碓氷峠 (旧中山道)  鉄道ができる前に碓氷峠をどう越えたのか     
◆ 2018年6月3日               

 2018年5月27日に、信越本線の横川駅から、アプトの道と命名された、日本最大級の整備された廃線跡遊歩道を歩くことができた。

 明治時代に、大変な苦労の末開かれた碓氷峠の鉄道路線であるが、それ以前は、旧中山道を歩くしかないわけで、当時の日本で一番偉い人である明治天皇までもが歩いて越えざるを得なかったという事実に興味を持った。まあ、実際には籠や馬を使ったかもしれないが。

 現在、偉い人はもちろん庶民も含めてほとんどの人は、この碓氷峠を新幹線か高速道路で越えるわけだが、旧中山道の碓氷峠越えの区間は山の中にあったおかげで、時代に取り残され、ほぼ江戸時代当時の原型をとどめているらしい。この辺は、箱根越とよく似た事情であるが、ここは江戸時代にタイムスリップして歩いてみたくなるのが、人間の性というものだろう(決めつけた....)。

 さっそくルートを考えるが、すでに旧信越線跡をあるいて碓氷峠の極端な片峠っぷりを身をもって経験したので、自分の中ではほぼ答えは出ている。新幹線で碓氷峠を登り、軽井沢から横川に降りてくれば、ほぼ下り坂になるわけで、疲労のあまり碓氷峠山中で倒れることもないだろう。我ながら安易な発想だが、信州から江戸に上ると考えれば、一応言い訳は立つ。

 というわけで、さっそく翌週の6月3日、天気予報もまあまあなので、決行する。今日乗るのは、北陸新幹線のはくたか553号金沢行き、東京駅7時52分発である。前回の経験で、今のシーズンはそれほど混んでいないことがわかったので、今日は自由席である。がら空きだった。

  1 東京駅で北陸新幹線に乗り込む
     

 さて、ここで観察しておかなければならないことがある。関東平野から標高939mの軽井沢まで、旧中山道や信越本線が苦労した急勾配の難所を新幹線はどうやって攻略したのかということである。高崎駅の標高は約94m、その差は800m以上だ。
 
 まずルートだが、下の地図のとおり、安中榛名を経由して北に迂回しているが、それにしても標高差が変わるわけではないし、軽井沢駅が地下にあるというわけでもないので、新幹線といえどもかなりの急勾配になるはずである。



 結論から言うと、この区間の30‰の連続勾配を新幹線は200km/hの速度で走っている。詳しいことは、この線路を作った本人が書いているので、興味のある方はお読みいただきたい。
 もちろん、迂回の他に、土木技術の発達で勾配を平準化できたので、アプト式の最大67‰より緩やかであるが、それでもスピードが速いので30‰のこの勾配は驚くべきものである。

 こんな事情も知らない無知な私は、今まで、長野・北陸新幹線に何の気なしに乗っていたが、今回は高崎-軽井沢間の800m以上の標高差を新幹線がどうやって登っていくのか、注意深く観察することにした。
 
 高崎を発車した新幹線車両は、そう言われてみれば力強さを感じないこともないが、トンネルも含めて速度を落とす感じもなく、あっけないほど簡単に軽井沢駅まで登りきった。安中榛名は通過したので、高崎-軽井沢間の800m以上の標高差を登るのに、所要時間はたった16分である。恐るべし、新幹線パワーだ。

 そして、8時59分の定刻に、はくたか553号は無事軽井沢駅についた。文明のおかげで簡単に碓氷峠を越えてしまった。

  2 軽井沢駅
     



 駅から碓氷峠方面を眺めたが、こちら側からだと、ちょっとした丘にしか見えない。峠は大した高さはないことがわかる。

  3 軽井沢駅から碓氷峠を望む             4 軽井沢の華やかな建物
   

 軽井沢駅から北に向かう。なんとも華やかな道だ。高原の高級リゾートとして日本で最も有名な避暑地だけのことはある。

  5 レトロバス                    6 旧軽井沢宿
   

 駅前の道を突き当たったところが、軽井沢宿場跡、別名旧軽井沢である。時刻は9時34分。



 旧軽井沢銀座ともいうこの地区は、町割りだけが宿場の面影を残しているものの、建物は欧米風リゾートで、軽井沢を別荘地として開いた外国人の影響は大変なものである。最も、宣教師がこの軽井沢を見出してくれなかったら、宿場街は衰退して単なる寂れた田舎で終わっていたことだろう。

  7 軽井沢観光会館                  8 旧軽井沢宿標識
   

 それにしても、行き交う人々が異質である。観光客に混じって、都会の金持ち風の人の数も、多分銀座よりも多い。狭い道にベンツが我が物顔で割り込んでくる。洋館の前で、絵に描いたような高級マダムが、モデルのようにわざと目立つように立ちながら、電話をかけているのを見て、驚きを通り越して笑ってしまいそうになった。軽井沢をなめてはいけないのだ。なにしろ貧乏人がいないだけ、東京都心よりもハイグレードなんである。

  9 写真館                      10 つるや
   

 それでも、軽井沢宿の痕跡が、芭蕉の史跡やしにせ旅館に少しだけ残っている。

  11 芭蕉句碑                    12 矢ヶ崎川を渡る
   

 教会を過ぎ、川を渡ると、喧騒を抜けて静かな別荘地になる。



 そして、写真13の地点、県道と旧碓氷峠遊歩道との分岐に到着である。碓氷峠遊覧歩道とも言うらしい。歩きやすそうな道だが、残念ながら旧中山道ではなく、後年整備された道のようだ。

 さて、旧街道を歩くのは私のような年寄りの趣味としてかなり普及している。歴史を楽しみながら健康のために歩いて旅をしようというわけで、この中山道もそのような多くの人達が歩いており、ネット上にもたくさんの記録がある。しかし、これらの記録をみると、軽井沢宿−碓氷峠間は、どれもこれも、この碓氷峠遊覧歩道か、あるいは県道133号線を歩いているものがほとんどなのである。それは、なぜだろうか。

 実は、この区間の旧中山道がどこを通っていたのかという正確な情報が少なく、また、実際にこの旧道は現在ほとんど歩かれておらず、廃道になりかけているらしい。多分、旧街道を歩く的なガイドブックにも情報がないのだと思われる。
 これで、軽井沢から横川までの道のりにおける今日の前半のテーマは、決まった。この失われた幻の中山道を探索しよう。

  13 旧碓井峠遊歩道入口               14 旧中山道入り口 その1
   

 その旧中山道の県道からの入り口は、写真14のカーブミラーの手前らしいが、なんの標識もなく、予備知識がなければ絶対に見つけるのは不可能な場所である。近づいてみると、写真15のとおり、コンクリートが崩れており、ここを人が乗り越えて歩いていることがわかったので、確信した。
 この入口地点の座標は、北緯36°21′56.7″、 東経138°38′43.9″なので、実際に行く場合に、GPSかスマホで現在位置がわかる人は、参考にしていただくと目安になるだろう。

  15 旧中山道入り口 その2             16 碓氷峠へ その1
   

 獣道のようだが、踏み跡は確かにあるので降りていくと、ちゃんと中山道の標識がついている。廃道マニアや旧街道オタクには知られている道らしい。

  17 碓氷峠へ その2                18 碓氷峠へ その3
   



  19 碓氷峠へ その4                20 碓氷峠へ その5
   

 一旦、道路に出たり、また獣道になったりするので、ルートを正確にたどるのは、かなり難しい。事前の情報と、地図を用意するか、GPSの支援を使わないと、難しいだろう。

  21 碓氷峠へ その6                22 碓氷峠へ その7
   

  23 碓氷峠へ その8                24 碓氷峠へ その9
   



 倒木があるが、かまわず進んでいく。

  25碓氷峠へ その10                26 碓氷峠へ その11
   

 写真27で一旦道路に出るが、横断して反対側の草むらに道が続いている。

  27 碓氷峠へ その12               28 碓氷峠へ その13
   

  29 碓氷峠へ その14               30 碓氷峠へ その15
   



 石垣が見えて、みすゞやの茶色い建物が見えると、そこは旧碓氷峠である。10時30分だから、軽井沢宿からちょうど1時間弱かかったことになる。ここは、ちょっとした観光地になっておりバスも来ているようだ。

 無事、幻の中山道軽井沢-碓氷峠間を踏破することができた。上の地図が、その実際のルートである。もし、本当の中山道にこだわるのなら、ぜひ歩いていただきたい。軽井沢側から登る場合は、A地点を見つけられるかどうかが勝負である。碓氷峠からだと、B地点のみすゞやの反対側を降りていけば良いので、入り口はわかりやすい。

 ....などと、さも自分が発見したように偉そうなことを書いているが、実は、ちゃんとこのことを調べて、実際に歩き、記録を残している人がいるのである。こちらである。先人の苦労に感謝して、情報を利用させていただいたことにお礼を言わなければならない。

  31 碓氷峠へ到着                  32 碓氷峠 バス停
   

 施設の案内図があるが、中心にしげの屋だけがやたらに大きく書いてある。他の店は単に店としか書いていない冷遇っぷりで、誰が設置した看板かは一目瞭然である。

 33 碓氷峠観光案内図


 ここの名物は力もちらしい。結構お客さんがきている。

  34 碓氷峠 峠の力もち しげの屋          35 碓氷峠の2つの神社
   

 36 熊野神社由緒

 そして、ここが長野県と群馬県の県境をまたいで2つの神社がある有名な場所である。長野県熊野皇大神社と群馬県熊野神社に分かれているが、はっきり言って分ける意味がわからない。まあ、ご利益が倍になればよいということだろうか。

  37 長野・群馬県境標識
     



 38 赤門屋敷跡解説板


 県境である神社をすぎると群馬県だが、写真39のような面白い案内板を見かけた。ここ、関東地方の群馬県でトイレに行きたくなったら、わざわざ県境を超え中部地方の長野県で用を足せというのである。理不尽だ。だいたい、群馬県側にトイレをタダ乗りされては、トイレの建設費や汚水処理費用を税金で負担している長野県の人たちも面白くないだろう。よく考えると他県任せの無茶苦茶な群馬県サイドの案内板である。

  39 県境を超えたトイレ案内              40 群馬県側へ
   

 群馬県に入ると道が狭くなり暗い感じになる。やはり、片峠だけあって群馬県側は山深い急坂なのだろう。

  41 ローマ字標識 その1               42 ローマ字標識 その2
   

 何故かローマ字の案内があった。外国人が迷いやすいのだろうか。

  43 分岐点案内図                   44  思婦石
   

 ここから左手に伸びている広い道は、和宮道と呼ばれている新道である。和宮は、幕末の孝明天皇の妹で、井伊直弼が暗殺された後、朝廷と幕府の融和のための政略結婚で、将軍家茂に嫁いだ女性だ。

 京都から江戸へ行くには、東海道を通るのではと思うが、桑名の渡しや大井川などの不安要素があったため、中山道にしたそうである。それにしても碓氷峠の下りは険しかったのだろう。北側になだらかな新道が開かれたのである。

  45 和宮道との分岐                 46 仁王門跡
   



  47 和宮道                     48 旧中山道
   

 なだらかな和宮道ではなく、中山道を降りていく。

  49 子持山へ その1                50 子持山へ その2
   

  51 子持山へ その3                52 子持山へ その4
   

 途中に地形図とGPSの軌跡が食い違う写真51、52の地点を通過した。下図のC地点であるが、これは明らかに国土地理院の地図の誤りで、実際は斜面を短絡しておらず、トラバースして傾斜が緩やかな道になっている。ちなみに、このことについても、先程の先人が記録を残している



 本格的な山道になってきた。

  53 子持山へ その5                54 子持山へ その6
   



  55 沢を渡る                    56 子持山へ その7
   

 ここには人と馬の休憩所があった。水があるので休憩するにはちょうどよかったのだろう。

  57 人馬施行所跡説明板               58 人馬施行所跡
   

  59 化粧水跡                    60 和宮道の合流地点
   

 ここで、和宮道が合流する。ここは子持山の真下で、地図によるとこの子持山の北西側を新幹線のトンネルが貫いている。また、このあたりを陣馬が原ともいうそうだ。

  61 北から合流した和宮道              62 子持山解説板
   

  63 陣馬が原解説板                 64 陣馬が原
   

 一つ家跡と言う場所があった。「ここには老婆がいて旅人を苦しめたと言われている。」と簡潔に解説されているので山姥伝説なのだろうか。それにしても意味深なので、もう少し詳しく説明しないと、欲求不満になりそうである。

  65 一つ家跡                    66 廃屋
   

 山の中に別荘のような立派な廃屋があった。ということはここまで車が入る、または過去には入れたということである。

  67 山中坂解説板                  68 山中坂
   



  69 山中茶屋跡へ                  70 山中学校跡
   

 11時30分、やや平坦な場所に出た。山中茶屋の集落であるが、学校まであったとは驚きである。そして、この先は車は行き止まりだとの看板があった。ということは、ここまで、車は軽井沢側から入れるということである。とすれば、和宮道しかない。あの道がなぜ広いのか、やっとその理由がわかった。

  71 山中学校解説板                 72 山中茶屋解説板
   

  73 山中茶屋跡 その1               74 山中茶屋跡 その2
   

  75 山中茶屋跡 その3               76 入道くぼ解説板
   

 信仰の跡も多く、いまは誰もいないこの山奥の集落が、ずいぶんと栄えていたことが忍ばれる。

  77 線刻馬頭観音                  78 栗が原
   

  79 栗が原                     80 明治天皇巡幸路分岐
   

 さて、幕末の和宮のために道を作ったことを見てきたが、今度は彼女の甥、つまり明治天皇のために作られた道が残っている。ここがその分岐点でここからアプトの道方面に下っていたらしい。地図にもその道が記載されている。刎石山の先の急斜面を避けたのだろう。



  81 碓氷峠関所へ その1              82 碓氷峠関所へ その2
   

  83 座頭ころがし解説板               84 座頭ころがし
   

 座頭ころがしという場所に出た。解説でははっきり書いていないが、座頭とは、要するに目の不自由な人のことである。その人達が転ぶほどの急坂だということらしいが、それほどでもないような気もする。ただ小石がゴロゴロしていたということなので、滑りやすかったのかもしれない。

  85 碓氷峠関所へ その3              86 一里塚解説板
   

  87 一里塚跡                    88 北向馬頭観世音
   

  89 北向馬頭観世音解説板              90 碓氷峠関所へ その4
   

  91 碓氷峠関所へ その5              92 南向馬頭観世音解説板
   



  93 堀り切り解説板                 94 堀り切り
   

 歴史の痕跡が多い。さすがに古くからある街道だ。

  95 碓氷峠関所へ その6              96 碓氷峠関所跡
   

  97 峠の小屋                    98 碓氷峠関所解説板
   

 江戸時代の関所は、横川駅近くに残っているが、それよりはるか昔にはここに関所が置かれていたらしい。

  99 峠の小屋から関所跡を振り返る          100 道標
   

 道標によると、もう行程の2/3以上は歩いたようだ。



  101 四軒茶屋跡解説板               102 四軒茶屋跡
   

  103 風穴                     104 風穴解説板
   

  105 南向馬頭観世音                106 旧国道18号線へ その1
   

  107 覗解説板                   108 覗から坂本宿を見下ろす
   

 今も坂本宿の町並みが見える。江戸時代とそう変わらないのではないだろうか。下界までもう少しである。



  109 地蔵解説板                  110 石垣 その1
   

 このあたりが、浅間山方面から馬の背のように伸びてきた溶岩流の末端にあたり、狭い急坂になっている。最も険しいかもしれない。

  111 石垣 その2                 112 地蔵
   

  113  刎石坂                   114 柱状節理
   

 まさに溶岩がそのまま固まった様子が残っている。

  115 旧国道18号線へ その2           116 堂峰番所解説板
   

  117 堂峰番所跡                  118 旧国道18号線へ その3
   

 そして、13時20分、ついに旧国道に出た。碓氷峠以来の人里である。



  119 旧国道18号線
     

 120 案内板 その1


 121 案内板 その2


 122 案内板 その3


 123 案内板 その4


 中山道は写真124の国道の反対側に続いている。アプトの道ともこの辺で繋がっているはずだがよくわからなかった。

  124 旧国道18号線から旧中山道入り口       125 坂本宿へ その1
   



  126 浄水場横                   127 坂本宿へ その2
   

 浄水場の横をとおり、広い道に出た。

  128 芭蕉句碑
     

    129 芭蕉句碑解説板
   



 いよいよ旧坂本宿に入る。道路は新しくなっているが、町並みは宿場町時代とあまり変わっていない感じを受けた。鉄道の横川駅がここから外れた場所にできたことが、変わらない理由だろうか。

  130 坂本宿入り口                 131 港屋
   

  132 なかや                    133 住吉屋
   

 もとはほとんどが旅館、旅籠だったのだろう。なんとなくその雰囲気を残している家が多く、現在も屋号を掲げている。

      134 たかさごや解説板
     

  135 たかさごや
     

      136 つたや解説板
     

  137 つたや
     

    138 かぎや解説板
   

  139 かぎや                    140 坂本宿バス停
   

 141 屋号一覧


 それにしても、すごい旅籠の数である。

  142 すずきや                   143 用水路の名残
   

 古写真などを見ると、街道の中央を用水路が流れていることが多いが、ここでもその水路が現役で残っている。と言っても現在は飲料水にはしていないだろうが。

 144  佐藤本陣解説板
     

 本陣である。和宮や明治天皇ももここに泊まったのだろうか。

 145 佐藤本陣跡解説板


  146 佐藤本陣・坂本小学校跡地
     



    147 中村屋解説板
   

  148 中村屋                    149 米屋
   

    150 こんどうや解説板
   

    151 下木戸跡解説板
   

  152 下木戸跡                   153 信越自動車道
   

 13時46分、下木戸をすぎて宿場の外に出る。



 旧中山道は、写真154で左へそれる。

  154 旧国道からの分岐点              155 川久保橋へ
   

  156 薬師の湧水                  157 薬師堂
   

 坂を降りていくと薬師堂だ。いまは、江戸時代の賑わいが嘘のようにひっそりとしているが、清冽な湧水は健在である。

      158 薬師坂・薬師堂解説板
     

  159 薬師堂 その2                160 川久保橋へ
   

  161 薬師坂を見上げる
     

 霧積川を橋で渡る。

   162 川久保橋解説板
   

  163 川久保橋
     



  164 碓氷馬車鉄道跡解説板


 馬車鉄道跡をクロスすると、上り坂になり、碓氷関所跡が見えてきた。

  165 碓氷馬車鉄道跡                166 碓氷関所
   

  167 碓氷関所門
     

 立派な門が残っており、重要な大きな関所だったことが伺える。

      168 碓氷関所門解説板
     

 169 碓氷関所絵図




 旧街道の荻野屋の角を曲がると、横川駅である。

  170 横川駅前                   171 横川駅へ
   

 軽井沢からはるばる山中、峠と関所を越えて、14時20分に横川駅にたどり着いた。下りだったので、それほどの疲労感はないが、荻野屋で飲む瓶ビールはうまい。ちなみに蕎麦屋なので生ビールはなかった。時間が来たので駅に入ると、今日は蒸気機関車ではなく、茶色の電気機関車と客車が停まっていた。

  172 横川駅に停車中のEF64             173 旧型客車
   

 今日は、登り坂は新幹線で、下り坂は旧中仙道を徒歩で、つまり、数百年の時を越えて、両極端の手段で碓氷峠を行き来したことになる。あまりに何もかも違いすぎて、とても同じ場所を往来したとは思えない。新幹線を利用する現代人に、碓氷峠の難儀さを感じろと言っても無理であるが、今日の中山道と先日のアプト式鉄道の廃線跡を体験して、この日本の主要交通路の中でも有数の難所であった碓氷峠をとことん味わうという貴重な体験をすることができた。

 横川からなら、ちょっとした登山、軽井沢からならほぼ下りのロングハイキングという感じなので、ぜひ歩いてみることをおすすめするが、江戸時代は一般人が往来した主要街道とはいえ、現代人が歩く場合は、軽登山レベルの準備が必要である。

 本日の歩数 30,556歩     GPSによる本日の歩行距離 17.25km

 本日のルート(GPS軌跡)


 GPSによる高度推移
  

関連サイト◆アプトの道 (信越本線廃線跡)

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