木曽駒ケ岳  標高2956m 登山開始地点標高2640m             

自分の足で登らない山シリーズ第15弾  中央アルプス最高峰に、ロープウェイで簡単に登る究極の手抜き登山
 
◆ 2013年8月29日

 いわゆる登山系のブログはたくさんあるが、冬山やロッククライミングなどの本格的なものを除くと、大きく二つのパターンに分けられる。一つは、ファミリー、山ガールのお気楽山登りの記録、もう一つは、人の行かない山や、高山、長距離コースを何時間で歩いたという、いわゆる健脚自慢である。後者は、元山岳部の中年男性が書いているというイメージだが、人が多いメジャーな山、ましてや、ロープウェイ等の文明の利器を使って楽をするなど、プライドが許さないという論調が多い。別にそれは構わないのだが、それとは正反対の楽をすることをウリとするサイトは、ジャンル的にはありそうでなかったような気もする。しかし、大多数の一般人がほしい情報は、こちらだと思わないこともない。

 そんな言い訳をしなければならないほどの究極の手抜きとも言える日本でも屈指のお手軽登山ルートが、この木曽駒ケ岳である。利用するロープウェイの終点は、日本で最高所の駅で、標高はなんと2640m、先週行った関東地方最高峰である日光白根山の標高が2578mであることを考えると、とんでもない高さである。中央アルプスの最高峰、木曽駒ケ岳の標高は、2965m、その差はたった325mで標高599mの高尾山の約半分である。
 このロープウェイのおかげで一般人でも登れる3000m級の中央アルプス木曽駒ケ岳こそ、乗鞍岳と並んでこのサイトのコンセプトに最もピッタリだといえるかもしれない。



 午後に家を出て、中央線の特急に乗り、茅野で普通列車に乗り換える。普通列車には珍しく、全員が進行方向を向く転換式クロスシートで、なかなか快適である。乗客はほとんどが高校生、特にカップルが多く、自分たちだけの世界に浸っている。まさにロマンスシートで、自転車通学の自分の高校時代と比べて少し羨ましい。

  1 茅野発普通列車内                 2 駒ヶ根駅
   

 飯田線を走っている間にあたりはすっかり暗くなり、19時過ぎに駒ヶ根駅に着いた。茅野から1時間半以上かかっており、意外と遠い。ホテルに直行し、コンビニの代わりにフロントに教えてもらった駅前のスーパーで、夕食とビールと日本酒を買い込んで、シャワーを浴びると後は寝るだけである。

  3 ホテル                      4 駒ヶ根駅のロープウェイ駅行きバス
   

 翌日の朝、ホテルの窓から外を見ると曇りでちょっとがっかりするが、テレビの天気予報はまあまあである。朝食を食べて駅へ向かう。
 ハイシーズンのバスの始発は5時だが、今日は7時、駒ヶ根駅発である。途中の菅の台でマイカーからの乗り換え客で満員になったバスは、7時40分に標高1662mのしらび平に到着した。何と晴れている。気温は15℃で、思わず長袖を着た。

  5 バスから中央アルプスを望む            6 しらび平駅
   

     



 混雑していて少し並ぶが、8時にロープウェイに乗って7分間で、標高1000mを一気に駆け上がる。

  7 ロープウェイに乗る                8 千畳敷駅
   

 駅の表示によると、標高は2640mではなく、2612mとなっている。気温はなんと11℃である。涼しいというのを通り越しているような気もするが、青空も見え、爽快だ。

  9 千畳敷駅構内気温                 10 千畳敷ホテル横
   



 11 千畳敷駅から下界を見下ろす

 駅を出てすぐそこには、氷河が山肌を削った弧を描く特徴的な地形、写真でよくみるあの千畳敷カールの実物が、眼前に広がっていた。素晴らしい、としか言いようがない。

 12 千畳敷カール その1


 13 千畳敷カール その2


 14 千畳敷カール その3


 15 極楽平方面登山口
     

 今日の行程は余裕があるので、極楽平方面に少し歩いてみる。

 16 極楽平を望む

 名古屋鉄道の資本だそうだが、よくもまあ、こんなところにロープウェイを通そうと考えたものである。昭和42年(1967年)の開通なので、計画は東京オリンピックよりも前だ。今だったら、とんでもない環境破壊だと反対運動がおきて、とてもではないが実現できないだろう。まさに、日本が貧しく、高度成長が始まろうとするあの時代だからこそ実現できたと言える。

 17 千畳敷駅を見下ろす


  18 信州駒ヶ岳神社由来
     



 神社に安全祈願をした後、8時30分に反対側の登山口から、いよいよカール内に入っていく。平日の8月末なのに、結構登山者がいて、小さな子供も歩いている。夏休み最後の思い出登山というわけだが、親の思い入れとは反対に子供はあまり覚えていなかったりする。

  19 駒ケ岳方面登山口                20 乗越浄土へ その1
   

 21 乗越浄土へ その2

 22 剣ヶ池を見下ろす


 23 乗越浄土へ その3


 24 乗越浄土へ その4




 25 乗越浄土へ その5
     

 剣ヶ池からの道を合流すると、いよいよカールの壁を登る登山道の傾斜が少しずつその角度を増していく。ここで、登りに備えて再びTシャツ一枚になった。

 26 千畳敷カールとロープウェイ駅を見下ろす


 やはり、酸素が薄い感じがして苦しいので、意識的に呼吸を深くしながら登っていく。

 27 千畳敷カール上部の急斜面


 登り切ったところで白い石と砂が広がる尾根にでて、突然視界が広がった。9時15分、標高2860mの乗越浄土に到着である。白いのは花崗岩だそうである。

  28 乗越浄土 その1                29 乗越浄土 その2
   



 カール内とは比べ物にならないほど風が強く、寒い。しかも、ガスに覆われて暗い。しかし、すぐそこに宝剣山荘が見えたので、そこで着替えればいいや、とTシャツのまま震えながら歩いていく。

  30 伊那前岳方面を望む               31 宝剣山荘へ
   

  32 宝剣岳遠望                   33 宝剣山荘
   

  34 宝剣山荘内部                  35 防寒装備
   

 宝剣山荘でトイレを借りた。200円である。寒いので浄化槽維持にお金がかかるのだろう。ここで、ジオラインの長袖シャツとライトシェルジャケットを着て、手袋もつける。Tシャツから一気に冬装備になってしまったが、それほど気候が激変したということである。やはり樹林帯を超えた高山の稜線は恐ろしい。9時50分、宝剣山荘を出発する。

  36 仕事で登る人
     

 仕事で山に来ている人は、なんだか輝いている。遊びで来ている人とはやはり緊張感が違うのか。反対側にもカールがあるようだ。

 37 駒飼ノ池カール


 38 宝剣岳と天狗岩


 宝剣岳と天狗岩を左に見ながら、中岳へ向かう。



 途中で、中学生の集団登山に出会う。この時は、知らなかったが、後でこの子どもたちの登山には深い意味があることを知った。中岳を登らないですむ巻き道があるらしいが、一般的ではないらしい。ここは素直に中岳に向かおう。

  39 中学生?                    40 巻き道分岐
   

 41 宝剣山荘と天狗荘を見下ろす 

  42 中岳へ                     43 中岳山頂 その1
   

 緩やかな道を登り切ったところが、標高2925mの中岳である。時間は、10時ちょうどだ。

  44  中岳山頂 その2                45 駒ヶ岳頂上山荘へ その1
   



 せっかく中岳に登ったが、いったん鞍部まで降りる。駒ケ岳頂上山荘だ。

  46 駒ヶ岳頂上山荘へ その2            47 駒ヶ岳頂上山荘
   

 48 駒ケ岳へ その1

 高度が高度なので苦しいことは苦しいが、それほど急でもないハイマツの道を登って行く。

  49 駒ケ岳へ その2                50 駒ケ岳頂上直下
   



 51 駒ヶ岳頂上 その1 

 霧の向こうに幻想のように人がたくさん立っているのが見えた。10時30分、標高2956mの木曽駒ケ岳山頂に到着した。展望は全くない。

 52 駒ヶ岳頂上三角点                 53 駒ヶ岳頂上 その2
   

 神社が二つあった。木曽側と伊那側の神様らしい。遭難碑の標識もある。道に迷わなければ、遭難することはないだろうが、ガスであまり居心地が良くない。

 54 駒ヶ岳頂上 その3                55 駒ヶ岳頂上 その4
   

 天気予報は下り坂、午後から雨ということもあって、早めの行動がよさそうである。晴れていれば、素晴らしい景色とともに少し足を伸ばしたいところだが、今日はそんな気にならない。11時下山開始。霧で下山路も自信がなくなったが、中岳方面の標識があって助かった。

 56 駒ヶ岳頂上山荘へ下山
     



 57 駒ヶ岳頂上山荘


  58 中岳へ                     59 視界不良
   

 とにかく風が強い。

  60 ハイマツ帯                   61 中岳山頂
   

 中岳頂上の岩陰に駆け込んで一息つくが、周りの人全員がゴアテックスのフードをかぶって完全武装しているのが可笑しい。



  

 上の天気図を見ても強風の理由は素人にはよくわからないが、日本海にある低気圧と前線が影響しているのだろうか。
 山岳部かワンゲル風の男性が若い女性二人に話しかけたちょうどその時に突風が吹いて、思わずよろめいていた。マットなどの背中の大きな荷物がまともに風を受けたのだろう。下心を山の神は見逃さなかったらしい。笑ってしまいそうになるが、大の男が飛ばされそうになるというのも相当な風速である。
 中岳の下山中に、泣いている小学生の女の子とその娘をおんぶしようとしている女性がいた。声をかけてみると、強風で砂が目に入ってしまったらしい。困り果てているのはおばあちゃんだろうか。二人だけできたらしく、おばあちゃんはオロオロするばかりである。女の子はさすがに知らないオジサンにおんぶされるのは嫌だろうし、自分の重い荷物を担がせるわけにもいかないので、おばあちゃんの荷物を背負って先導してあげることにした。とりあえず宝剣山荘まで行こうと強風の中を進む。それにしても、おばあちゃんの荷物は軽い。これでは、非常食や水も入っていなさそうである。
 なんとか山荘について、二人を促して中に入る。女の子は、なんとか泣き止んでいた。目だけでなく、あまりの強風にパニックになったのだろう。残念ながら真水を持っていなかったので、おばあさんに持っているか聞いてみるが要領を得ない。とにかくしばらく小屋で休んで落ち着いたらゆっくり下山するように、乗越浄土から下は風も弱まるだろう、もしまだ痛がるようだったら小屋のミネラルウォーターを買って目を洗うと良い、と言って、とりあえず先に行くことにした。親切に目薬を貸してくれるという人もいた。この下は人がたくさんいるので、もう大丈夫だろう。

  62 乗越浄土                    63 剣ヶ池へ その1
   

 11時39分に乗越浄土を通過して、カール側に降りると、先ほどの強風が嘘のように、静かな霧の光景になった。まだこの時間に子供が登ってくるのには驚いた。この風では、子供は駒ケ岳までは無理だろう。

 64 剣ヶ池へ その2



 65 剣ヶ池へ その3


 66 乗越浄土を見上げる


 登りのルートとは異なり、剣ヶ池まで降りてみることにしよう。

 67 上部を雲に覆われた千畳敷カール


 68 千畳敷カール北側


 稜線の強風とガスにも関わらず、ここは別天地のようで、千畳敷カールの北側には青空が見える。下界は晴れているようだ。

 69 千畳敷カール排水溝
     

 70 千畳敷カールを底部から見上げる




 71 剣ヶ池前の標識
     

 カールの底には水が溜まっている。12時20分、剣ヶ池に到着である。

 72 剣ヶ池からみる千畳敷カール その1


 73 剣ヶ池からみる千畳敷カール その2




 池から駅までの数十mの登りが異常に辛い。大して歩いていないはずだが、やはり疲労が溜まっているのだろうか。

  74 ロープウェイ千畳敷駅へ             75 混みあうロープウェイ
   

 ロープウェイは、満員の客を乗せて、とても歩けないような急斜面を下りていく。

 76 ロープウェイからの景色 その1


  77 ロープウェイからの景色 その2         78 ロープウェイからの景色 その3
   

 13時15分、しらび平に着いた。何と晴れていて、しかも、暑いと感じる。

  79 しらび平から駒ヶ根駅行きバス          80 騒然とする車内
   

 帰りのバスが発電所付近を走っている時、運転手さんの「カモシカです」のアナウンスに、車内は騒然となる。親子のカモシカが道路を悠然と歩いていた。やっと視界に入ったと思ったら、すぐにカーブミラーの向こうの岩陰に入ってしまい、残念ながら写真81のとおりカメラに収めることはできなかった。

  81 何も写っていない写真              82 駒ヶ根駅
   

 14時10分に駒ヶ根駅に着いた。駅前スーパーで反省会の食料を買って14時44分発の茅野行きの電車に乗りこむ。岡谷で乗り換えた特急列車は新宿を目指してひた走る。

  83 飯田線車内反省会                84 岡谷駅の特急あずさ
   

 GPSによる今日の歩行記録


 GPSによる今日の高度記録


 この駒ケ岳ロープウェイは、標高、標高差、終点の環境など、日本有数のスケールの大きさであり、中央アルプス最高峰をだれでも登れる山にしたと言える。実際に、小学生の子供もたくさん登っており、初心者向けだといえるが、稜線の天候と空気の薄さはまさしく3000m級だった。下界が好天でこの様子なのだから、天候が急変したら、初心者でも登れてしまうだけにかえって危険である。実際に、現地で泣いていた女の子が象徴的だった。しかし、晴れていれば、素晴らしい眺めだろう。近くて遠い、木曽駒ケ岳である。
 そして、千畳敷カールはまさに氷河がそこを削りとったという地形で、そそり立つ岩山に囲まれた天上の楽園であった。避暑というには低すぎるほどの気温である。
 駒ケ岳頂上に遭難碑の道標があったが、大正時代に子供の遭難事故があり、北東の尾根にその碑があるらしい。調べてみるとさらに興味深いことがわかったので、項を改めて下に書くことにした。興味のある方はご覧頂きたい。


       ご意見・ご感想はこちらまで    木曽駒ケ岳

     


 木曽駒ケ岳集団登山遭難事故の本題に入る前に、最近の事故について、新聞記事を転載しておこう。


 8月17日(土) 信州毎日新聞web版より抜粋
 中央アルプス檜尾(ひのきお)岳(2728メートル)周辺で、韓国人登山ツアー客の  
男性4人が低体温症などで死亡した遭難事故から半月余り。駒ケ根署への16日までの取材で、4人を含む計20人のパーティーは悪天候に見舞われ、それぞれ危険を感じながらも予定のルートを歩き続けたことが分かった。全体を統率するリーダーが不在のパーティーには、仲間が途中で動けなくなったことに気付いていない人もいた。
 同署によると、パーティーは7月29日午前6時すぎに宿泊先の木曽殿山荘を出発。約4時間後、檜尾岳手前で70歳の男性が身動きが取れなくなった。メンバーの多くはその状況を把握。リーダー格の男性ら2人がその場に残ったが、他は先に進んだ。「宝剣山荘で救助を依頼するつもりだった」と話す人もいた。
 その後、2人が低体温症で、1人が滑落でそれぞれ死亡したが、宝剣岳(2931メートル)に近い宝剣山荘にたどり着いた8人は、この3人の遭難を知らなかった。同署の調べには「体力の差でばらばらになった」「霧で近くの人が分からず、寒さで危険を感じる中ひたすら登り続けた」などと話したという。
 救助に当たった県警山岳遭難救助隊の村上春満(はるみつ)隊員(34)によると、29日午後4時半ごろ、宝剣岳山頂近くの登山道は風雨が強く、体感で風速は約30メートル。手がかじかむほどの寒さだった。最初の男性に続いて低体温症で死亡した2人は、発見時は防寒着やツェルト(簡易テント)もない状態で、風雨から身を守る手だてを取ったように見えなかったという。救助関係者は「最初の遭難者が出た時に全員で引き返すなどの判断をすれば、その後の遭難は防げたかもしれない」と指摘している。
 同署によると、パーティーは見知らぬ同士が多かった。日本語が話せるリーダー格の60代男性が、韓国・釜山の旅行会社に山小屋の手配などを依頼。同社は取材に「2、3回、ガイドが必要だと説明したが、何回も日本の山に登ったことがあり必要ないと断られた」と話した。
 パーティーが28日夜に泊まった木曽殿山荘の経営者沢木公司さん(66)によると、一行は同山荘に着いた時間もばらばらだった。沢木さんは29日早朝、登山客に前線の影響で風雨が強まり、吹きさらしになる宝剣岳への縦走ルートは厳しい―などと助言。日本人パーティーは安全なルートに変更したという。韓国人パーティーのリーダー格の男性も説明を聞いていたようだが、その間にも他のメンバーは出発していった。沢木さんは今後、外国人ツアー客の受け入れ依頼があった場合、地元ガイドや通訳を付けるよう求めるという。


 このように、交通機関、装備や天気予報が発達した現代でも、軽率な登山だと夏でも命を落とす中央アルプスだが、駒ケ岳の北に遭難の碑が建っている理由は、大正2年(1913年)8月26日から27日にかけて起こった地元の中学生の集団登山における遭難事故の記憶を永遠に留めるためである。この事故については、60年後の昭和50年に、新田次郎「聖職の碑」という小説を書いており、さらに映画にまでなっていることがわかった。この事故は、小説により再発見され全国的に注目されたらしい。
 事故当時の公式資料がないかと探したところ、それはあった。こちらである。市のHPから消されるといけないので、ダウンロードして、読めるようにしておこう。
      駒ヶ岳山上に於ける大惨事           

 この資料は、上伊那教育会の名前で書かれた資料で、内容から事故直後に書かれたことがわかる。ページ及び活字の状態から、後年何らかの出版物に転載されたものだろう。内容については直接読んでいただくほうが早いが、地理および時系列がわかりにくいので、当時の状況を新田次郎の取材も付け加えて、地図に落としてみた。参加者は、校長、教員2名、中学2年生の生徒25名、付き添いの青年9名、合計37名である。




 以上が行程の概要である。伊那小屋は現在の宝剣山荘付近だとされている。
   

 事故の原因はもちろん不運が重なった複合的なものだが、まず、台風が来ているのになぜ登山を強行したのか、という疑問がわく。気象観測が専門であった新田次郎によると、実は、当時はラジオもなく、天気予報もほとんど当てにならなかったらしい。実際に校長が気象台に問い合わせているが、当時は台風と低気圧の区別もできず、その動きすらつかめていなかったというのである。

 次に、宿泊した伊那小屋が破損していて、屋根もなかったことを知らなかったということが遭難につながった、と言われている。これについて、小説では、現地について初めて壊されていることを知ったような描写になっているので、一般的にそう理解されているようであるが、「駒ヶ岳山上に於ける大惨事」を読むと、それとは逆の意外な記述があった。

 
「伊那小屋は、予って腐朽し且つ破壊された事は承知して居った
が、材木類は予想より僅かで角材十数本のみ、誰か数人が之を利用して宿った形跡がある丈である。」 とある。

 つまり、破損の程度は別として、何らかの情報により、校長以下関係者はこのことを事前に知っていたことになり、小屋の修復は想定内だということになる。事実、この公式記録でも、小説でも、校長は迷うことなく直ちに指示して、やけに手際よく仮修復作業にとりかかっている。
 新田次郎は当然この記録を読んでいるのに、なぜこのようなストーリーにしたのだろうか。私見だが、現地で初めて知ったという方が、パニック小説としてドラマチックだ、ということだろう。小説では、校長は悲劇の主人公という設定になっているので、予め知っていたとなると、ただのマヌケか、無謀という印象を与えてしまうおそれがある。知っていたのなら、はじめから木曽小屋に泊まれば良いと誰しも思ってしまうだろう。まあ、その前に、現代ならば当然事前現地調査をするはずであるが。

 次に、暴風雨とはいえ、なぜ翌朝に伊那小屋を出てしまったのか、という点である。公式資料では、生徒1名の死亡を受けて、校長が全員出発を決断したように書かれている。しかし、小説では、生徒の死亡により青年の一部がパニックになり、小屋の屋根にしていたハイマツを剥がしてその下に敷いてあったゴザを勝手に奪って出て行ったので、小屋の屋根がなくなってしまい、仕方なく全員が外にさまよい出て下山を始めた、となっており、ここでも食い違いを見せている。小説としては、先ほどと同じ理由で、当然後者のほうが都合がよいだろう。が事実はどうなのだろうか。
 新田次郎は、聖職の碑の巻末に詳しい取材記録を載せている。それによると、複数の生存者の証言から小説に書いてあることが事実だとしている。「駒ヶ岳山上に於ける大惨事」は、公式報告書ではあるが、実際に書いたのは、生存した2名の教員である。教員が最初に飛び出した青年に責任が及ぶのを恐れたため、事実を書かなかったというのが、新田次郎の主張であり、私もそれが正しいと思う。証言によると、この時にゴザを得られたかどうかでその後の生死が決まったという。ちなみに、当時ビニールのカッパはなく、なんとゴザが当時の携行雨具だったのである。愚か者が恐怖にかられてリーダーの言うことを聞かずにチームを崩壊させ、ますます事態を悪化させる、というのはハリウッド映画ではよくあるストーリーであるが、なんと、同じことが実際に起こっていたのである。

 さて、もし、このまま伊那小屋にとどまっていたら、小屋で死亡した生徒以外の遭難が防げただろうか。後ほど示すが、同じ稜線に近い濃ヶ池の近くで、教員と生徒の2名が岩陰に避難して助かっている。森林限界より上で生存できたのはこの2名であるが、この教員は軍隊経験があり、ロウソクで暖を取るなど知識があったようだ。このことを考えると、たとえ屋根がなくなっても小屋の石垣の下で動かなかったら、助かった可能性はあるが、一方で森林帯まで逃げ込んで助かった人たちも死亡した可能性もあり、難しいところである。

 その他に、「駒ヶ岳山上に於ける大惨事」では、校長が外に偵察に行ったことになっているが、小説では、体力のある若い教員や青年に行かせているなど、細かい食い違いがある。危機管理の常識では、後者の方が普通だろう。「駒ヶ岳山上に於ける大惨事」は公式記録とはいえ、執筆した教員の死亡した校長に対する賛美や青年に対する配慮、そして何よりも校長や学校側の責任を和らげようとする意図が感じられ、必ずしも事実を書いていないことが推察される。文体も報告書とは思えない、情緒的な感じだ。当時は、公務員として真実を書くというモラルは現代ほど強くなかったのだろう。

 木曽小屋に向かったらどうなったかは、微妙なところであるが、案内人もなく、暴風雨の向かい風の中、稜線を歩いて駒ケ岳山頂に向かうことは不可能だったのかもしれない。

 死亡者は、全部で11名である。生死の内訳は、校長は死亡、教員2名は生存、生徒25名中死亡9名、青年9名中死亡1名だった。捜索により救助されたのは、教員1名と生徒7名なので、残りの教員1名、生徒9名、青年8名は自力で下山できたのである。1名の教員は、救助を求めるため、最初に下山している。
 では、ここで、「駒ヶ岳山上に於ける大惨事」と「聖職の碑」巻末にある資料から、救助された生存者と死亡者の位置をプロットしてみよう。○が生存、×が死亡である。





 森林限界より上で助かったのは、濃ヶ池近くの岩陰に隠れた教員1名と生徒1名である。新田次郎は、後に東京大学に進学し、経営者となった76歳のこの生徒にも取材で直接話を聞いている。青年で唯一犠牲となった人は、生徒の弟を庇って一緒に稜線上で亡くなったそうである。
 さて、この登山の責任者であり、小説の主人公である、赤羽校長であるが、最初の生徒が山小屋で死亡した時から、生きて下山できないと思っていたようである。生徒を置いて我先に下山すれば助かったかもしれないが、現代の教師でも、それはできないだろう。当時の名士であり典型的知識階級である学校長の地位や名誉、そしてそれに伴う責任感は、現代の比ではない。その後の彼の行動からも、自分は死ぬという覚悟が明らかである。同時に子供を何とか一人でも多く助けようとしたようだ。救助隊が駆けつけた時は死亡した子供のそばでまだ生きていたこともそれを裏付けている。
 それでも、未亡人は父兄から随分非難されたようである。現代であれば、マスコミがそれに乗ってここぞとばかりに教育委員会や学校を攻撃することだろう。
 最後まで見つからなかった生徒1名が発見されたのは、12年後の大正14年のことである。マラソン大会において、遭難した登山に参加した青年が遺体を見つけ、遺品を持ち帰って両親が確認したのである。そのことによって、学校と父兄の確執が解消し、集団登山が再開したという。登山そのものは明治時代からあったらしいが、これを契機に地元の中学生が駒ケ岳に登るのが一般化し、現代に引き継がれているらしい。私があった中学生の集団登山もそれだろう。
 伊那町は、この事故を教訓に西駒山荘を建設した。また、上伊那教育会は、記念碑を建てている。

 将棊頭山付近の遭難記念碑(駒ヶ根市HPより転載)
   

 この上伊那教育会は、教育委員会のようなものかと思ったが、何と現在でも存続していることがわかった。こちらである。教育委員会ではなく、先生たちが組織する会らしい。さすが教育県長野である。さて、ここをみると、下記のように遭難100周年を記念したイベントを開催していた。ちなみに西駒とあるが、伊那谷の人は、プライドが高く、絶対に「木曽」駒ケ岳とはいわないそうである。東駒は、甲斐駒ケ岳のことだ。おれたちは、東西に駒ケ岳をもってるぜ、木曽や甲斐の山じゃないよ、ということらしい。
   
 そうか、ちょうど100年経ったのか、などと感心していると、はっと気がついた。私がゴザではなくゴアテックスを持って駒ケ岳に登ったのは、2013年8月29日、かれらの登山は1913年8月26日、遭難は27日から28日にかけてで、ちょうど100年前の1913年8月29日は、奇しくも救助活動の最終段階であったのである。ただの偶然ではないような気がして、つい、長文を書いてしまったが、これも何かの縁かもしれない。

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