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◆ 2020年9月23日
日本人ならば、
人生で必ずやっておきたいことの一つに、「現存12天守を見ておく」がある。
日本の建物は木造なので地震で倒れたり、火事で焼けてしまう。それに追い打ちをかけて、明治維新と太平洋戦争という2つの出来事により、多くの城は消失してしまい、江戸時代以前から現存する天守は日本全国でも たった12しか残っていない。
具体的には、弘前城(青森県)、松本城(長野県)、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城(滋賀県)、姫路城(兵庫県)、松江城(島根県)、備中松山城(岡山県)、丸亀城(香川県)、伊予松山城、宇和島城(愛媛県)、高知城(高知県)である。そのうち、松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城は国宝、それ以外の城もすべて重要文化財だ。中世期の軍事と権力の象徴であり、かつこれほど国民に親しまれている貴重な建築物はそうないだろう。
記録に残してはいないが、これまでに11の城を訪れることができたので、今回は、その最後の1つを訪れる企画を実行することにした。
最後に残ったその城とは、福井県にある「丸岡城」である。地味な城で北陸という場所にあるからというわけでもないが、なんとなく最後になってしまった。
地図を見てみると、丸岡城は福井市の北、坂井市というところにある。最寄り駅は丸岡であるが、城へのアクセスを見てみると、この丸岡駅は使われていない。城は丸岡駅からからかなり離れているのにも関わらず、そこに行く公共交通機関がないらしい。なんということだ。
とはいっても一応観光地だろうから、どこかの駅からバスの便はあるだろうとさらに検索してみた。福井駅と芦原温泉駅からのバスが有るようだ。所要時間は、芦原温泉駅からのほうが短く、約20分である。ちなみに「あわらおんせん」と読むのは知らなかったが、福井出身ではないので許してもらいたい。
次に、鉄道のアクセスであるが、神奈川県南部からだと、米原で新幹線から北陸線の特急に乗り換えるのがメインルートだ。特急は芦原温泉駅にも停車するので、アクセスルートはそれに決定だ。
米原駅で新幹線から北陸線の特急しらさぎ1号金沢行きに乗り換える。8時57分に発車した列車は、福井平野を北上して、10時11分に芦原温泉駅に到着した。
1 芦原温泉駅
駅名とは裏腹に温泉街は少し離れているようだ。が、今日の目的はそちらではない。逆方向の南に向かう芦原温泉駅10時40分発の永平寺行きのバスに乗った。
11時6分に丸岡城横のバスターミナルについた。大きな土産物屋さんがあり、結構な観光地になっている。
2 バス停前の解説板
3 歴史民俗資料館横から登城する
パンフレット抜粋
城の由来はパンフレットの抜粋のとおりであるが、その前段があるようだ。
豊原寺は、元々天台宗の大寺院であったが、一向一揆勢に乗っ取られて一揆軍の本陣にされてしまった。さらに朝倉氏が滅亡した後の1575年に、織田信長に一向一揆の味方をした因縁をつけられ、焼き払われてしまった。とんだ災難である。
その後、越前には柴田勝家が入って福井市に北ノ庄城を築き、1576年に豊原寺の南、平野部に新たに築かれた丸岡城に勝家の養子、甥である柴田勝豊が入った。当時の丸岡城の主な築城目的は、一向一揆対策である。
4 城に登っていく
このあたりの石垣は明らかに後世のものである。
5 丸岡城天守 その1
本丸には、天守がそびえ立っている。やはり、現存天守は存在感がまるで違う。歴史の空気、数百年の時を超えた戦国のオーラが半端ない....(ホントかよ?)
6 天守解説板
この解説板には、最古の様式という微妙な記載がある。少し前までは最古の現存天守ということになっていた、つまり、戦国時代に柴田氏によって築城されたものだというのである。
その根拠として、天守が独立式望楼型と言う古いタイプであること、急な階段があるなど作りが古い箇所が見受けられること、石垣が自然石をそのまま積み上げている「野面積み」であること等が挙げられていた。
しかし、調査の結果、江戸時代にはいった1628年に建造されたことがわかり、最古の城かどうかは議論の余地ができてしまったようだ。
でも、天守の形や色は古色蒼然としており、やはり戦国時代に信長の天下統一の過程で建てられたものだと思いたくなる。当時、越前・加賀は一向一揆で領主不在のめちゃくちゃな状態になっており、信長と柴田勝家も苦労したに違いない。いわば一向一揆勢と対決するために建てられた実戦的な最前線の城だったのである。ちなみに、信長が朝倉氏を滅ぼしたのは1573年だが、柴田勝家が越前と加賀の一向一揆を滅ぼしてやっと北陸を平定したのは1580年、本能寺の変の2年前のことである。
7 お静慰霊碑
8 慰霊碑横の解説板
伝説が事実かどうかはともかく、石垣を積むのも苦労があったようだ。
信長亡き後の清州会議で、秀吉の長浜城は柴田勝家のものとなった。そこに勝豊が入ったので、お静の約束は反故にされてしまったようだ。しかし、勝豊は勝家と仲が悪く、1582年に秀吉に包囲されるとなんと秀吉方に寝返ってしまう。初っ端からこんな裏切りがあるようでは勝家の勝ち目はなく、賤ヶ岳の戦いで負けた勝家は秀吉に追い詰められていくことになる。裏切った勝豊は戦の直前の1583年に病死してしまうが、お静さんの呪いだったのだろうか。
9 丸岡城天守 その2
信長の天下布武への気迫がみなぎるような丸岡城の構えだ。
10 天守石垣
11 天守内部
現存天守はどこもそうであるが、質素で暗く、意外と狭い。特にこの城の階段は恐ろしく急であり、老人では登れないだろう。ちなみに、当時の殿様は天守の最上階に住んでいたと思われがちだが、居住空間ではなく、偵察・指揮と戦闘のための施設であることは、実際に行ってみればよくわかる。殿様は普段は下の御殿で生活しているのである。
12 丸岡城模型
他の城の例にもれず、丸岡城にも立派な堀があったが、残念ながら埋め立てられてしまい、城郭の規模が小さくなってしまったことは残念だ。
13 天守構造解説
国宝になる日はくるだろうか。
14 重要文化財指定書
15 天守からの眺め
柴田勢は、このように一向一揆勢の動きを見ていたに違いない。
16 丸岡城天守 その3
小ぶりだが、凛とした佇まいの天守である。
本丸を下り、城下に降りて散策してみよう。立派な城下町だが、現在は地方の小都市に過ぎない静かな町である。
17 タブの木 18 堀の跡である田島川
時代は信長から秀吉、そして徳川の世となり、本多成重が城主となるが、その父である本多重次が長篠の戦いの際に妻子にあてた日本一短い手紙として「一筆啓上
火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文が有名である。この「お仙」は嫡子仙千代つまり成重のことである。そこで、地元ではこのエピソードを売りにしており、観光施設まで作ってしまった。
19 日本一短い手紙の館
館内には戦国期・江戸期の資料があるのかと思ったら、全国から公募した手紙文が展示してあり、まあそれはそれで悪くないが、歴史とは関係ないのでちょっと拍子抜けしてしまった。ちなみに歴史資料は天守の下にある歴史民俗資料館にあるが、やはり統治が長く資料がたくさん残っている本多家の展示が多かった。できれば、戦国期の資料を見たいが、柴田家も一向一揆も滅んでしまったので、殆どないのだろう。
そろそろ丸岡城をあとにして、本日の宿泊地である福井市へ向かおう。直接福井駅へ向かうバスもあるが、今後も乗る機会がほとんどないであろう北陸本線の普通列車に乗ってみたいので、芦原温泉駅まで戻り、福井駅へ向かった。
20 福井駅 21 御本城橋
福井駅につくが、ここで寄っておくところがある。それは、柴田勝家が築いた北ノ庄城跡である。もちろん、1583年に勝家の自害とともに焼失しており、現在は福井城址と名を変えている。北ノ庄城の正確な位置はわかっていないが、柴田神社に本丸があったのではないかという説がある。現在の遺構は江戸期の天守再建後のものであり、県庁と県警本部が建っている。
22 福井城址案内板
23 天守台
福の井は、北ノ庄という地名が縁起が悪いということで、福井に改名されるきっかけとなった井戸だという説がある。この井戸がなかったら、現在の福井県、福井市は北ノ庄県、北ノ庄市になっていたわけである。
24 福の井
25 天守台解説板
26 天守跡
27 福井城天守解説板
28 福井地震の爪痕 29 山里口御門
30 山里口御門と福井城内堀
それぞれの想いも半ばに織田信長、柴田勝家、柴田勝豊の3人とも数年の間に相次いで非業の最期を遂げたわけであるが、彼らの越前攻略の執念と苦闘を想像する旅であった。明日は、さらに少しだけ時代をさかのぼった朝倉氏の栄華の跡を見に行こう。
関連サイト ◆一乗谷(2020年9月24日)
本日の歩数 (11,255歩 )
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