海岸線をどこまでも 本州一周(になるかもしれない旅) 千葉県南房総を踏破中  
◆第12+10日目(2008年10月15日)  金谷港 〜 富浦駅

 このところ、仕事が忙しく、なかなか時間が作れない。前回は、残暑で暑いなどと書いたが、それから早、1ヶ月が経ってしまった。もう10月半ば、本格的な秋である。今日の千葉県南部の天気予報は曇りだが、ここは楽観的な性格で、晴れると予測して出発した。

        本日の天気図 (日本気象協会 tenki.jp)
  

 ルートはおなじみの東京湾フェリー。今日の出発地点は、金谷なので当然といえば当然である。金谷港はもう何度目だろうか。通勤ルートのような錯覚さえ覚えるほどなじんでしまった。
 それにしてもフェリーの金谷港内は狭い。船長さんもかなりの腕が必要だろう。

 1 金谷港                    2 公園から金谷漁港を望む
   



 鋸山にある日本寺は、有名な観光地である。ロープウェーで登るかどうか迷ったが、ここは、先を急ぐことにする。全部見ると一日かかってしまいそうなので別の機会にしよう。
 海岸線を南下する。金谷漁港に揚がった魚をそのまま売っていそうな、写真4の何とも素朴な魚屋さんが目についた。

 3 鋸山ロープウェー入口             4 素朴な魚屋さん
   

 海岸は岩場である。親子星物語というよくわからない記念碑があった。碑文を読んでも意味がよくわからない。個人の趣味で建立したのだろうか。

 5 金谷漁港南の海岸                6 謎の石碑
   

 ここ明鐘岬は、鋸山がそのまま海に落ち込んでいる難所である。

 7 岩礁                      8 洞門
   

 9 内房なぎさライン              10 明鐘岬から東京湾を望む
   

 この岬は、行き止まりだが、岬先端に寄り道してみた。1軒の店がある。外観も営業的にもなんだか気になる店ではあるが入ってみる勇気と時間はなかった。
 岬には先に抜ける道がないので、仕方なく戻ってトンネルを通ることにする。
(後日の調査によると、この海岸寄りの道は旧道で、通り抜けられるらしい。明鐘トンネルは危険なので、徒歩の方はこちらを通ることをお薦めする。)
 写真12の入り口の掲示板にいやな予感がする。どういう意味だろうか。赤いボタンを押すと何が起こるのだろうか。

 11 明鐘岬の「岬」という店           12 明鐘トンネル入り口
   

 トンネルの中に入って、すぐにいやな予感が的中したことに気付く。写真13のとおり、人の歩くスペースはない。写真には車が写っていないが、実は、対向車にダンプが来たときは、壁にへばりついていたので、シャッターを押す余裕がなかったのである。ご覧のように、このトンネルには、歩行者の歩くスペースは一切無い。今までの行程の中でももっとも危険なセクションであるといって良いだろう。大型ダンプは直前で歩行者に気づきあわててハンドルを切っていた。切実な命の危険を感じた。
 房総半島を徒歩や自転車で一周するときに一番のネックはこのトンネルであろう。はっきり言って危険すぎておすすめできない。このあたりの住民は徒歩や自転車で集落間を移動することは無いのであろう。そもそも物理的に危険すぎて、できないはずである。
 それにしても、入り口のボタンはどのような仕組みになっていたのだろうか。対向車に何らかの注意喚起があるのかもしれないが、役に立っている兆候はなかった。

 13 トンネル内                 14 トンネル出口の洞門
   

 ようやく、写真14のトンネル出口の洞門にたどり着く。ここには歩道らしきものがある。
 トンネルの危険性について、さらに特記しておくべきことがある。この道は、なぜか大型ダンプがやたらに多いのだ。その理由は後述したい。
 トンネルを出ると、鋸南町の標識がある。ついに上総の国から安房の国に入ったのである。

 15 安房勝山方面を望む             16 鋸南町標識
   



 17 鋸山登山自動車道入り口           18 廃屋となったドライブイン
   

 また、恐怖のトンネルが続く。今度は、ダンプからもよく見えるように、ヘッドランプを装着した。土建王国として名高い千葉でも、さすがに田舎の国道の歩道にまではお金が回らないようだ。

 19 潮噴トンネル入り口             20 元名第2トンネル内部
   

 21 芝生の向こうの東京湾            22 鋸山観光道路入り口
   

 恐怖のトンネル地帯を過ぎると、ビーチが広がっていた。元名ビーチである。駐車場には、自衛隊の車が並んでいる。

 23 自衛隊車両                 24 明鐘岬を望む
   

 恐る恐る浜に降りると、見張り役の自衛隊員が2名いて、「おはようございます」と声をかけられた。暗に「じゃまをするなよ」ということかもしれないが、秘密訓練というわけでもあるまい。海岸は、国民みんなのもののはずだ、と勇気を奮って、訓練の横を通り過ぎる。
 訓練そのものは、よく映画で見るようなアメリカ海兵隊の水陸両用車による派手な上陸訓練とは異なり、ゴムボートをかけ声とともにこぐという体育会系の地味なものであった。しかし、災害時などには、このような訓練が役に立つのだろう。

 25 自衛隊訓練風景               26 元名海岸
   

 ビーチの南端には、リゾートホテルが建っていた。何となく泊まっていきたい気にさせる建物である。さらに行くと、絵に描いたような高級別荘風の建物が建っていた。一度でいいからあんな建物のオーナーとして、日がなのんびり読書でもしたいものである。

 27 元名ビーチホテル              28 高級別荘 その1
   



 この建物が建っている小さな岬を越えると、保田海岸だ。南房総を代表する海水浴場らしい。長い弧を描く砂浜が美しい。

 29 高級別荘 その2              30 保田海岸 その1
   

 31 高級別荘 その3              32 保田海岸看板
   

 33 ビーチハウス                34 保田海岸 その2
   

 房州海水浴場発祥の地の碑は、夏目漱石が学生時代に泳いだからというが、少しこじつけっぽい話である。

 35 保田海岸 その3               36 房州海水浴場発祥の地碑
     

 夏の喧噪をよそに、今は交番も人がいない。保田川には小さな橋が架かっている。

 37 保田海岸臨時交番              38 保田川をわたる小さな橋
   



 ビーチが終わると、保田漁港である。

 39 保田川から勝山方面を望む          40 保田漁港
   

 温泉や遊覧船があるらしい。港の真ん中には大きな生け簀があった。おいしそうな魚が泳いでいるのか、アワビやサザエがたくさんあるのか、気になってのぞいてみようと思ったがやめた。

 41 保田漁港遊覧船乗り場            42 生け簀
   

 43 海岸道路                  44 吉浜付近
   

 漁港よりも大きな港が見えてきた。このあたりの道路は景色は美しいのだが、やたらとダンプが走り回っており、危険だし、道路も汚れている。そのダンプ軍団の目的地は、写真45の港の土砂積み込み用スロープであった。流れ出た土砂はそのまま船に落ちていく。この船は、どこかの工事現場か埋め立て地に行くのだろう。千葉県は、首都圏の一大土砂供給地域なのである。羽田空港の拡張など、都市機能向上の裏にはこういう現実があることも事実なのだ。削り取られた場所は、おそらく悲惨な光景だろう。経済発展と環境問題の調整は難しいものがあるなどと考えながら、ダンプの荷台が上下するのを見ていた。

 45 土砂運搬船への積み込み           46 道の駅きょなん
   

 やがて、道の駅と菱川師宣記念館についた。菱川師宣という人は、ここ鋸南町の出身で浮世絵の創始者だそうだ。切手で有名な「見返り美人」を描いた人である。
 海岸の向こうに、小さな島が見えてきた。

 47 菱川師宣記念館               48 亀ヶ崎を望む
   



 49 保田海岸方面を望む             50 亀ヶ崎への小径
   

 この島は亀ヶ崎というそうだ。亀ヶ島ではない。写真48を見るとその姿は亀に見えなくもない。島の中はどうなっているのか楽しみである。小さな神社でもありそうだ。

 51 亀ヶ崎から保田海岸方面を望む        52 亀ヶ崎全景
   

 ところが、橋まで来たら、そこには写真54のような無粋な柵が儲けられていた。このような島であれば、たいていは自治体が買い取って公園にすることが多いのだが、立ち入り禁止だったのですこし驚いた。ご丁寧に土地借用者の名前まで書いてある。島は、とくに何かに使われているわけではないようだ。野口さんとその家族が釣りかキャンプでもしているのだろうか。ただし、島の自然が破壊されているわけではないようなので、その点はホッとした。

 53 亀ヶ崎への橋                54 橋の入り口
   

 亀ヶ崎を回り込むと、美しい海岸が現れる。2棟の高層マンションが目立っている。マンションからの景色は最高だろう。

 55 亀ヶ崎から東京湾を望む           56 大六海岸
   



 この海岸からは、写真57のような島が遠望できる。

 57 傾城島と浮島


 58 りっぱな民家               59 海沿いのマンション 
   

 60 海の家                  61 カモメの楽園
   

 海岸は夏はにぎわうのだろうが、今は静かで、人影はなく、カモメが主役である。

 62 明鐘岬方面を望む              63 源頼朝上陸地記念碑
   

 この先にもダンプが土砂を積み込む港があり、道路は汚れている。さらに行くと、美しい海岸に出る。勝山海岸である。この北端に源頼朝上陸地の記念碑がある。由来は写真64を見ていただいた方が早いだろう。

 64 記念碑解説版 


 65 勝山海岸                  66 勝山海岸から見た傾城島と浮島
   

 67 休憩所                   68 勝山海岸の階段
   



 写真69のあたりは、スナックなどが並び、場末の退廃した雰囲気が漂うちょっとした歓楽街になっている。漁師さんの夜の漁場なのかもしれない。

 69 海岸の歓楽街                70 怪しいゲームセンター
   

 写真71の船は現役で使われているようだが、どうやって降ろすのだろうか。

 71 とんでもないところにある船         72 岩と空き事務所
   

 山の上には、お城がみえるが、どうやら展望台のようだ。勝山漁港の正面には浮島が大きく構えている。
 話は変わるが、安房の国といえば、戦国時代はあの南総里見八犬伝で有名な里見氏という大名が治めていた。一方、神奈川県はといえば、殿様は小田原に城を持つ北条氏である。北条氏は、関東の覇者であり、上杉、武田とがっぷり四つに組んだ強大な大名であった。その力を過信して、豊臣秀吉に最後まで逆らって結局滅ぼされてしまった訳であるが、北条氏が関東を制覇していなかったらどうなっていただろうか。
 北条氏が滅亡した後、秀吉からその領地である関東を与えられたのは、徳川家康である。彼は江戸を本拠地として、広大な関東を支配し、ついに秀吉亡き後の天下を握り、江戸幕府を開いた。つまり、北条氏が関東を統一していなければ、家康が領地を引き継ぐこともなく、今頃、日本の首都は東京ではなく、名古屋か静岡であっただろう。要するに、その後の日本の歴史が全く違ったものになっていた可能性が高い。そんなわけで(どんなわけで?)今、東京を中心とした発展著しい首都圏に住む住民は、北条氏のいた小田原に足を向けて寝られないはずである(笑)。
 話がそれたが、北条氏は、当然上総、安房の国も手に入れようと、里見氏とも何度か戦っている。しかし、安房の国に追いつめるのだが、どうしても里見氏を滅ぼすことはできなかった。なぜかと言えば、もちろん里見氏の戦略もあるだろうが、もう一つは、房総半島の地形にも原因があるのではないか。小田原や三浦半島から安房の国を攻めるときは、どうしても船に頼るしかないのである。北条水軍である。迎え撃つのは、里見水軍、そしてその一大本拠地が、勝山城と勝山港である。浮島は、防波堤になり、水軍の隠れ場所になり、武将の避難場所になったのである。ずいぶん遠回りしたいい加減な歴史講釈であるが、ようやく安房勝山の歴史に結びつけることができた。

 73 大黒山展望台                74 勝山漁港
   

 75 勝山漁港から見た浮島             76 勝山の漁村風景
   

 いかにも漁師町といった感じの住宅街の途中に、不思議な神社があった。急な山というか岩を削って階段にして、一番上が神社になっている。その階段はすり減って危険であり、子供は登ってはいけないと看板が出ている。確かに、子供の冒険には最適の場所である。それにしても、この地形といい、階段のすり減り具合といい、大人でも登るのを躊躇してしまうような恐るべき神社である。

 77 古?神社 その1              78 神社最上部
   

 79 共同井戸                  80 空き家
   

 81 内宿隧道                  82 勝山ののどかな風景
   

 この集落から出るときは、内宿隧道を通る。入り口にはこのトンネルを作った由来と功労者を刻んだ銘文があった。
 勝山の市街地を抜けて、トンネルを抜けて岩井袋をめざす。

 83 トンネル                  84 美しい石垣
   



 岩井袋はその名前のとおり、山に囲まれた入り江で、周囲とは隔絶している感じの集落である。うろうろしていると、人なつっこい小学生の男の子が、「何を探してるの?」と声をかけてきた。「写真を撮っているんだよ。」と答える。しかし、この子の言うように、本当は失ってしまった何かを探しているのかもしれないが、まさか、知らないおじさんがそんなわけの分からないことを言っても、気味悪がられるだけなのでやめておく。今日は平日なので、なぜ学校に行かないのか聞いてみると、運動会の代休だそうだ。もう都会にはいなくなったような、純朴な男の子は、玄関で大声で家族に帰宅を告げていた。港に変なおじさんがうろついていた、と報告していなければよいのだが....

 85 岩井袋漁港その1              86 岩井袋漁港その2
   

 87 バス停                   88 浅間神社
   

 岩井袋は、その地形から、昔ながらの漁村風景を色濃く残しているように思えた。

 89 岩井袋漁港 その3             90 岩井海岸方面を望む
   



 写真91にある道路は、ダンプが頻繁に通っていた。岬の先端にも土砂積み出し施設があるのだろう。

 91 岩井袋の岬を望む              92 岩井海岸の別荘? その1
   

 岩井海岸に出ると、埋め立て地に瀟洒な別荘風の建物が並んでいる。岩井袋とは対照的な景観である。

 93 岩井海岸の別荘 その2          94 岩井海岸の別荘 その3
   

 95 岩井海岸の別荘 その4            96 岩井海岸の別荘 その5
   

 97 岩井海岸 その1             98 監視所とトイレ
   

 夏には大活躍するであろう監視塔も、今は所在なげにポツンと建っている。美しい海岸であるが、もちろんきれいに維持する努力も必要だろう。
 写真100のように、海岸を清掃している老人がいた。ボランティアなのか、それとも委託された清掃会社の社員なのだろうか。

 99 監視塔                 100 海岸を清掃する老人
   

 101 岩井海岸 その2       102 岩井海岸のはずれ
   



103 遠くに見える浮島と青い空  

 ポツンと1本だけ椰子の木が立つ草原と島と空のコントラストが印象的で、思わず写真を撮った。

 104 漁協                  105 漁協の作業小屋
   

 海岸にへばりつくような小浦地区の漁村を抜けると小浦トンネルに出る。

 106 小浦地区の漁村風景         107 小浦トンネル
   

 また、あの歩道のない恐怖のトンネルかと思ってふと横を見ると、道ではないが、落ち葉のつもった何かがある。そちらに踏み込むとなんとトンネルがあるではないか。旧道なのだろう。人が通っている様子はないが、もし通れればこちらの方が安全だし、おもしろそうである。足下を確認しながらトンネルにはいると、真っ暗で何も見えない。特に足下がどうなっているのかわからないのが恐怖である。ただ、国道のダンプの恐怖より、ましだろうと進んでいく。やがて目が慣れると、トンネル内の足下は比較的しっかりしており、素堀で、地層の模様が味のある古いトンネルであることがわかった。写真109がその様子であるが、デジカメで感度を上げて撮っているので、もちろん実際はこんなに明るくはない。明治時代の旅人はこの道を通ったのだろうか。

 108 小浦トンネルの横にある廃道            109 旧小浦トンネル?内部
   

 古いトンネルを抜けると、旅館の敷地に出て、大きな桜の木が迎えてくれる。

 110 弁天前の桜の大木            111 東京湾を背にするシュロの木
   

 小浦トンネルは、幸い旧道があったが、岩富トンネルはまた、歩道のない恐怖のトンネルであった。ヘッドライトをつけて決死の覚悟でダンプの横を走って通り抜ける。

 112 岩富トンネル             113 トンネル内部
   



 岩富トンネルを抜けてしばらく行くと、国道から小浜地区へ降りる小径がある。

 114 小浜地区への道              115 素朴なトンネル その1
   

 小浜地区も海沿いにへばりつく小さな集落で、トンネルを通らないと外界とは交通しない。

 116 小浜海岸            117 小浜地区の立派な家
   

 118 素朴なトンネル その2          119 南無谷トンネル出口
   

 南無谷地区に入った。「なむや」と読むらしいが、日蓮上人ゆかりの地で、地名の由来もそこから来ているらしい。神社も民家も歴史がありそうな雰囲気である。

 120 南無谷の高台から大房岬方面を望む    121 豊受神社
   



 122 立派な門?          123 南無谷海岸 その1
   

 南無谷海岸は素朴だが、両側に岬を望む、美しい海岸である。

 124 南無谷海岸から大房岬方面を望む   125 海岸に面した小径と木塀
   

 126 海岸に面して建つ家           127 南無谷海岸から南無谷崎方面を望む
   



 南無谷海岸を過ぎると法華崎である。どう考えてもこれも仏教系の地名の由来のような気がする。日蓮上人がここで法華教を唱えたとかそんなところだろう。ここには、遊歩道が整備されており、風光明媚な南房総の海岸美を堪能することができる。写真128のとおり、海食洞を道がくぐり抜けている。これは、道路専門家に言わせると日本最短のトンネルではないかと言うことだが、どう見てもトンネルではなく自然の造形である。まあ、そんな議論をしていると本当に日が暮れてしまう時間になったので先を急ごう。

 128 海食洞を通る海岸遊歩道        129 法華崎から豊岡海岸へ
   

 130 東京湾に浮かぶ奇岩

 日蓮上人ならずとも、印象にのこる景色の海岸である。ちなみに日蓮は、鴨川市の出身だそうである。   

 131 法華崎の海岸遊歩道 その1        132 豊岡海岸側から南無谷崎方面を望む
   

 133 豊岡海岸遠景            134 法華崎の海岸遊歩道 その2
   

 135 海食洞を倉庫に利用する家            136 豊岡海岸の小舟
   

 法華崎を回り込み、小集落を過ぎると豊岡海岸である。すぐそこに小さな島が見えるが、残念ながら無粋な防波堤ができている。

 137 豊岡海岸             138 豊岡海岸と逢島
   

 139 不思議な模様の海岸道路          140 ペンション
   



 豊岡海岸の先にあるのが逢島である。「おうしま」と読むらしいが、名前はロマンチックである。記念碑があったので、碑文を読んだが、島の名前の由来は書いていなかった。内容を要約すると次のとおり。

「この島は、町の観光と漁業のために重要な島だが、個人の所有で、町有化が悲願であった。昭和49年に遠藤町長が議会や有志に諮って、所有者の石井氏に懇願した。その熱意に打たれた石井氏は、5千万円の売却契約を解約し、遠藤町長も契約の破棄に1091万円の私財をなげうち、町民の悲願が達成された。」

 そんなわけで、島には町長?(それとも石井さん?)の銅像が立っている。
 ネット上の情報によると昔は恋人たちが「逢瀬を楽しむ島」だったが、関東大震災の隆起で今は陸続きになったそうである。

 141 逢島記念碑                142 逢島
   

 体力も時間も限界になったので、富浦駅に向かう。

 143 逢島から見た原岡海岸           144 富浦駅前の公園
   

 駅前は、トイレといい、蘇鉄といい、彫刻といいなかなか力が入っている。

 145 富浦駅前のトイレ             146 富浦駅
   

 147 富浦駅前                 148 駅前の蘇鉄?
   

 149 駅待合室                 150 駅前の彫刻
   

 1時間近くまって、内房線上り列車に乗り込むが、写真151のとおり、乗客はほとんどいない。金谷港についたら、夕焼けが最後の光を放っていた。

 151 内房線車内                152 金谷の夕景
   

 今日は、南房総の海岸風景をたっぷりと楽しむことができた旅であった。また、道路やトンネル、港や民家といった昔ながらの漁村のたたずまいや暮らしの面影を感じ取ることができたのも印象深い。少しずつ南へ下るにしたがって、南国ののんびりした雰囲気が増すような気がする。
 しかし、行き交うダンプと危険なトンネルはいただけない。特に、トンネル内には歩道がないので、このルート全部を徒歩や自転車で巡るのはおすすめできない。
 次回は、いよいよ房総半島南部の核心である大房崎と館山市に入ることになるだろう。

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