旧 玉 川 (きゅうたまがわ) 探 訪   

 河川の氾濫を防ぐため人工的に流路を変えた新玉川の開削により消えた幻の川の痕跡を辿る
2013年2月11日 金井橋笠張川・渋田川合流地点

 相模川の合流地点からさかのぼってきた玉川であるが、ここまでの直線的な玉川は、人工流路であり、いわば新玉川といってもよいだろう。では、旧玉川はいったいどこを流れていたのだろうか。そしてその川はどこへ消えてしまったのだろうか。その謎に真正面から取り組もう、というのが今回の探訪の目的である。玉川の流路が変更されたという事は知られていても、では、どこを流れていたのか、という体系的な情報はネット上には殆ど無いのである。

     

 現地レポートの前に、資料から抜粋した玉川の歴史について整理しておこう。

 大正12年に発生した関東大震災により大山の崩壊がおこり、土砂が玉川に堆積し、水害が多発するようになる。そこで昭和14年に「玉川沿岸用排水改良事業計画」が策定されたが、流域住民の協力が得られなかったらしい。まあ、今でもよくある話である。
 そして、運命の日、昭和16年7月12日がやってくる。5ヵ月後に真珠湾攻撃により日米が開戦したという時代だ。この日、梅雨前線の停滞と台風の接近で、300mmの集中豪雨が関東地方を襲った。玉川は氾濫し、水没した玉川村を中心に死者8人、家屋の流失・倒壊30数棟、田畑の壊滅的な被害という惨状であったとの記録がある。
 昭和17年、ようやく玉川を相模川に流す改修工事が始まった。さすがに今度は流域の地主の協力が得られたのだろう。戦時中だったので、国策に反対しにくい時代だったのかもしれない。物資のない時代、空襲の中での工事は困難を極めたと思われるが、昭和21年4月、ついに新玉川が相模川へとその流れる先を変えたのである。このような抜本的な改修が可能だった理由は、地形が平坦だったという幸運もあるだろう。

参考資料  広報あつぎ9月1日号(2011年)   あつぎ地域SNS2009年06月28日 玉川の水害から67年

 次に、新玉川で地元の方から教えていただいた情報をまとめて再確認しておこう。

 @木橋(金井橋のこと?)と忠魂碑があるが、旧玉川はそのあたりから分岐し、新玉川の北側を流れていた。
 A北側の神社のところに、石碑がある。
 B籠堰橋で新玉川を斜めに横断し南側に入るが、それが堰の横の用水路として残っている。
 Cその後、旧玉川は、東名高速を越え、愛甲石田駅の東を抜けて、小田原厚木道路を横断する。
 D途中は、暗渠や道路になっており、一見しても河川流路跡だとはわからない。

 さて、準備はできた。いよいよ、歴史に翻弄されて消えた幻の玉川の跡をこの目で確かめにいこう。

  1 金井橋                      2 金井橋から下流を望む

   

 地元の方の話を元に、木の橋すなわち金井橋(名前は木ではなく金であるが)から下流を見通したのが写真2である。旧玉川は左岸側にあったというが、山が迫っており、物理的に無理だ。もう少し下流だろう。小野橋より下流は直線流路なので、必ずそれより上流、つまり、金井橋−小野橋間に旧玉川跡が分岐しているはずだ。



 金井橋と下流の神明橋の間、左岸側に小さな取水堰と水門がある。それを右岸側から撮ったのが写真3である。

  3 右岸から金井橋・神明橋間の取水堰を確認する    4 左岸取水堰から東方向に伸びる畑
   

 神明橋を渡り、左岸側の写真3に写っている水門のところから北東を見たのが、写真4である。畑が不自然に細長く続いており、緩やかに左にカーブしている。左右は畑よりも高くなっており、この畑が最も低い位置にある。畑の右側には水路があるが、この水路は写真3の堰と水門から流れ出ているらしい。
 これまで河川流路の変更をたくさん見てきたが、旧流路は大きな川ではそのまま川として、小さな川でも必ず水路または暗渠として残っている。例えば隅田川は荒川の旧流路だが、今でも立派に残っている。なぜだろうか。自分なりに考えてみる。
 一般に川はその地域の最も低いところを流れている。流路を変更しても地形はそのままなので、川でなくなっても、どうしても水が集まってしまうのではないか。つまり、そのために水路を設けざるをえないケースが多いだろう。
 そして、この不自然な畑の横にも水路があるということは、旧河川跡の排水路としての機能と農業用水としての機能を兼用させているのではないだろうか。

 以上、現在の地形および水路の存在と、地元の方からの情報を総合的に判断すると、この場所から旧玉川が北へ流れていたと推定されるのである。そう考えると、写真4の畑の上にゆるやかに左カーブを描いて流れる旧玉川の姿が浮かび上がってくるようで、なんだか楽しくなった。河川跡ハンター?の血が騒ぐのである。

  5 神明橋から東へ その1              6 神明橋から東へ その
   

 確信はあったが、もう少し証拠を確かめる必要がある。さらに進むと、畑は道路に変わるが、水路は続いている。写真5の道路のカーブがいかにも川っぽく感じるのは、先入観だろうか。写真7のように、新玉川との高低差は殆ど無い。

  7 畑の向こうの新玉川を望む             8 神明橋から東へ その2
 
  



  9 龍鳳寺                      10 河岸段丘崖面
 
  

 左側には崖が続く。おそらく玉川の侵食によるものだろう。

  11 神明橋から東へ その3             12 森の里への道にぶつかる
   

 大きな道路にぶつかった。ここには、道路の中央に新玉川に向かう水路が南に向かって新たに掘られ、旧玉川跡を流れてきた水路は、写真14のようにこの水路に落ちている。もちろんこの道路と水路は昭和21年にはまだ影も形もないはずである。

 注:ここまでもっともらしく書いてきたが、この流路、特に新玉川が分岐した地点に誤認があることがわかった。詳しい追加調査を行ったので、ぜひこちらも参照していただきたい。(2013年3月23日追記)

 旧玉川追加調査(2013年3月16日)厚木市小野地区

  13 新玉川への水路                 14 流れ込む旧玉川跡の水路
   



 道路を横断して、それらしい水路を探す。東方向に斜めに伸びる写真15の道が怪しい。大きなマンホールは、水路の存在を示唆している。

  15 神明橋から東へ その4             16 草刈り山羊
   

 道路幅に対して不自然に大きい水路の蓋が続いている。

  17 神明橋から東へ その5             18 神明橋から東へ その6
   

 やがて道路と暗渠になった水路は北の崖にそってカーブを描く。

  19 神明橋から東へ その7             20 神明橋から東へ その8
   

 崖の緑を下る道が見えた。その道との合流地点で見たものは、67年の時間を旅するタイムマシンの衝撃波のように、私の脳の深い部分を揺さぶったのである。



  21 小町竹橋跡                   22 小町緑地の旧玉川跡石碑
   

 小町竹橋跡...たしかにそう書いてある。ここに橋があったのである。この坂道は昔から低地と崖の上の神社を結ぶ道路だったのだろう。
 そして、その先にある石碑には、旧玉川と書いてある。側面には次のとおり決定的な言葉が書かれていた。これ以上説明する必要は無さそうである。
 旧玉川は、大山の東側が源で農業用水として大きな役割を果たしましたが、関東大震災後は、降雨の度に河床が高くなりたびたび氾濫して、被害が続出した。かっては美田を潤した川が人命を奪う魔の川となったので、昭和十九年に新玉川が造られた。

 新玉川の完成は昭和21年のはずだが、この石碑では昭和19年と書かれており、食い違っている。この部分は下流部よりも先に完成したのかもしれない。


  23 小町緑地から東へ その1            24 低くなっている水路跡
   

 写真23の場所には不自然な空地があった。道路よりも右側の通路の方が明らかに低い。写真24でもそれは明らかである。写真24が流路跡だろう。水路は、そのまま民家の間から写真25のように農地に伸びていた。

  25 小町緑地から東へ その2            26 小町緑地から東へ その3
 
  

 道路を迂回して反対側から水路を見たのが写真26である。カーブと崖が旧玉川跡であったことを物語っている。



  27 小町緑地から東へ その4            28 小町緑地から東へ その5
   

 再び道路となった流路跡は、写真27、28のように低地の北縁部分をカーブしながら続く。左の高地部分は住宅、右の低地部分は田になっている。
 蕎麦屋で道路が途切れる。正面は駐車場にするために、盛土をしたのだろう。

  29 道路と蕎麦屋に突き当たる水路          30 南側から旧玉川跡を望む
   

 道が途切れたので南側の道路を歩く。旧玉川流路跡を横断する道があった。写真31だ。この道は南側から少しずつ下って、写真31の車止めの部分で今度は上りになっていることが分かる。つまり、今でもここが最も低い場所であり、河川跡であった証拠だ。

 注:この点については、後日疑問が生じた。旧玉川は天井川になっており、堤防の高さまで埋め立てたために周囲よりも土地が高くなっている場所が多い。つまり、家と畑の段差は、旧玉川の南側の堤防跡である可能性がある。旧玉川は、現在住宅が建っているところを流れていたのかもしれない。(2013年3月23日追記)

  31 南側からみる旧玉川流路跡の勾配         32 県道603号へ
   

 旧玉川跡は斜めに県道を横切って、籠堰橋方向へ向かう。流路跡が住宅地と農地の境界になっているため、わかりやすい。

  33 県道603号から上流を望む            34 県道603号を横断する
   



 県道を横断すると水路は写真35のように右にカーブするが、旧玉川はおそらく直進していたに違いない。その先にあるのが市の衛生プラントである。公共の建物を建てるにあたって、河川跡を利用すれば土地取得費用が少なくてすむので、よくあることだ。

  35 県道603号から新玉川方面を望む         36 厚木市衛生プラント
   

 衛生プラントの下流側に籠堰橋が架かっている。地元の方から教えていただいた情報のとおり、新玉川はここで旧玉川を斜めに横断する形で開削されたのである。

  37 籠堰橋から右岸を望む              38 右岸から籠堰、衛生プラントを望む
   

 旧玉川は、この籠堰から今度は新玉川の右岸側に流れていたわけであるが、ここで、金井橋下流の分岐から現在地までの旧玉川流路跡をまとめてみよう。下図の赤がGPSによる歩いた経路、青が推定旧玉川流路である。この区間の旧玉川は概ね北の丘陵地に沿って流れていたことがわかる。数百年以上の長い時間単位でみれば、北と南の丘陵を侵食しながら、流路の変遷があったはずだ。





 ここから、旧玉川は新玉川の南に分かれるが、その分岐が写真39の水路である。この水路は現役の農業用水としても使われているらしく、かなり立派な造りだ。写真40のように籠堰橋から南側の丘陵へ向かう。

  39 籠堰橋横の水路起始部              40 東名高速へ その1
   



 水量もかなりある。水路と道路を合わせた幅が、旧玉川だろう。

  41 東名高速へ その2               42 東名高速へ その3
   

 南の丘陵にぶつかった旧玉川跡は、そのまま蛇行しながら丘陵の南縁を南東へ向かう。地図によると丘陵の上は高森団地として開発されているようだ。

  43 東名高速へ その4               
44 東名高速へ その5
   



  45 東名高速へ その6               46 東名高速へ その

   

 写真46の風景は、コンクリートを水に置き換えても違和感がなく、旧玉川の雰囲気をよく残している。

  47 東名高速へ その8               48 
高架道の下を横切る水路
   

 水路は住宅地の間を抜けて、愛甲小学校の南を過ぎる。

  49 東名高速へ その9               50 東名高速へ その10
   



  51 東名高速へ その11              52 
東名高速から上流を望む
   

 畑の中を流れた水路は、東名高速道路にぶつかった。水路は写真53のように立派な横断道路になっていた。

  53 東名高速北側                  54 東名高速南側
   

 東名高速の南側に出ると、暗渠となった水路の幅は一層広く、旧玉川そのままといってもおかしくない感じだ。広い暗渠の上を歩けるのでなかなか楽しい。右は崖になっている。

  55 国道246号線へ その1            56 国道246号線へ その2
   

 暗渠は写真57で道路に合流し、右カーブになる。

  57 国道246号線へ その3            58 国道246号線へ その4
   



 暗渠はメイン道路と別れて写真59のように国道246号線にぶつかった。水路が見えたが流れはあるようだ。

  59 国道246号線へ その5            60 国道246号線下
   

 246を超えた旧玉川跡は道路になって小田急線へ向かう。右手すぐに愛甲石田駅があるはずだ。

  61 小田急線へ                   62 小田急線を横切る
   

 小田急線の南側に出ると再び暗渠となった旧玉川跡は、再び川の雰囲気を取り戻す。そして、なんと橋がかかっていた。これでは現役の川と変わらない。

  63 小田原厚木道路へ その1            64 今も架かる橋
   

 そして、いつもの様に橋の名前を記録しようとカメラを向けると、そこにはなんと「玉川橋」の名が....決定的証拠だ。

  65 玉川橋銘版                   66 小田原厚木道路へ その2
   

 そのまま住宅地の中を流れる旧玉川であるが、もちろん67年前は住宅は殆ど無かったはずである。田んぼの中を流れていたのだろうか。



 旧玉川跡は低いところにあるので、横断道路には今でも橋が架かっている。

  67 小田原厚木道路へその3             68 小田原厚木道路へ その4
   

 暗渠の上を歩く。

  69 小田原厚木道路へ その5            70 小田原厚木道路へ その6
   

 橋につきあたる。宿下橋の銘版があった。さらに南へ向かう。

  71 宿下橋跡                    72 小田原厚木道路へ その7
   



 愛甲石田駅に向かう道を横切る。片平バス停前だ。この橋から再び旧玉川跡の暗渠上に降りるが、ここでおかしなものを見つけた。写真74である。橋との段差があるので階段の代わりにビールケースが置いてある。つまり、この河川跡が現在も駅への生活道路として使われているのだ。ただし、その人が67年前にここを流れていた玉川の上を歩いていると知っているのかどうかは怪しいものだ。

  73 片平バス停前                  74 生活道路としての階段
   

  75 小田原厚木道路へ その8            76 河川敷の畑
   

 このあたりは、河川敷が畑になったり、焚き火をしたりと住民の庭代わりに使われているようだ。駅にも近いので、これなら遊歩道として整備したほうがよさそうである。

  77 河川敷の焚き火跡                78 小田原厚木道路へ その9
   



 住宅地をさらに南に進むと、小田原厚木道路に突き当たる。

  79 小田原厚木道路へ その10           80 小田原厚木道路へ その11
   

 小田原厚木道路の歩道橋から南に伸びる道を俯瞰する。ここは伊勢原市と厚木市の境界で、旧玉川はその市境にそって南へ流れていたらしい。写真82がその市境に伸びる道路の入口である。

  81 小田原厚木道路から南を望む           82 玉川緑道 その1
   



 今まで水路があった旧玉川流路であるが、ここでは明らかな暗渠は見当たらない。道の横には並木を伴った歩道がついており、非常に歩きやすい。この道が「玉川緑道」という名であったのは、ずっと後から知ることになる。

  83 玉川緑道 その2                84 左岸側の段差
   

 この道が旧玉川跡であると推定していたが、なんだか妙なことに気がついた。写真84は道の左に建つ住宅のさらに左側であるが、このように緑道よりもその外側(東側)に段差があるのである。旧河川跡のほうが高い。最初はこの段差の低いところが旧流路かと思った。写真86は反対側、つまり、旧玉川の右岸側であるが、これも右側のほうが低い。つまり、旧玉川は周囲よりも高いところを流れていたということになり、どうも不自然である。
 おそらく、河川だった部分に盛土をして、両側の堤防の高さに合わせた結果、玉川緑道は周囲よりも土地が高くなったのではないだろうか。相次ぐ氾濫により天井川になっていたという記録もあるようなので、そのせいもあるのかもしれない。
 土地が高いせいか、現在では川だったこの道沿いに住宅が立ち並んでいる。

  85 玉川緑道 その3                86 右岸側の段差
   

  87 落合橋跡石碑                  88 玉川緑道 その4
   

 石碑があった。橋の跡である。刻まれた銘文を書いておこう。
 落合橋跡
「新玉川」が完成するまで、「旧玉川」にかかっていた橋で、上落合地区と石田地区を結ぶ唯一の橋であり、昭和四十四年頃まで現存していた。また、住民たちが集まる憩いの場としても親しまれた橋である。

  89 旧玉川石碑                   90 玉川緑道 その5
   

 落合橋跡のすぐ先には、旧玉川石碑があった。ここに書かれているのは小町緑地の旧玉川跡石碑と同じ文章である。相変わらず、改修時期は昭和19年になっている。



  91 八坂神社                    92 玉川緑道 その6
   

 神奈川県道22号横浜伊勢原線にぶつかった。



 県道を越えて直進すると、道が二股に分かれるが、左の緑道に入る。

  93 玉川緑道 その7                94 玉川緑道 その8
   

 写真95は緑道の右側だがやはり、玉川緑道のほうが高い位置にある。つまり、この段差は右岸の堤防の跡だということになる。

  95 右岸側の段差                  96 玉川緑道 その9
   

  97 玉川緑道 その10               98 玉川緑道 その11
   



 写真99のあたりで、左岸側が厚木市から平塚市に変わる。右岸側は伊勢原市のままだ。

  99 玉川緑道 その12               100 玉川の由来説明板
   

 101 説明板文


 この説明文で、この道が昭和57年に作られた玉川緑道であったことが判った。戦後は畑になっていたということらしい。この緑道は、3.2kmというかなり長い距離である。

  102 玉川緑道 その13              103 玉川緑道 その14
   



  104 ペアウォッチの忘れ物             105 玉川緑道 その15
   

  106 玉川緑道終点
  玉川緑道の終点に着いた。  

 107 緑道終点の案内文


 ここは、緑道の終点であるとともに笠張川との合流地点跡でもある。写真109が合流地点跡だ。航空写真で見ると、旧玉川跡と合流地点の痕跡ラインがよくわかる。



  108 旧合流地点から笠張川上流を望む         109 笠張川下流を望む
   

 ここから先は、現在は笠張川という名称になるわけだが、玉川のほうが大きい川なので、昔は玉川と呼ばれていたはずだ。そして、現在の笠張川は昔の玉川の姿とそう変わっていないと思われる。昭和21年までは、今まで歩いてきたルートを写真110のような玉川が流れていたに違いない。

  110 笠張川                    111 北野橋
   



 そして、ついに渋田川との合流地点、土安橋に着いた。

  112 笠張川・渋田川合流地点            113 下流の土安橋から合流地点を望む
   

  114 土安橋の渋田川標識              115 土安橋から渋田川下流を望む
   

 ここから下流は渋田川となり、鈴川、さらに金目川と合流して花水川となり、平塚市と大磯町の境界付近で相模湾に流れ出ている。
 調べてみると、遙か下流、渋田川、鈴川が合流した後、金目川と合流する直前の平塚市南原に、玉川橋という名前の橋があった。つまり、戦前はそこまで玉川の名称が使われていた可能性がある。しかし、考えてみれば、鈴川や渋田川は伊勢原市内が源流であるが、玉川は厚木市から流れてくるので、川としては「格上」だったのかもしれない。

  116 仲良し
     

 帰り道では、仲の良い動物たちが見送ってくれた。

 GPSによる本日の歩行経路


 関東大震災から始まった、玉川流域住民の苦難を契機に、玉川を相模川に流してしまうという壮大な計画が実行された。そしてそれからすでに67年という長い月日が経ち、そのことを直接知る人もほとんどいなくなってしまった。しかし、実際に歩いてみると、大地に刻まれた玉川の記憶はまだいたるところにその痕跡を残しており、昔の清流の流れを想像しながら辿るのは、非常に興味深かった。
 緩やかな畑や暗渠のカーブ、石碑や橋の跡など川の記憶を呼び覚ましてくれるものも残っている。普段気にも留めていない水路が、実は旧玉川だったりする。人々の記憶からは消え去っても、旧玉川流路跡には、今も川と人々の暮らしの歴史が深く密やかに息づいていた。

 関連サイト 旧玉川追加調査(2013年3月16日)厚木市小野地区     

       ◆
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