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◆第14日目の追加調査(2011年1月16日) 京王よみうりランド駅 〜 よみうりランド
2010年12月31日に訪れた、三沢川からよみうりランドへ続く県境であるが、ゴンドラに乗って空から見たいという欲望に負けてしまったことは、すでに書いた。しかし、このサイトの命題である「自分の足で歩いて踏破する」というポリシーに反していたことは事実である。そこでまず今日は、この部分を改めて徒歩で踏破しておくことにしよう。
朝日を浴びる京王よみうりランド駅を降り立って、三沢川の県境を目指す。
1 よみうりランド駅 2 三沢川県境標識
写真2の県境を直登するのはどうみても不可能である。
そこで、穴澤天神社の湧水裏の崖から登ることにした。
3 穴澤天神社湧水 4 湧水奥からの登り
急坂の階段を登ると、神社の本殿と筆塚があった。かなり古い神社らしい。
5 穴澤天神社 6 筆塚
7 筆塚解説板
8 穴澤天神社獅子舞解説板
獅子舞の起源、天正年間といえば、戦国の世、織田信長の時代である。
尾根に登って行くと、地形図にはない新しい道が開通していた。歩道には選手の手形のレリーフがある。このカーブの場所は、写真11のとおり実に良い眺めである。
9 神社からの登り 10 ジャイアンツ球場への道
11 稲城市方面を望む
予定ではそのまま、よみうりランド方面に行って県境に出会うはずであった。ところが、ふと左の山に目をやると、そこは山道が続いているではないか。県境がある方向である。これは行っておかなくてはならないだろう。
12 11の地点から東へ向かう山道 13 天神坂
天神坂という坂を登り切ると、そこは広場になっており、小沢城址という碑と地図があった。その地図によると、そこから東に山道が続いていることがわかった。これこそ、県境の道である。やはり、現地に来てみないと判らない発見も多い。そこでまず、この道を東へたどって、この県境の尾根道の登り口を特定することにした。
実際に行く人のために、アプローチの部分の写真を撮っておく。写真2の三沢川県境をそのまま東へ進み、三沢川が分岐する場所である写真14を右へ入ってすぐに、写真15の入口がある。この尾根道は、多摩自然遊歩道という名称がついている。Yahoo地図では、ここである。
航空写真だと緑の山がはっきりとしてわかりやすい。
14 三沢川から多摩自然遊歩道へ 15 多摩自然遊歩道入口
一度、通ってきた道であるが、改めて写真を撮りながら登っていく。ヒールでは登れない完全な山道である。写真17では、多摩消防署と書いてあるので、ここはまだ川崎市であることがわかる。
16 多摩自然遊歩道 その2 17 多摩消防署の注意看板
写真19の三叉路を右折して階段を登った正面が浅間山である。
18 多摩自然遊歩道 その3 19 多摩自然遊歩道 その4
浅間山についた。小さな祠があるが、説明板によると浅間神社だそうである。多摩区や麻生区の人々の富士講信仰は、尾根伝いにこの小沢城址に来て、山を下って多摩川を渡り、調布から甲州街道を通って富士吉田までというルートを通ったそうである。ここからすでに富士講の安全祈願をしていたのだろうか。
20 浅間山山頂 その1 21 浅間山山頂 その2
浅間山直下の写真22の地点で、道の右側に石柱を見つけた。近づいてみるたのが、写真23である。はっきりと「都県」と読める。県境である。地図のとおり、この尾根道が県境であることが確認できて、ホッとした。後で調べてみると、Yahoo地図では、浅間山はここである。それによると、県境は矢野口の渡しからこの浅間山に登り、ここから東へ尾根沿いに続いていることがわかった。つまり、浅間山の真下が写真2の地点ということになる。
22 浅間山直下の多摩自然遊歩道 23 都県境石杭
尾根の県境の道が続く。
24 多摩自然遊歩道 その5 25 古井戸跡
古井戸の跡があった。明治時代に危険防止のため、城址に残っていた投石用の石を投げ入れて埋めたそうである。城の重要な水源だったはずだ。
26 多摩自然遊歩道 その6 27 空堀跡北側
尾根を南北に貫く大規模な空堀の跡が残っている。
28 空堀跡南側 29 馬場跡
先ほど偶然登ってきた天神坂の終点がこの広場である。小沢城址となっている。
30 富士登山の碑 31 小沢城址碑と解説板
解説によると、中世の重要な山城で、この城をめぐって幕府の存続や関東の覇権をかけた大きな戦いが何度か繰り広げられたようだ。山城から平城へという時代の流れと共に廃城になったようだが、江戸時代には城址が富士塚として賑わったことは、浅間山のところに書いてあったとおりで、写真30のような立派な碑が建っていた。
32 小沢城址解説板 その1
33 小沢城址解説板 その2 34 多摩自然遊歩道 その7
県境の旅と丘陵ハイキングと歴史散歩の3つが同時に楽しめたお得な体験であった。
35 現在地案内図 36 多摩自然遊歩道 その8
さらに直進すると、写真36の地点で山道が終わる。
自然の尾根は、ここでおわり、これから先の尾根は読売グループによって開発されて地形が改変されてしまった。尾根上には、巨人軍の施設がある。ジャイアンツの選手は、神奈川と東京の都県境の尾根の上を行ったり来たりしながら練習しているのである。写真37の地点から、最後の自然の尾根地形を振り返ってみたのが、写真38である。
37 巨人軍新室内練習場 38 県境の尾根を振り返る
尾根らしい雄大な景色や熱心なジャイアンツファンを横目に見ながら尾根に新設された新しい立派な道を西に進む。
39 稲城市街方面を望む 40 ジャイアンツファン
ゴンドラの下には、長嶋茂雄が書いた「巨人への道」の碑がある。
41 ゴンドラ 42 巨人への道の碑
その碑は、よみうりランド駅から登ってくる階段の突き当りにあった。息を切らせて上り詰めた正面にこの碑が待っているわけである。ここは県境のはずであるが、残念ながらそれらしき証拠は見つからなかった。
このあたりはYahooの地図によると県境が複雑に走っているが、実は自然の尾根の地形を人間が改変してしまった結果のような気がする。つまり、県境を見れば、昔の尾根筋がわかるのではないだろうか。
43 よみうりランド駅からの階段 44 鉄塔
このあたりから、都県境は慶友病院の東側に移る。
45 慶友病院へ 46 慶友病院横の県境
47 よみうりランド観覧車
遊園地の横を通った都県境は、このあたりで一番高い丘に向けて登っていく。その丘には現在、写真48の温泉施設が建っている。その後、県境の尾根は写真49のゴルフ場の横の道へ続いている。
48 よみうりランド丘の湯 49 丘の湯から続く県境
写真49から先は、12月31日に歩いている。本編に無事繋ぐことが出来た。それにしても、空から見ているだけではわからない尾根の古い道と中世の重要な山城を思いがけず見ることができたことは、面白い体験であった。やはり現地を歩いてみると、素晴らしい発見があるものだ。
また、ゴンドラに乗ってしまったツケを、ここできっちりと返すことができ、無事徒歩による神奈川県一周が続けられることになってよかった。
参考 ◆第14日目(2010年12月31日) 矢野口駅〜はるひ野駅
◆第16日目(2011年1月16日) 柿生駅 〜 こどもの国駅
よみうりランドの尾根を探索した後、バスで小田急線の読売ランド前駅に出て、そこから電車で柿生に移動する。漸く本筋の県境の旅に復帰である。まず柿生駅から南に進み、上麻生交差点先の都県境を確認する。
50 柿生駅 51 上麻生交差点先の都県境
52 51地点町田市側からみた都県境 53 麻生水処理センター北側
陸橋を渡り、下水処理場の北側を西に向かう。処理場の横、緑の広場という公園の北側に写真54の路地があるが、これが上麻生交差点から小田急線を超えて南下してきた都県境である。緑の広場は川崎市、道路反対側の住居表示は町田市で、車も多摩ナンバーだ。
54 緑の広場西側の都県境 55 川沿いの都県境 その1
写真54の小径の突き当りは、写真55の小さな川である。県境も、この川に突き当たると左に折れて、川に沿って続いているようだ。
56 川沿いの都県境 その2 57 麻生水処理センター
この川は、激しく蛇行している。地図によると、真光寺川から分岐して麻生川に繋がっているようなので、真光寺川または鶴見川の旧河川跡だと考えられる。鶴川高校の裏側である。
58 川沿いの都県境 その3 59 沿い川の都県境 その4
60 鶴川高校前の橋 61 通学路閉鎖の警告
高校の裏手には、写真60のとおり、この川を渡る橋があるが、そこには写真61のような笑えない看板があり、通学路が閉鎖されていた。善意で私道を通学路に提供していた地主を激怒させてしまったようだ。高校生が何か悪さをしてしまったのだろうか。ちなみに、塀の上からこの通学路を写真に撮っておいたのが、62である。
62 通学路 63 川沿いの都県境 その5
都県境は川沿いに続くが、昔は川幅がもっと広かったらしく、写真64のような護岸の跡が並行して続いていた。
64 旧河川の護岸跡 65 川沿いの都県境 その6
写真65の地点で道は狭くなるが、ここで麻生川に合流した。都県境はここからほぼ麻生川に沿っている。
66 麻生川の都県境 その1 67 麻生川の都県境 その2
川を挟んで右岸側が町田市、左岸側が川崎市であるが、写真69のように右岸側にもかかわらず川崎市である土地があった。
68 麻生川の河床 69 右岸の川崎市資材置き場
その土地は写真70のような不自然な形をしている。地図ではここである。これは、麻生川(あるいは鶴見川かもしれない)が蛇行していた跡に違いない。川崎市分が右岸に取り残されたのであろう。
70 69の資材置き場 71 耕地橋から麻生川下流の都県境を望む
地図上では、麻生川に沿って続いている都県境が、鶴見川との合流点の手前で右に直角に曲っている。その場所はおそらく写真72のところだろう、と思ってフェンス沿いに歩いて行くと、写真73、74の都県境標識を見つけた。ビンゴである。
72 鶴見川へ向かう都県境 その1 73 鶴見川へ向かう都県境 その2
74 鶴見川都県境標識 75 対岸の都県境標識
鶴見川である。下流にある橋をわたって、反対側の鶴見川右岸に行ってみる。遊水池は、以前鶴見川探訪で見た覚えがある光景だ。
76 75の標識 77 恩廻公園調節池管理棟
この遊水池は、正式名を恩廻(おんまわし)公園調節池といい、写真77のような立派な管理棟がある。この管理棟の横が県境である。なんと、写真78のように中が見学できるようになっていたので、入ってみた。事務所には管理人がいたが、ほとんど来場者がいないらしく、突然の来訪者に驚いてなにか机の向こうでバタバタと慌てていた。暇過ぎて、何か暇つぶしをしたくなる気持ちは理解できるが....
来訪者が何人いるのか知らないが、管理人を常駐させて展示までするのは、いくら公共事業とはいえ、無駄だと思う。施設のPRであれば、看板かホームページで十分であろう。費用対効果の検討や事業効果のチェックが機能していない典型事例だ。
78 管理棟内部 79 恩廻公園入口
遊水池管理棟から道路を横断すると、恩廻公園である。下の公園の由来の解説を読んでいただければわかるように、ここは昔の鶴見川の流路であり、旧河川を境界線とした都県境は、この公園の中を東へ進む。
80 恩廻公園解説板
81 恩廻公園 その1 82 恩廻公園 その2
旧鶴見川に沿った都県境は、ここで突然直角に右折して、尾根に登っていく。地図ではここになる。下から見て、おそらくこの辺だろうと見当をつけたのが写真83の地点である。ここは、神奈川県側の川崎市麻生区と横浜市青葉区との境でもある。
が、道がないのですこし上流側にいくと写真84、85の尾根に登って行きそうな農道があった。近くに短大があるらしいが、「地域住民からの要望により通学路を閉鎖します。」という看板がある。先程の高校生といい、学生のマナーに問題があるのだろうか、それとも地主の寛容さがたりないのか。→ 地元の方からの情報によるともともとスクールバス専用道路だったのが、自家用車が通って危ないので閉鎖になったそうだ。
83 恩廻公園(旧鶴見川)からみあげる都県境の尾根 84 尾根への入口
85 尾根へ登る道 その1 86 尾根へ向かう道 その2
尾根に着いた。反対側はゴルフ場になっている。
87 県境の尾根 88 ゴルフ場横の尾根道
横浜、川崎、町田の境界点の写真83の地点まで戻れるか、確かめることにした。写真90の地点で人家に突き当たったが、この赤い屋根は下からも見えた建物(写真83の左上に小さく写っている。)なので、都県境に間違いないだろう。
89 88地点から北へ 90 都県境を北へ向かった突き当り
再び写真88の地点に戻り、都県境沿いに南へ向かう。昔のままの尾根の山道である。右下には短大のキャンパスが見えた。 → 地元の方からの情報とWikiの記載によると2010年3月で、短大は閉校になったようだ。
91 尾根の都県境を南へ向かう道 92 東京田中短期大学
地図によると、この県境の尾根道は、寺家ふるさと村という谷戸まで続いているようだ。山深い尾根道には、なぜか写真94のような都県境石杭が、たくさん設置してある。
93 寺家ふるさと村への道 94 都県境石杭
95 寺家ふるさと村への道 その2 96 電波塔
尾根にはつきものの電波塔があった。携帯やパソコンが屋外で使えるのは、このおかげである。特に、この多摩地区は起伏があるので、余計に尾根に電波塔を設置する必要があるのだろう。
写真98のような分岐点があるが、目立つ都県境石杭のおかげで道に迷うことがない。
97 寺家ふるさと村への その3 98 分岐点
気になる案内板があった。遺跡らしいのでちょっと寄り道してみる。
99 横穴墓群への分岐 100 下三輪玉田横穴墓群
101 横穴墓群解説板
写真102の奥の台には、貴人の遺体が横たわっていたのだろう。
102 墓の内部 103 寺家ふるさと村への道 その4
尾根道の県境に復帰してしばらく歩くと、写真104の不法投棄の現場に遭遇した。車が入れる道になったということである。さらに行くと、写真105の地点で寺家ふるさと村の谷戸に出た。
104 不法投棄 105 寺家ふるさと村への道 その5
地図によると、水車小屋の上が池になっているので行ってみる。が、残念ながら写真107のとおり工事中であった。
106 寺家ふるさと村 その1 107 池の工事
県境はここからこの道に沿って谷戸の上流に向かって続く。それにしても、ここが横浜市内とは思えない風景である。というよりも、昔の多摩丘陵は、皆このような農村であったという方が正しいかもしれない。
しかし、今やこのような風景が見られるところは少なくなってしまい、わざわざ家族連れが車で来ている。それを目当てに焼き芋屋さんまで出ているので、ますます長閑な景色になっている。
その戦略にまんまと引っかかって、焼き芋を買ってしまった。石焼き芋を買ったのは何年ぶり、いや何十年ぶりだろうか。中サイズで200円である。味は可もなく不可もなくであった。
108 寺家ふるさと村の谷戸と焼き芋屋 109 焼き芋(中)
この谷戸には、いくつかのため池がある。
110 むじな池
111 寺家ふるさと村 その2
ため池のうち、一番奥にあるのが、大池であるが、その手前に写真112のホームレスらしきおじさんを見かけた。ベンチに座ってこちらをぼんやりと眺めている。カメラを向けても反応はない。河川敷ではよく見るが、こんな人里離れた谷戸の奥にすんでいるのは珍しい。しかし、よく考えれば、茶色のテントは農家の資材置き場で、あの人は農家の人かもしれない。だとしたら申し訳ないので、ここで謝っておく。
112 ホームレスの家 113 大池
正確には、大池の手前を右に入り尾根に登る道が県境なのだが、現地では外してしまい、池の横から尾根に登る。
114 大池の横を通る都県境 115 大池から尾根への道 その1
116 大池から尾根への道 その2 117 都県境の尾根
尾根の県境に復帰した。場所はココである。都県境はここから東へ向かっているのだが、地図ではこどもの国に突き当たっている。現地の標識も写真118のとおり行き止りとになっている。しかし、なぜか道はあるようなのでそのまま写真118の道に分け入る。これだけ踏み跡があるということは、もしかしたら抜けられるのかもしれない。
118 都県境の尾根にある標識 119 こどもの国方面へ続く道
120 都県境石杭 121 行き止まり地点
鉄製のフェンスに阻まれて、写真121の地点で行き止まりになった。標識どおりである。残念ながらこれ以上は進めない。大きく迂回するしかないだろう。しかし、フェンスの向こうには、写真122の都県境らしき石杭があるのを確かめた。
ところで、行き止まりの山道なのになぜ廃道になっていないのか不思議であったが、その謎は現地で解けた。写真123の鉄塔を管理するための道として使われていたのである。
122 都県境石杭? 123 鉄塔管理道
引き返して、都県境を外れてそのまま東へ向かう。右下にはグラウンドがあり、選手の声が響く。しかし、降りていく道はない。
124 尾根からみる駐車場 125 ため池解説板
熊野池は釣り堀として賑わっていた。団地の中を通って日体大の敷地の東側を南下する。
126 熊野池 127 日本体育大学
バス通りに出たら右折して、横浜美術大学を過ぎ、さらに右折すると、こどもの国である。日が傾いてきた。こどもの国の裏山に突き当たった県境だが、これからどうしたものだろうか。
128 横浜美術大学 129 こどもの国駅
130 こどもの国線電車
こどもの国駅から帰路に着いた。
今日は、午前と午後で別のミッションをこなした。
後半は、川−尾根−谷戸−尾根と、多摩丘陵の地形の変化と自然を十分堪能することが出来た。しかし、今回も時間の関係で、あまり距離は伸びなかった。次回は、こどもの国に阻まれた状況を打破しなければならない。多摩丘陵の尾根と川を巡る県境の旅は、まだまだ続きそうだ。
(本日の歩数:31526歩)
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