていた。その上流の常磐線横の橋もまた、写真82のように流されている。しかたがないので、常磐線の下を強引に突破して、さらに上流の橋に向かう。

  82 常磐線東側の落ちた橋              83 常磐線鉄橋下
   

 橋の近くで写真を撮っていると、犬を連れたおじさんに声をかけられた。「何やってるんだ。」訛りは少ないので言っていることはよくわかるが、声にトゲがある。「いや、海岸線を旅してるもんで...写真を」「どこから来た?」「神奈川県からです。」「電車できたのか?」「ええ、四ツ倉駅から」
 「どこまで行く?」詰問調である。「広野町と楢葉町の境辺りまでしか行けないんですよね。」「そんなことはねえ、その先の○×△まで行けるよ。宿泊はできねえけど立入禁止は解除になった。」「歩きなので戻ってこれないと困りますんで」「帰りはどうする?」「広野駅まで戻ってきます。」「電車の時間はみたのか。あんまり走ってねえぞ。」「たしか16時台に1本あったような...ところであの煙突は発電所ですよね。」「原子力じゃねえ、火力発電所だ。避難した時に、こっちの子供が放射能で汚れてるっていじめられて、そんな東京のために電気を送ってやることねえっていったんだけど、夏場の電気が足りねえっていうんで5月から動いてるよ。」「そうですか、大変だったんですね。ところで津波の被害はどうだったんですか。」「常磐線の線路の盛土がちょうど堤防になって、津波は止まった。」「俺の家はそこで、前の道路まで水が来たけど、家は大丈夫だったよ。」「よかったですね。」

 寿司屋の大将らしい。ようやく咎めるような口調はなくなって、少しフレンドリーな雰囲気になったのでホッとする。言っていることは八つ当たりのようなところもあるが、原発事故と津波で故郷が壊滅した気持ちは、我々には想像もできない苦しみだろう。首都圏の電力供給のために自分たちが犠牲になったという言い分ももっともである。よそ者が、我が物顔に写真を撮るのは、不愉快なのも当然だ。ここは、現地の人に対する気遣いが必要である。お礼を言って先を急ぐと、除染車がすれ違った。

  84 除染作業掲示板                 85 除染車が行き交う
   

  86 行き倒れたタヌキ その1              87 北迫地蔵尊

   



 2箇所で道端に倒れているタヌキを見る。片付ける人もいないのだろうか。

  88 行き倒れたタヌキ その2            89 広野火力発電所
   

 森の向こうに見える大きな2本の煙突が近づいてきた。火力発電所に向かう1本の道は、警備員が厳重にガードしており、一般人は近づけないようだ。左手には風車や温室らしきものが見える。二ツ沼総合公園だろう。今歩いている道は立派だが、地形図には載っておらず、最近開通した道なのだろう。

  90 二ツ沼総合公園                 91 雨天練習場
   

 発電所へ向かう十字路を過ぎると、右側に大きな鳥かごのような施設があった。サッカーの雨天練習場らしい。いよいよJ-ヴィレッジの敷地に入ってきたのだろうか。中を覗いてみると、白い大きなテントのようなものが並んでいる。災害対策用だろうが、何の目的で使われているんだろう。かすかに動物の鳴き声のようなものが聞こえた。

  92 練習場内部                   93 広野町から楢葉町へ
   



  94 橋の上から内陸側を望む
         

 緑が深い谷を大きな橋で渡る。広野町と楢葉町の境界である。海側を見ると、火力発電所の煙突と大きな虹が見えた。今日はよく虹が見える日である。

 95 町の境界橋からみる広野火力発電所と虹

 楢葉町に入ると、左手に建物が見えてきた。J- ヴィレッジだろう。ご存じの方も多いとは思うが、J- ヴィレッジは、サッカーのナショナルトレーニングセンターである。実際に作ったのは東京電力である。電源立地の見返りとして、日本サッカーと地域振興の名目のもとで、この地に作ったのだろう。
 誤解のないように書いておくが、私は、このような地域振興を否定しているわけではない。実際に歩いてみれば、もし原子力を含めた電力事業がなければ、この地域の発展はなかったということがよくわかる。発電所があるから、寿司屋の商売が成り立つのである。
 これは、原子力発電の危険性とは全く別の次元の話である。こちらは技術の話だ。この世に100%すなわち絶対に安全な技術はなく、すべての人の営みは、突き詰めればどれだけのリスクを許容するかという話になる。ただし、真のリスクというものは有限の知識に基づいて計算される確率であり、常に不確実である。しかし、ブラックボックスのリスクを政府や専門家は説明しないか、あるいは明確に説明できないし、説明しても安全と危険の二者択一しか認めない国民には理解できないので、騙された、と感じることになるのだろう。

  96 除染廃棄物?                  97 J- ヴィレッジ その1
   

 写真98がJ- ヴィレッジからさらに北に伸びる道路である。現在は検問所はなく、車で入れるようだ。しかし、これより先に行くのは、次の理由からやめようと思う。

 第一に、楢葉町は平成24年5月から避難指示解除準備区域になり、立ち入りはできるようになっているが、現時点では住民と公益目的及び復興工事関係者だけに限定されていることだ。つまり、少なくとも建前上は、私のような物見遊山の部外者が立ち入ることはできないことになっている。
 第二に、この区域内は、公共交通機関がなく、宿泊も禁止されていること。つまり、車がないと帰って来られなくなるのである。
 第三に、この地域内は、水道、電気、道路などのインフラは保証されておらず、リスクが高いこと。
 第四に、略奪が横行するなど治安が悪く、何かあっても警察を頼ることもできないことだ。逆に、歩いているところを職務質問されたら窮地に陥ってしまうだろう。
 最後に、これが一番大きな理由であるが、これ以上、被災地の惨状を見たくないという正直な気持ちがある。本来、旅は楽しいものであるが、福島県に入ってから見る海岸の光景は、心が折れるような、つらく厳しいものであった。このような気持ちで歩き続けるのは、もう限界である。
 読者の方々には、このサイトの目的が被災地の現状をお伝えすることではないことをご理解いただき、ここで、海岸線の旅を一旦終わりにすることをお許しいただきたい。

 というわけで、低く黒い雲におおわれた写真98が「海岸線をどこまでも」の最後のショットになってしまった。

  98 J- ヴィレッジから北へ伸びる道路        99 J- ヴィレッジ北側の道路
   

 左折して、J- ヴィレッジ沿いに西へ向かうと、駐車場にはたくさんの車があった。ただし、どの車も遊びに来ているわけではないことだけははっきり分かる。仕事の車である。
 日本サッカーの一大拠点であった、このJ- ヴィレッジには、現在、サッカー関係者はいない。いるのは、原発、電力、災害対策関係者である。今も続く、原発事故の処理のための後方基地になっているのである。

  100  J- ヴィレッジ 駐車場           101 J- ヴィレッジ その2
   

 公道から写真を撮っていると、警備員に怒られてしまった。テロや原発反対運動の標的になるのを恐れているのだろう。まあ、普通に考えれば、こんなところを徒歩でウロウロしているだけでも、捕まってもおかしくない怪しい行動である。広野町の寿司屋の大将を最後に、歩いている人は皆無であった。
 カメラを取り上げられなかっただけでもよしとしなければならないだろう。外国だったら、スパイだと思われて、銃をつきつけられてもおかしくない。自分が、歓迎される観光客ではなく、修羅場に迷い込んだ招かれざる客であることをはっきりと自覚した。

  102 J- ヴィレッジ その3            103 J- ヴィレッジ グラウンド
   

 J- ヴィレッジは、一部で人工芝のグラウンドが原型をとどめている程度で、仮に、将来返還されるとしても原状回復には莫大な費用がかかりそうである。



 国道6号線にでた。車の通行はあるが、警察車両が停まっていて、重苦しい雰囲気である。ここから、左折して、広野駅に戻ろう。

  104 国道6号線                  105 廃棄物置き場
   



 公園は、資材や汚染物質の置き場になっている。

  106 二ツ沼総合公園 その1            107 国道東側の沼
   

 コンビニがあった。おそらく、浜通りの東京側最後のコンビニだろう。関係者の車で結構混んでいる。

  108 浜通り東京側最北端のコンビニ         109 二ツ沼総合公園 その2
   

 二ツ沼総合公園は、東芝の臨時事業所になっていた。除染作業を請け負っているのだろうか。ここで、久々に歩いている人を見た。といっても、国土地理院の委託で測量をしている人たちであった。一般人ではない。

  110 国土地理院の測量               111 パチンコ屋を利用した原発関係事業所
   

 国道沿いに新興住宅地があった。車が停まっているので、住民が皆無というわけでは無さそうだ。

  112 広洋台住宅地                 113 除染作業標識
   

 広野駅に向かう。写真114のあたりは、なんとなく歴史が有りそうな街並みである。旧道に入ったのだが、ここ広野町は浜街道の宿場町だったのである。

  114 広野駅へ                   115 タヌキとの再会
   



 116 広野駅北側の常磐線

 広野町の市街地に戻ってきた。堤の上の常磐線の線路を見てみる。3.11以来、列車が通ることのなくなった錆びた線路が北に続いている。いつか、この線路の上を再びスーパーひたちが疾走する日は来るのだろうか。

  117 除染作業                   118 シャッターの降りた商店
   

 広野駅付近の商店街は、想像以上のゴーストタウンであった。歩いている人はいない。商店街のシャッターは全て閉まり、駅前のスーパーは、復興関連の事務所に変わっている。いるのは、除染作業に従事する人だけである。町のホームページによると、総人口5246人の内、町内に戻っているのは493人、つまり、1割以下である。人がいないのも無理は無い。

  119 閉店したスーパー               120 駅前商店街
   



  121 広野駅外観                  122 広野駅改札
   

 15時40分、現在の常磐線上野側の終着駅、広野駅に着いた。駅前は、暗く人気がないが、タクシーだけは停まっている。雨が降って寒いので、小さな駅舎の中に入る。時刻表を見ると、一日9本の列車が運行しているようだ。それにしても、鉄道が動いているというのは、この町にとって希望の光だろう。通学の足でもあるはずだ。赤字だろうが、なんとかJRには頑張って維持してほしいものだ。なかなかこの駅に来ることはないと思うので、乗車券を記録しておこう。
 次の上り列車は16時51分。待ち時間は1時間以上ある。服を一枚足して、温かい缶コーヒーを飲みながら、海岸線の旅がここに一旦の区切りがついたことなどをぼんやりと考える。

   123 広野駅時刻表      124 広野駅からの乗車券
        

 発車時刻が近づくと、待合室にも人が集まってきた。工事関係者と地元の人、数人である。

  125 広野駅ホーム                 126 ホームから見た駅舎
   

 予期せぬ終着駅になってしまったこの駅に、普通列車が入ってきた。暗くなりかけた寂しい駅のホームを、いわきから来た電車の明るい照明が照らす。ホッとするような嬉しいような、人恋しさを癒してくれる希望の光である。

  125 広野発いわき行き普通列車           126 いわき駅のスーパーひたち54号
   

 いわき駅で、もう、当分乗ることのないであろう、スーパーひたち号に乗り換える。

  127 上野駅に着いたスーパーひたち54号
       

 最後に上野駅のスーパーひたちをカメラに収めた。

 GPSによる本日の歩行経路 (時間:7h00m 距離:30.5km )


 我々が便利で快適な文明生活を享受した宴の代償として、ここから先の海岸線の地域はパンドラの箱が空けられた贖罪の地になってしまった。セシウムの放射線量半減期から考えれば、私が生きているうちにこの浜通り街道が再び開かれることはないかもしれない。しかし、可能性が0ではない限り、この企画を終えないでおこうと思う。いつの日か、また美しいこの海岸線を旅するときのために、あくまで中断するだけである。長生きして、いつの日か日本一周をなしとげけたいものである。まあ、たとえそれがかなわなかったとしても、このウェブサイトの記録が残れば、それだけでも良いではないか。自分が生き、歩いた証しである。そんな自分勝手な妄想で、この「海岸線をどこまでも」の第5部は今日をもってとりあえずの区切りとしたい。

 多摩川からここまでの39日間の拙い記録を読んでいただいた方、感想をよせていただいた方、励ましていただいた方、途中で出会ったたくさんの地元の方たちに感謝しながら、この海岸線の旅におけるしばしの休息をいただききたいと思う。

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