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アプトの道(信越本線廃線跡) 日本有数の鉄道の難所 碓氷峠
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◆ 2018年5月27日
鉄道は趣味の中でもかなりメジャーな分野だろう。
今や確固たる地位を築いていて、写真、車両、模型、乗車、時刻表、秘境駅など様々な分野に細分化されている。廃線跡を探索する趣味も1990年代に宮脇俊三(1926-2003)がベストセラーを出してから、一般人にも知られるようになった。北海道の広尾線幸福駅などは、鉄道マニアだけでなく、一般観光客にもすっかり有名な観光スポットになっている。
そうした廃線跡は、維持管理に費用がかかるので、放置されて自然に還る場合も多いが、自転車道や遊歩道に転用される例も多い。
さて、廃線になる路線は、地方の赤字ローカル線が多いが、幹線が廃止になるケースもないわけではない。
その中でも、最大級のインパクトがあったのは、長野新幹線開通により廃止された、信越本線、横川・軽井沢間である。関東と信越・北陸方面を結ぶ大動脈にもかかわらず、国鉄時代から最難所として知られていた碓氷峠越えであるが、完全に廃止され、現在は遊歩道が出来てにぎわっているらしいのだ。これは、生きている間に行っておかないとまずいことになりそうだ。
5月27日、東京駅から6時52分発のあさま601号長野行に乗車する。この新幹線こそが、信越本線横川・軽井沢間を廃止に追い込んだ張本人であるのも皮肉なものだ。念のため7時24分発のあさま603号の指定席を取っておいたのだが、その前の列車に間に合い、自由席ががら空きだったので、乗り込んだ。
1 東京駅のあさま601号
新幹線は流石に速く、7時45分に高崎に着いた。横川行き普通列車の発車まで15分以上時間がある。ちゃんとした朝食を食べていなかったので、ちょっと早いが、横川駅を訪れる人が必ず行うと言われている恒例の儀式をしておくことにした。
8時02分高崎発普通列車に乗り込む。昔、東海道線を走っていた懐かしい電車内で、例の儀式を始めよう。車内には女子高生がいるだけで、観光客はみあたらない。しかもロングシートなので気が引けるが、高崎駅で買った峠の釜めしをご当地である横川行きの電車内で食べて何が悪い、と開き直ることにした。
食べようとして、あの有名な益子焼のずしりと重い釜に気がついた。これを持って歩くのは辛いので激しく後悔したが、持って帰らなければいいのだと気づいて思い直す。日本でも有数の知名度を誇る駅弁を、無事に食べ終えて、儀式を終えた。
2 峠の釜めし外観 3 峠の釜めし中身
そうこうしているうちに、8時36分の定刻に横川駅に到着である。重い益子焼はここで処分させてもらった。
4 横川駅に到着した普通列車 5 信越本線横川駅の終末点
かつて、軽井沢、長野、北陸方面へと続いていた信越本線は、写真5のとおり、横川駅の西側で完全に途切れていた。ちなみに、横川〜軽井沢間の廃止は、1997年(平成9)年なので、すでに20年近く経っていることになる。
横川駅前は寂れているかと思ったが、峠の釜めしを作っている荻野屋のおかげで結構にぎやかだ。
6 横川駅 7 横川駅前
これから歩くのは、アプトの道と命名された、日本最大級の整備された廃線跡だ。今一番人気のある廃線跡遊歩道だとも言われているらしい。立派なパンフレットも用意されている。
小さな川を渡ると、左手にどう見ても車両基地だったのが見え見えの施設があった。碓氷峠鉄道文化むらである。
8 信越本線跡 9 碓氷峠鉄道文化村
ここで簡単におさらいをしておくと、元々横川・軽井沢間の碓氷峠は、昔から中山道の難所で1878年(明治11年)になっても、明治天皇はこの峠を徒歩で越えるしかなかった。
しかし、富国強兵という急速な近代化のもとで、1892年(明治25年)についにこの碓氷峠にも鉄道が開通し、関東地方と信州、上越地方が鉄路で結ばれたのである(上越線が開通するのは昭和6年)。しかし、100mで6.7mも登る急こう配のため、列車が滑らないように歯車をかみ合わせて登るラック式鉄道の一種である、アプト式という方法が採用された。
その後、1963年(昭和38年)に急こう配のまま一部の線路を新設し、ラック式を廃止して、通常の粘着方式に変更された。この方式は、1997年(平成9)年の長野新幹線開通によりこの路線が廃止されるまで続いたのである。
10 アプトの道入り口 11 文化むら横 その1
アプトの道は、その名のとおり、明治時代の旧線のアプト式鉄道の廃線跡を利用して作られている。写真10の入り口は鉄道文化むらの反対側で、舗装されており快適な道だ。
12 文化むら横 その2
鉄道文化むらに展示されている機関車を見ながら歩を進める。文化むらは帰りに時間があったらよってみることにしよう。
13 文化むら横 その3
しばらく歩くと、複線だった信越本線の姿が、そのまま残っていることがわかる。長野方面下り線(物理的には登り)は現役、高崎方面上り線(物理的には下り)は、遊歩道になっている。今歩いている場所を、上野行き特急あさまが走っていたと思うと感動である。このあたりはアプト式の線路跡と新線跡は重複しているようだ、
14 信越本線上り線を歩く
そして、上を見上げると立派な道路ができていた。北陸新幹線と並んで関東と信州・北陸を結ぶもう一つの大動脈、上信越自動車道だ。軽井沢、長野をへて日本海まで通じている。
15 上信越自動車道
赤いレンガ造りの古そうな建物が見えてきた。
16 旧丸山変電所遠景
旧丸山変電所だ。乗務員が蒸気機関車の煙で窒息するのを防ぐため、明治時代にいち早く電化された時の施設らしい。当時の信越本線の重要度がよくわかる。
17 旧丸山変電所
18 旧丸山変電所解説板 その1
19 まるやま駅
20 旧丸山変電所解説板 その2
20−2 旧丸山変電所解説板 その3
残念ながら中は当時の物は撤去されているようだ。クラシックな外観を利用して、どうせなら改装して雑貨ショップとカフェにでもすればよいのに。重要文化財と言っても内部はすでに原型をとどめていないのだから建物だけ保存すればよいはずであるが、役所的には難しいか.....。
21 旧丸山変電所内部 22 峠の湯へ その1
峠の湯が見えてきた。日帰り入浴施設である。横川駅からの距離は、2.7kmだ。
23 峠の湯へ その2 24 峠の湯へ その3
25 峠の湯の道標
その手前に写真26のとおり線路の分岐がある。1963年(昭和38年)に一部の線路を新設し、ラック式が廃止されたので、右に分かれていく線路は、その時に作られた新線の下り(長野方面)の線路だろう。上り線は右側の一段低いところにあるため隠れているが、架線はまだしっかりしている。
26 アプト線と新線の分岐点
左にそれていくのが、明治期のアプト式線路の跡だ。
27 とうげのゆ駅へ 28 とうげのゆ駅
とうげのゆ駅を過ぎると線路はなくなり、上り坂の廃線跡が続く。やがて、前方にトンネルが見えてきた。
29 1号トンネルへ
30 北原白秋「碓氷の春」碑
31 1号トンネル
最初の1号トンネルだ。明治時代のトンネルの中を歩くのは興味深くてワクワクする。トンネル内は舗装されて照明もあり歩きやすい。天井は蒸気機関車時代、つまり明治時代の煤で黒くなっていた。100年前の煤である。
32 1号トンネル天井 33 1号トンネル内部
左手に中山道の標識があった。鉄道ができる前の道だ。興味をそそるが、今日は目的はそちらではないので直進する。中山道は、1号トンネルの上を通っているようだ。
34 旧中山道標識 35 第2橋梁へ
橋があった。碓氷第2橋梁というらしい。横から見ないとわかりにくいが、鉄筋コンクリートの無い時代、もちろんレンガ積みの橋である。
36 第2橋梁 37 第2橋梁側面
38 第2橋梁解説板 39 2号トンネル
続いて、2号トンネルを通り抜ける。写真40のとおり、内部は鉄骨で補強されていた。
40 2号トンネル内部 41 2号トンネル反対側
2号トンネルを抜けると、左手に美しい深緑の湖が見えた。碓氷湖である。ダム湖で自然の湖ではないらしい。湖畔に寄り道したい気持ちを抑えて、先へ進もう。
42 碓氷湖を望む
43 3号トンネルへ 44
旧国道18号線
旧国道をすぎると3号トンネルである。
45 3号トンネル 46 3号トンネルから4号トンネルを望む
続いて、4号、5号とトンネルが続く。トンネルもよく見ると、建設会社によって意匠がいろいろ違うらしい。それにしても、ろくな重機もない明治時代に、ほとんど人力での作業は過酷だっただろう。工事による犠牲者も多いはずだ。
47 4号トンネル 48 5号トンネル
5号トンネル内部は懐かしいナトリウム灯で照らされており、レンガの色が美しい。レトロ感満載である。
49 5号トンネル内部
50 5号トンネル出口からめがね橋 51 第3橋梁(めがね橋)
5号トンネルをすぎると、この廃線跡の一番の見所、白眉である第3橋梁、通称めがね橋である。とはいっても、写真51のとおり、上を歩いても眺めの良いただの歩道である。横、あるいは下から見て初めてその高さと美しさがわかる橋だ。
52 めがね橋側面
この谷の上流側には、昭和に作られた新線の橋梁も見える。
53 信越本線新線 54 めがね橋の古い写真
ここまで、それほど急坂という感じではないが、歩いていてやや負荷を感じるくらいの勾配だ。ちなみに、この碓氷峠は解説のとおり典型的な片峠、つまりこちらの群馬県側だけが急勾配になっている。標高差553mということなので、高尾山の登山よりも標高差がありそうだ。
55 碓氷峠標高差解説 56 6号トンネル
57 6号トンネル内部
6号トンネルは最も長く、通気のためか地形上の理由かわがらないが、大きな窓が空いている。
58 6号トンネルの窓 59 6号トンネル出口
60 第4橋梁 61 7号・8号トンネル解説
62 第4橋梁側面 63 第5橋梁側面
64 7号トンネル 65 8号トンネル
このあたりは、短いトンネルと橋梁が連続している。
66 第6橋梁側面 67 9号トンネル
トンネルの中はひんやりとした空気が流れており、夏でも涼しいかもしれない。もっとも、標高もおそらく600m近くあり、それなりに高いのであるが....
68 9号トンネル出口 69 第11橋梁
70 トンネル解説板 71 10号トンネル
10号トンネルを抜けると、今までと様相が異なっていた。なんだか明るい雰囲気である。アプトの道の終着点、熊ノ平駅跡だ。時刻は10時50分。急こう配が続く軽井沢への線路の中で、途中唯一の開けた場所で、列車の運行はもちろん、乗客にとっても、ほっとする空間だったに違いない。
72 熊ノ平駅跡へ 73 新線のトンネル開口部
碑があった。傍らの解説板には、この長閑とも思える山間の駅にも苦難の歴史があったことが記録されていた。
74 殉難碑 75 殉難碑解説
熊ノ平駅の栄華は古い写真に残っているが、電化や新線への切り替えによって、徐々にその役割を減じていったようだ。それでも最後まで、山の中の信号場として残った場所である。
76 熊ノ平駅古写真 その1
77 熊ノ平駅古写真 その2
78 旧変電施設
両側をトンネルで挟まれているが、ホームの跡も残っており、往時を偲ばせる遺構である。そして、なんといっても廃墟になった変電施設の威容は、力強さともの悲しさを感じさせる。
79 熊ノ平駅跡
80 熊ノ平駅解説
81 アプト式開通の碑 82 軽井沢方面を望む
軽井沢まではまだ半分であるが、この先は廃線跡は整備されておらず、立入禁止である。軽井沢に向かってトンネルの黒い穴がポッカリと空いているが、残念ながらこれ以上近づくことはできない。
できれば、アプトの道を延長して、軽井沢まで抜けられるようにしていただきたいが、横川周辺の観光施設にとっては、軽井沢にお客さんがスルーしてしまうのを危惧しているかもしれない。ただ、新幹線も停まる軽井沢から下り坂の遊歩道で横川まで廃線跡を歩けるコースができれば、もっと地域の観光資源としての価値が出るはずである。なにしろ、鉄道ファンだけでなく、買い物やグルメに飽きた軽井沢に滞在するセレブやお金持ちの旅行者が、こぞってこの道を通って横川を訪れるのである。是非検討していただきたいものだ。
さて、ここからは、横川に戻るにしても、軽井沢に登るにしても、バスをはじめとする公共交通機関はない。国道に出ても、歩くか、タクシーを呼ぶしかないので、素直にアプトの道を徒歩で戻るしかなさそうである。ただ、この状況は観光ルートとしてはちょっと稚拙である。前述したように、アプトの道の軽井沢までの開通を期待しよう。
ここまでの疲労はそれほどではないが、帰り道はなぜか足取りが軽い。なぜだろうか。それは下りだからだと気がつく。登山道のように急坂ではないが、同じ調子での下り勾配が続くので、どんどん歩いていける感じだ。改めて、碓氷峠の急勾配を実感できた。
この坂を、重い鉄の塊である列車が上り下りしていたのである。
帰り道のメガネ橋は写真83のように往路とは違ってやたらと混んでいた。軽装のこの人たちは、どこから来たのだろうか。よく見ると、バスツアーで来ているようだ。そのまま下っていく人が多いので、熊ノ平までバスで来て、峠の湯まで歩くコースなのだろう。これなら、体力のない人でも大丈夫だ。
83 賑わうめがね橋 84 落書き
メガネ橋は、下から写真を撮ったほうが良い絵になるので、国道まで降りることにした。途中でレンガに落書きを発見。「重要文化財に何てことしてくれるんだ」と、教育委員会も嘆いている。
85 落書き防止看板
86 めがね橋基部と解説板
明治時代、鉄筋コンクリートがない時代に、レンガを積み重ねて作った橋を見上げて、日本の大動脈だった信越本線に思いをはせる。
87 めがね橋を見上げる
88 旧国道18号線とめがね橋 89 国道からアプトの道へ復帰
めがね橋に登り返すのがつらいので、しばらく国道を歩いて、写真89の地点でアプトの道に復帰した。
12時ちょうどに、峠の湯に到着した。時間に余裕があるので、寄ることにしよう。その前に、トロッコ列車のとうげのゆ駅で時刻表を確認しておく。14時30分に発車である。行きにさんざん見せつけられたので、乗らないという選択肢はなさそうだ。
峠の湯は、3時間で600円とリーズナブルである。
90 峠の湯内部 91 浴場へ
青空の下、気持ちの良い露天風呂にはいったが、カメラがもちこめないので資料写真を載せておこう。
参考写真(露天風呂) 92 水分及びエネルギー補給
この時のために、のどの渇きを我慢していたので、軽井沢高原ビール\600を飲んだ。喉に染み渡るあまりのうまさに、ついお代わりをしてしまう。
さて、アルコールで脳も筋肉もリフレッシュ&リラックスできたところで、そろそろトロッコ列車に乗ることにしよう。旧信越本線下り線を利用して、ここから横川駅近くの碓氷峠鉄道文化むらまで、往復している。
シェルパくんという機関車は、2013年に新型になったようだ。形態からみてディーゼル機関車のようだが、調べてみると正式な鉄道車両ではなくあくまで遊具扱いらしい。総排気量11,040t、出力345馬力のコマツ製ディーゼルターボ・エンジンを積んでいるそうで、遊具と言うにはあまりに本格的である。まあ、線路が本物なので当然だ。
作ったのは、司機工という会社だが、調べてみると、遊戯施設と鉄道車両の両方をやっている会社で工場も埼玉県にあるので、まさにうってつけである。
93 トロッコ列車 94 機関車
駅で係の人が切符を売っていたが、1200円もするので驚いた。この列車は、公共交通機関ではなく、鉄道文化むらのアトラクションなので、鉄道文化むらの入園料も込なのであった。ちなみに、入園料だけだと500円なので、トロッコ列車代は700円ということになるが、セット券だけで別売りはしていないようだ。鉄道文化むらも観るつもりだったのでちょうどよい。
95 とうげのゆ駅出発 96 たのしそうな乗客
トロッコ列車は恐ろしくスピードが遅いが、みんな楽しそうである。途中のまるやま駅は通過してしまった。
97 ぶんかむら駅着 98 碓氷峠鉄道文化むら
扇型の建物は、昔、蒸気機関車の機関庫であったことがバレバレの造りである。
99 シンボル広場 100 鉄道資料館
シンボル広場は、蒸気機関車の転車台、鉄道資料館は国鉄時代の管理用の建物そのままである。鉄道マニアにはたまらない風景だ。
おそらくむかしの整備工場であったと思われる屋内の建物の中に、アプト式の後期の電気機関車、ED42が展示してあった。昭和期の製造なので、それほど古い感じはしない。この頃はすでに国産になっていたようだ。機関車の下には、ギザギザの歯車が着いている。これでは、スピードは出なかっただろう。実際に時速20km以下で走っていたようだ。
101 ED42型電気機関車 102 ED42前面
103 ED42解説板
104 特急あさま(189系) 105 特急あさま客室
さて、アプト式が廃止されたあと、電車の時代が来るが、長野新幹線ができるまでの主役はこの特急あさまだ。昔よくあった国鉄色型の特急だが、189系という碓氷峠用の特別仕様のようだ。
106 特急あさま運転台
特急列車の高い運転台に座って運転してみたいと思うのは、子供の頃の私だけではないはずである。
107 189系解説板
そして、粘着式になった新線のもうひとりの主役は、碓氷峠専用機関車のEF63である。ED42とは桁違いのパワーである。これが必ず2台連結して、軽井沢まで列車を押し上げるわけだが、このような急勾配では、むしろ下りの方が危険らしい。様々な特殊装備があったと解説されていた。
108 EF63型電気機関車
109 EF63解説板
そして、写真110のとおり、なんとEF63が実際に走っていた。動態保存され、講習を受ければ一般人も運転させてくれるらしい。マニアにとっては最高のアトラクションだろう。鉄道文化むらが長年営業を続けられているのも、こうした鉄道遺産を活かした画期的な工夫のおかげだろう。
この急勾配の坂も、単独で走る現在のEF63にとってはどうということもなさそうだ。引退して、急な坂道で電車や貨物列車を牽引するという重労働から開放され、のんびりと余生を送るEF63の幸せそうな姿である。おそらく旧国鉄職員の協力もあるのだろう。
110 走行中のEF63
鉄道文化むらを後にして、15時10分発の電車に乗ろうとして、横川駅に行く。なんと蒸気機関車が停まっていた。指定券がいるらしいが、今日は時間の関係で乗車できないのが残念だ。
111 快速SLレトロ碓氷号
高崎を経由して、山の中の峠から海辺の街に帰ろう。
今日は、最大の鉄道の難所、碓氷峠を巡る鉄道遺産を堪能した充実の一日であった。もちろん、鉄道マニア、廃線マニアでなくても、峠の釜飯を食べ、めがね橋の美しさに感動し、歩きやすいハイキングコースを楽しめるコースである。温泉もあって、観光バスツアーが行われているのも頷けるロケーションと観光資源が揃っている。
そして、この碓氷峠を鉄道ができる以前に越えていた旧中山道にもがぜん興味を持った。そちらにも訪れる機会を作ろうと思う。
本日の歩数 (23,283歩 )
関連サイト◆旧中山道碓氷峠
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