野川 (のがわ) 探訪
国分寺市に端を発し、
河岸段丘からの湧水をあわせて、二子玉川で多摩川に合流する都会のオアシス
◆
第2日目 (2011年4月2日) 馬橋(
東京都調布市
)〜 源流 (
東京都国分寺市
)
二子玉川から始まった野川探訪の2日目、いよいよ後半戦に入る。今日は、京王線の柴崎駅で降りて、前回の終点である調布市の馬橋に向かう。天気予報は晴だったが、少し薄い雲がかかっている。
何とか晴れてくれるとよいのだが。
1 馬橋から下流を望む 2 馬橋から上流を望む
馬橋に着くと、橋の上や野川の両岸に大きな望遠レンズをつけたカメラマンが何人もいる。何事かと川を見ると枝の先にカワセミがいた。美しいが、ちいさな鳥一羽のために大の大人が群がっているのも少し可笑しい。しかし、趣味に一生懸命になるのはお互い様であろう。
カワセミは、われ関せずであるが、川岸を向こうからのんきにおじさんが近づいて来る。もちろんおじさんはカワセミに気づいていない。カワセミが逃げていったらカメラマンたちとトラブルになるかと心配したが、そこは野鳥を愛する人達、カワセミがいなくなると何事もなかったように次の撮影地に向かっていった。自転車に乗ってカワセミを追いかけている人が多いようだ。
3 カワセミ 4 馬橋緑地
馬橋の上流右岸側には小さな緑地があった。旧河川流路を利用したものだろうか。
5 三分咲きの桜 6 中島橋から上流を望む
川岸には桜が植えられており、もう咲き始めている。来週あたりが見頃だろう。学校の敷地の中には、写真7のとおり京王線が走っていたことを示す記念碑があった。大正2年から昭和2年までと書いてあるので、14〜5年だろうか。意外と短命だったようである。
7 京王電車記念碑 8 小金橋から上流を望む
9 一の橋 10 榎橋から上流を望む
静かな住宅地の中を桜並木を伴いながら流れる野川はなかなかいい感じた。休日なので、わざわざ川沿いを歩いている人も多い。
11 調布地盤沈下観測所 12 調布地盤沈下観測所解説板 その1
ここでは地盤沈下を監視しているそうだ。解説板には、武蔵野台地の成り立ちも。200万年前といえば、アフリカでサルとヒトが分かれ始めたころで、まだ、我々ホモサピエンスは存在しない。
13 調布地盤沈下観測所解説板 その2
14 虎狛橋から上流を望む
15 又住橋から下流を望む
16 中央高速道路
17 お花見の準備
中央高速道路を過ぎると、川沿いに河川敷が広がり、川遊びや花見にもってこいの環境になる。少しわざとらしいが、大きな石があって、子供たちも大喜びだ。写真19の子供に何を採っているのか聞いてみる。エビだそうだ。女の子がリーダーらしく元気に教えてくれた。
18 中耕地橋 19 川遊びをする子供たち
20 桜の花と蕾
三鷹市に入る。30年前の記憶では、崖の下を川が蛇行していたと思ったが、現在はそのような場所はないようだ。改修されたのだろう。
清水橋付近では、写真21のように、国分寺崖線が目の前に迫り、崖面には野川を見下ろすように家やマンションが建っている。崖の上が武蔵野面、今私が立っているのが立川面である。古多摩川が武蔵野面を削ったのが、数万年前ということらしい。縄文時代よりも前、旧石器時代だが、すでに日本列島には人が住み着いていたはずだ。氷河期でマンモスが闊歩していた時代である。ここに多摩川が流れ、水を飲みに来るマンモスを人類が狩っていたのだろうか。
この景色も、知らなければただの崖だが、こんなことを考えながら見るとまた違った風景にみえる。
おじさん年代の悪い癖で、こんなにわか仕込みの薀蓄を誰かに喋りたくなるが、やめておいたほうが良いだろう。せめて、ここに書きこんで、満足するくらいのものだ。
ところで、この事を利用して、自分が相手にどう思われているかを知る便利な方法があるのをご存知だろうか。例えば、この河畔をデートしながら、国分寺崖線をさしてこの薀蓄を話してみよう。相手が目を輝かせて話しに乗ってきたら、好感を持たれている証拠である。まだ、知り合ってすぐなのかもしれない。無反応、または興味がなさそうな感じであれば、もうあなたに好意も興味も失っているに違いない。倦怠期である。別れも近い。
子どもにも同じ手が使える。まだ、小学生低学年であれば、こんな受け売りのマンモスの話でも父親を尊敬の念で見てくれるだろうが、高校生になったら「また、おやじがつまんねぇこと言ってやがる」と心のなかで思っていることだろう。親離れも近い。
21 清水橋付近
小さくてわかりにくいが、写真21の桜の木の下、右岸から川に枝が突きでており、そこにカワセミが写っている。白鷺のすぐ右下である。馬橋の個体と同じかどうかわからないが、やはりカメラマンが狙っていた。
22 カワセミを狙うカメラマン達 23 大沢橋から上流を望む
24 榛沢橋 25 榛沢橋から上流を望む
写真はないが、ここは調布飛行場の東側にあたり、管制塔が見えた。
26
野水橋から上流を望む 27 飛橋から上流を望む
28 水車
29 付近の国分寺崖線
このあたりは、国分寺崖線の緑も濃く、のんびりした景観である。地図によると崖の上には国立天文台があるはずだ。
30 御狩野橋から下流を望む 31 御狩野橋から上流を望む
御狩場橋の上流側は、林と芝生が続いている。野川公園に続く緑地である。
31 川遊びをする家族連れ 32 野川公園 その1
こんどは、家族連れでの水遊びである。お父さんが活躍しているようだ。
33 野川公園 その2 34 櫟橋から上流を望む
大きな道路の下を過ぎる。東八道路というらしい。名前のとおり、東京と八王子を結ぶ幹線都道である。ここから東京方面に向かう途中はまだ未完成であるが、以前に
玉川上水を訪れたとき
、杉並区久我山で地元住民が反対運動を起こしていたことを思い出した。
35 野川公園案内図
大きな案内図をながめるとあることに気付く。公園の芝生の配置が何かに似ているのである。そう、ゴルフ場にそっくりだ。それもそのはず、この
野川公園
は
崖の上のキリスト教系大学が所有していた
ゴルフ場だったらしい。アメリカ人が作った大学なのか、さすがにスケールが大きいが、狭い日本でこれをやるのは無茶だろう。もう武蔵野の自然を復元することは無理だろうが、そのことを考えれば、自然観察園だけでもよく残ったというべきだ。様々なトラブルを経て現在の平和な公園になったということらしい。
公園内では、写真36のように、野川に合流する湧水らしき流れが確認できた。さっそくこの流れを遡ってみよう。ちなみに、この芝生広場には、ちゃんとわき水広場という名前がついている。
36 わき水広場の流れと野川の合流点 37 わき水広場 その1
38 わき水広場 その2
写真37の右側の清流の行き着いた先が写真39の湧水口である。石がわざとらしく積んであり、自然の湧水には見えないが、ポンプアップしている様子もなく、場所も崖のすぐ下なので水源が人工的なものとも思われない。おそらく天然の湧水口を公園の工事に伴って石で囲んだのだと思われる。しかし、せっかくの湧水も、公共工事でありがちな、お金持ちが作った日本庭園風のセンスの無さでちょっと残念な感じになっている。コンクリートで固めなかっただけ良しとすべきだろうか。
写真37の左側は、同じように写真40の湧水から流れ出している。背後の崖のうえは大学のキャンパスになっているようだ。
39 わき水広場の湧水 40 もうひとつの湧水
公園を進むと自然観察園があった。
41 自然観察園と背後の国分寺崖線
42 国分寺崖線と野川解説板
43 自然観察園案内板
ここには、湧水路と池が散在しているが、歩くのは木道に限られ、湧水口には立ち入ることができない。
44 自然観察園 45 ほたる池
さすがに元ゴルフ場だけあって広々としている。その中を野川は直線的に流れていて、あまり自然な感じはしない。
46 自然観察園前の野川 47 紅葉橋から上流を望む
48 西武多摩川線 49 西武多摩川線から上流を望む
単線の多摩川線を越えると、武蔵野公園である。小金井市に入ったようだ。
50 武蔵野公園 その1 51 武蔵野公園 その2
歩道を歩く。上流に向かって左側には野川の流れ、右側は湿地帯になっている。現状から見て、おそらく耕作放棄された田圃だったのだろう。
52 武蔵野公園 その3 53 武蔵野公園 その4
その湿地帯は、現在湧水池としての役割を担っている。写真53,54が野川が氾濫したときに水が越える越流堤である。その越流堤におもしろい注意書きがあった。写真54は「歩行者特に子どもがいるときはスケボー即中止の事」と書いてある。つまり、歩行者がいないときはスケボーをやってもいいよということで、何でも禁止にしたがる日本では、めずらしい。このくらい鷹揚でもよいのかもしれない。
54 越流堤の注意書き 55 武蔵野公園 その5
子供たちが練習している野球場の向こうは、お馴染みの国分寺崖線である。
56 武蔵野公園 その6 57 武蔵野公園 その7
58 武蔵野公園 その8
武蔵野公園を過ぎて、再び住宅街の中を流れるようになった野川のすぐ横を歩く。写真59のように、橋がなくても、またいで写真が撮れるほどの川幅になってしまった。
59 小金井市中町一丁目付近 60 中前橋
61 丸山橋から下流を望む 62
新前橋から旧野川を望む
丸山橋から上の道にあがり、新前橋に到着した。写真63のように右岸側にここに合流している細流がある。その上流側は写真64である。そちらにかかっている橋が前橋で、その傍らにも、写真64のとおり、野川の看板がある。橋の名前からもわかるように、旧野川である。ほとんど水は流れていない。
63 新前橋から下流を望む 64 前橋から旧野川上流を望む
上流の大城堀橋から上流をみると、写真65のとおり、トンネルになっている。新たに開削された新流路だ。学校があるのでこの部分を暗渠にしたのだろう。旧野川は、一部の水路を残して道路として活用されている。
65 大城堀橋から上流を望む 66 旧野川 その1
旧野川の中に作られた道路を歩いていると、写真68の警告を見つけた。不法工作物である。
67 旧野川 その2 68 不法工作物警告
それは、写真69の塀らしい。古い塀が傷んだので、その外側、つまり、河川敷の中に勝手に塀を建てようとしたらしい。新しいブロック塀は、警告の効果かどうか分からないが工事が途中になってている。しかし、撤去はされていないようだ。
69 不法工作物 70 隧道入口
71 隧道入口から上流を望む
学校の横を抜けて隧道の反対側に出た。
72 前原野川橋から上流を望む
このあたりは橋がたくさんかかっていて、桜並木があり、明るい雰囲気だ。
73 親水施設 74 坂下橋から上流を望む
75 河畔の彩り
76 河畔のレストラン 77 弁天橋から下流を望む
弁天橋につく。その名のとおり、ここは神社の参道になっている。写真77に左岸側から合流する流れが写っているが、これは神社の湧水からの流れだと思われるので、さっそく行ってみた。
78 真明寺 79 貫井神社の池
湧水はすぐわかった。神社の横をサラサラと流れている。石碑によると、この神社は、湧水があったので祀られたようだ。その湧水は石の祠の中から湧きでており、その最奥部が写真81である。石の下からこんこんと湧き出る神様の水である。祠のすぐ上はもちろん国分寺崖線である。
80 貫井神社の湧水 81 貫井神社湧水の湧出口
西之橋で野川に復帰する。
82 西之橋から上流を望む 83
河川管理境界
鞍尾根橋についた。この橋は、小金井市と国分寺市の境界であるとともに、河川管理の境界でもある。そして、この橋を境として、野川の上流と下流の景観が全く異なっている。それは、写真84と85を見比べればわかっていただけるだろう。写真だけを見て、両者が同じ川であると思う人はいないはずだ。これまでの下流側は整備された川だったが、上流側は川というよりもコンクリートで固められた溝になっている。
84
鞍尾根橋から下流を望む
85
鞍尾根
橋から上流を望む
鞍尾根
橋の横に水路があった。東京経済大学からの湧水路らしいが、残念ながら水は流れていない。
86 枯れた湧水路 87 国分寺市東元町1丁目付近
その1
ここでは、野川は堰き止められて水が溜まっていた。何故か不思議に感じたが、野川沿いの写真88の看板で理由がわかった。川をせき止めた水を火事の時の消防用水にするつもりらしい。
88 水場標識 89
国分寺市東元町一丁目付近 その2
蛇行はそのままにコンクリートで固められた野川であるが、なぜか、丸山橋もそれにあわせて、コンクリートと鉄で無骨に作られていた。よくみると橋の横に鉄のゲートがあるようだ。野川が溢れたときには、これを閉めようというのだろう。
90 丸山橋 91 国分寺駅南口
都道133号線に出て、フェンスで区切られた森の横を北に向かう。突然賑やかになったと思ったら、国分寺駅前である。ここに、その森への入口があった。殿ヶ谷戸庭園である。
92 殿ヶ谷戸庭園入口 93 殿ヶ谷戸庭園 その1
この庭園がなぜここにあるのか、それは、いつもどおり現地の解説板に任せることにする。
94 殿ヶ谷戸庭園解説板
野川を離れて、入場料を払ってまでここに来た理由はただ一つ。野川の源流の一つである湧水を見に来たのである。庭園は国分寺崖線そのものでもある。その崖の上の武蔵野面から立川面を見下ろすと池があった。
95 次郎弁天の池を見下ろす 96 滝の源流
崖のかなり高いところから写真96のように水が流れ出ているが、湧水にしては勢いがありすぎるし、位置も高すぎる気がする。しかも、近寄ると人工的な弁のようなものがあるではないか。これは湧水ではないだろう。
本当の湧水は池の奥、崖の下にあった。
97 紅葉亭 98 湧水地
庭園として自然がほぼ残されてきただけあって、周りの環境もなかなか素晴らしい湧水である。ここが国分寺駅前だとはとても思えない光景である。岩の隙間からかなりの水量が湧出し、池に流れ込んでいる。
99 湧水解説板 100 湧水地点
101 次郎弁天の池解説板 102 池の排水口
池からの水は野川に流れ出ているはずなので、排水口を見に行く。案の定、そこには水中ポンプの吸水口があった。ここから水を汲み上げて、写真96から流しているのだろう。ここから野川への流路はよくわからなかった。おそらく、暗渠になっていると思われる。
103 次郎弁天の池から紅葉亭を見上げる
殿ヶ谷戸庭園を出て、駅前から再び坂道を下る。マンションの一角にかろうじて残されているのが、石橋供養塔と湧水である。
104 石橋供養塔解説板
105 石橋供養塔 106 湧水地
写真107では、石の鉢の手前側が緑の苔に覆われているのがわかる。つまりここから常時鉢の水が溢れ出ているのであろう。その水は、この鉢の周りからじわじわと滲み出しているようだ。昔はかなりの水量があったに違いない。
107 湧水 108 湧水の滲出地点
湧水の目の前にあるのが、不動橋である。
109 不動橋 110 不動橋から下流を望む
不動橋で野川に流れ込む写真111の水路がある。元町用水という真姿の池湧水群からくる湧水路らしい。ここで、一旦野川本流をはなれて、湧水群に行ってみることにしよう。
111 元町用水合流地点 112 元町用水 その1
住宅地の中を何気なく流れる水路の水は澄んでいる。そして、お鷹の道にでた。
113 元町用水 その2 114 お鷹の道 その1
「お鷹」とは、人の名前かと思ったら鳥の鷹のことらしい。散策道が整備され、なかなか雰囲気のよい、ちょっとした観光地になっている。写真116のとおり、カップルがデートに使っているくらいである。
115 お鷹の道解説板 116 お鷹の道 その2
117 美しい住居プレート 118 お鷹の道横の流れ その1
写真120のところで、二筋の流れが合流している。右に曲がる流れが真姿の池に続いているらしい。
119 お鷹の道横の流れ その2 120 湧水の合流
121 真姿の池湧水群からの流れ その3 122 真姿の池湧水群からの流れ その4
100年前の日本に戻ったような雰囲気だ。昔に比べればずいぶん減ったのだろうが、それでもかなりの水量である。いかにも旧家がやっているというような野菜直売所もあり、家族連れなど歩いている人も多い。左手に社と池がある。池の水は濁っているが、ここが真姿の池である。池とは別に湧水路は真っ直ぐ続いている。
123 真姿の池湧水群近くの民家 124 真姿の池
125 真姿の池湧水群からの流れ その5
126 真姿の池湧水群解説板 その1
突き当りの崖の下、写真127の丸い石の間から水が湧いているようだ。その上には崖を登る階段が続いており、鳥居もある。この真姿の池湧水群については、複数の詳しい解説が掲示してあった。
127 湧水池点 128 背後の国分寺崖線
129 真姿の池湧水群解説板 その2
写真120の地点に戻り、今度は直進して国分寺方面に向かう。
130 国分寺への道 131 国分寺崖線緑地保全地域
132 お鷹の道。国分寺付近案内図
133 おたかの道湧水園付近 134 おたかの道湧水園長屋門
おたかの道湧水園という有料の施設があった。旧名主の家だったらしく、立派な門がある。湧水はこの施設の中にあるらしく、水路はこの施設の中に入っていく。湧水園の向かいには、「おたカフェ」という休憩施設があった。もちろん、「おたか」と「カフェ」を掛けているのだが、私には、どうしても秋葉原あたりにありそうな「オタ」の集まる「カフェ」としか思えないネーミングである。
135
湧水園の敷地に続く湧水路
136 おたカフェ
真姿の池湧水群を巡る旅はこれで終わりだが、せっかくなので目の前にある
武蔵国分寺跡
を見ておこう。崖下にあるのは、現在の国分寺である。海老名の
相模国分寺を訪れた時
もそうだったが、奈良時代に国策として各地に建立された国分寺の建物が無くなっても、普通の寺としての国分寺が近くに残っているようだ。ここは、何とあの新田義貞が再建したそうである。
137 国分寺への道 138 国分寺
立派な門があるが、これはもちろん江戸時代の建築を移築したもので、奈良時代の国分寺とは何の関係もない。
139 国分寺楼門 140 国分寺楼門解説板
道を挟んだ、本来の国分寺跡に行ってみると残念ながら発掘調査中であった。ここに国分寺が建てられたのもやはり豊富な水があったからだろうか。
141 国分寺石碑 142 武蔵国分寺講堂跡
真姿の池に戻って、池の先の崖を登ると、大きなマンションが建っていた。ここは、国分寺の北端だったらしく、解説板が立っていた。
143 僧寺北東地域の解説板
144 国分寺跡概念図
145 現在の僧寺北東地域 146 区画溝跡
147 区画溝跡解説板
次の目的地はいよいよ野川の源流の本命である日立の研究所であるが、そこに行く途中にある、武蔵国分寺公園に寄ってみることにする。
実は、この公園にある円形広場が気になって仕方がなかったのである。電波傍受施設など何かの跡ではないかと思ったのだが、現地に行ってもただ芝生が丸く広がっているだけであった。この広大な敷地は以前は国鉄の
中央鉄道学園
という施設だったが債務返済のために売却されたらしい。調べてみると
ここ
に証拠の写真があった。円形にしたのは公園の設計者であり、鉄道学園とは何の関係もなかったようだ。
148 武蔵国分寺公園 149 円形広場
野川に向かうと写真150のとおり急な坂道を下る。国分寺崖線である。崖は、野川と一緒に北に大きく回り込んでいるのである。
150 野川に向かう坂道 151 押切橋から下流を望む
野川は相変わらずのコンクリートで風情はない。この上流で中央線をトンネルで通過しているらしいが、現地で確認することはできなかった。再び階段で崖を登る。
152 押切橋から上流を望む 153 野川からの登り道
しかたがないので、中央線を陸橋で越える。回りこんで線路際の道に出ると、右手に高いフェンスに囲まれた緑の森が現れた。
日立中央研究所
である。
154 中央線 155 日立製作所中央研究所横
坂道を下りきったところにちょっとしたベンチがあり、写真156−158の解説板があった。156の図はなかなかわかりやすい地図である。ここが野川に沿った谷になり、国分寺崖線もそれにともなって、武蔵野面の北方向に大きく食い込んでいるのがわかる。谷は東西に分かれているようだ。この図を見ても、日立の研究所の敷地の中にある大きな池が野川の源流であることは間違いないのだが、左のほうに気になる池がある。姿見の池である。ここから水路が伸びており、野川導水事業ルートとある。人工的なものかもしれないが、野川の源流の一つである可能性が高そうだ。後で行ってみることにした。
156 野川源流案内図
157 野川源流の解説板
野川導水事業の概要も書いてある。
158 野川導水事業解説板
さて、ベンチもあり、こんな立派な解説板があってここが野川の源流ですと言われても、現地が見えないのでは、私でなくても欲求不満になる人が多いと思う。母親に「冷蔵庫においしいケーキがあるよ」と言われながらも食べさせてもらえない子供の気持ちである。これは精神衛生上よくない。かといって、目の前には研究所のやけに高い塀が隙間もなく続いていて、何も見えない。せめて、塀の一部をガラス張りにするとかの配慮があっても良いような気がする。
このような要望も多いのだろう。日立製作所は年2回内部の湧水と池を公開している。そして、明日の4月3日が公開日なのである。いや、正確には、「公開日であった」というべきであろう。残念ながら地震の影響で
中止になってしまった
。いつかリベンジをしたいと思うが、捨てる神あれば拾う神ありである。内部の様子をYou Tubeで公開している方がいたのだ。水の音はもちろん、鳥や電車の音まで
はっきりと分かる素晴らしいもの
で、作者に感謝をしつつ見せていただいた。
さて、著者は現地ではどんな行動をとったのかというと、実は法律的にはかなり危ない橋を渡ってしまった。塀の上に手に持ったデジカメを伸ばしてブラインドで写真をとったものが、159だ。
カメラが捉えた源流の姿である。
そこには、橋と源流が写っていた。
まあ、研究所の機密事項は写っていないようなので、公開しても大丈夫だろう。身長が高いとこういう時は便利だ。
159 塀の上から見た源流 160 西武国分寺線横
本日最後の目的地である姿見の池に向かう。
161 姿見の池案内板 162 姿見の池 その1
163 姿見の池解説板 その1
池の水は綺麗とは言えないが、多くの人の憩いの場になっており、昔の武蔵野の風景を彷彿とさせる、なかなか雰囲気の良いところである。
164 姿見の池 その3 165 人になれた白鷺
ここの白鷺は、やたらと人に慣れており、数mまで近寄っても逃げない。
166 姿見の池解説板 その2
こんなのんびりとした姿見の池であるが、整備には大変な苦労があったらしい。
ここ
にその時の貴重な記録があるので紹介しよう。このサイトは、いつも公共事業を批判的に書いている(まあ実際にひどいのも多いのだが...)が、いいことは評価することも大切である。それにしても一度破壊された環境を元に戻すのには大変な時間とお金がかかることが改めてわかる。最初から保護するほうがずっと安上がりでもあるのだ。
167 姿見の池に流れ込む湧水? 168 167の上流
姿見の池に流れ込む小川をさらに遡っていくと解説板があった。この水路は恋ヶ窪用水というらしい。ここに流れている水は、今まで紹介してきた解説板や資料に書かれているとおり、武蔵野線のトンネルから湧出している地下水である。
169 恋ヶ窪用水解説板
170
野川の源流である湧水と用水路の関係はなかなか複雑だが、写真170の地図は、江戸時代の水路の関係が整理されていてわかりやすい。
野川の本来の源流は、恋ヶ窪谷で、この谷は西と東に分かれているのは、写真156でも確認できる。東の谷の源流は現在の日立の研究所内で、西の谷の源流は付近の湧水を集めた姿見の池であろう。ところが、江戸時代に恋ヶ窪村分水(と国分寺村分水、貫井村分水)も野川に流れこむようになって話がややこしくなる。なぜならこれらの用水は
玉川上水
から水を引いているからである。玉川用水は羽村から分水しているので、本来の源流の他に多摩川の水も野川に流れ込んでいたということになる。
さて、現在の状況を整理してみよう。玉川上水が機能しているのは、小平監視所までで、もちろん水道用水としてである。国分寺村分水、貫井村分水が機能していることはないだろう。おそらく、水路そのものもかなり失われているはずである。したがって、多摩川の水は野川に流れ込んでいないはずだ。昭和40年代になると、恋ヶ窪の西の谷の湧水を集めていた姿見の池は埋め立てられてしまった。湧水も少なくなったのだろう。しかし、その代わりに、武蔵野線のトンネルの地下水が、恋ヶ窪用水、姿見の池をへて野川の源流となっているのである。もちろん、本来の源流である
東の谷すなわち、日立の研究所の湧水は今も健在である。
写真171が現在の復活した恋ヶ窪用水の起点である。ここにトンネルの水がポンプアップされているのだろう。脇には、お地蔵様が立っている。元禄十六年と刻まれているので、1703年のものだ。姿見の池の伝承でもわかるように、このあたりは歴史的に見ても面白そうな場所である。
171 恋ヶ窪用水起点 172 用水の脇に立つお地蔵様
東京西部有数の賑やかな街である二子玉川と兵庫島を目指して、国分寺崖線にそって流れる野川は、そのほとんどが河川改修により本来の流れとは異なっているが、その分、整備が進み非常に歩きやすい川である。交通の便も悪くなく、都内の川にもかかわらず野川公園など武蔵野の自然も楽しめる場所が多い。上流部はコンクリートで固められているが、源流部はなかなか素晴らしいところだ。広範囲に点在する国分寺崖線からの湧水は一見の価値があるだろう。国分寺市内には、国分寺跡をはじめ歴史的にも面白い場所が多く、湧水めぐりと組み合わせても面白い。
さて、前回の宿題になっていた、野川の生みの親である国分寺崖線のその後はどうなっているのか。現地調査はできなかったので、机上の結論になるが、資料により異なっていることがわかった。最上部として、
武蔵村山市残堀
、
武蔵村山市緑が丘
、
立川市けやき台団地
等が挙げられている。いずれにしても
野川の源流
よりさらに北西に続いていることは間違いないようだ。
(本日の歩数:32640歩)
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第1日目 (2011年3月19日) 多摩川合流地点〜 馬橋
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