神奈川県一周
境川から尾根を辿って、神奈川県最北端を目指す初めての山岳地帯
◆第22日目(2011年5月21日)
小仏峠
〜
和田峠
前回は、
境川源流
から城山湖・津久井湖の北の
県境の尾根
を歩き、
大垂水峠
、
小仏城山
を経て、小仏峠まで到達した。今日も引き続き高尾山塊のメインストリートを行くことになる。
高尾駅から小仏行きのバスは時間どおりには来なかった。そして、列に並んだ直後に団体が大挙して押し寄せて、後ろは長蛇の列になってしまった。間一髪である。バスは2台でも乗りきれないが、とりあえず出発した。団体は途中下車してくれたので助かった。
小仏バス停の標高は約290m、標高548mの小仏峠まで、260mの登りである。もう少し標高差があると思ったが、たいしたことはなさそうである。
前回下りてきた道を逆方向から登っていく。意外と人は少ない。途中から右折して景信山へ直登する道があるので、そちらに行く人が多いのだろうか。
1 小仏バス停 2 小仏峠直下
小仏峠に到着した。県境に復帰である。この真下には中央本線のトンネルが通っているはずだ。
ここからは、再びハイキングコースを歩く。最初の目的地は
景信山
である。今歩いている高尾山から臼杵山までの尾根道は
奥高尾縦走路
というらしい。奥高尾縦走路のうち、
小仏城山
から
醍醐丸
までが、県境と重なっていることになる。
3 小仏峠 4 景信山へ その1
ところで、写真4の右側に数人の人が固まっているのがわかるだろうか。近づいてみると、男性が女性の靴に太い電線のようなものを巻きつけていた。この時は滑り止めだろうと思ってよく見なかったが、景信山の頂上で見たのは恐ろしい光景だった。登山靴のソールが完全に剥がれているのである。これは、
ミッドソールにポリウレタンを使用した靴
だったのだろう。気をつけなければ、場所によっては命取りになりそうである。登山靴ではないが、昔、スキーに行こうと久々に履いたスノートレーニングシューズの靴底が、行きの車中でみごとに崩れ去ったのを思い出した。
話はかわるが、奥高尾縦走路の中でも、高尾山から小仏城山を経て景信山に至る区間は、日本でも有数の最も人が多い登山道のひとつだ。歩いていても必ず前後に人の姿が見えて安心といえば安心ではある。ただ、中には集団で走っている人がいて、カオス状態であると言えないこともない。
写真6のように、東側の展望がひらけた場所から細長い小仏の谷が見えた。この狭い谷に、昔は甲州街道が、そして現在は中央本線と中央高速道路が収束している。
5 景信山へ その2 6 5の地点から小仏方面
7 景信山へ その3 8 景信山 その1
緑と景色を楽しみながら歩いていると、ほどなく
景信山
についた。写真のとおり、小仏城山と同じく、とにかく人が多くて賑やかである。茶屋が2軒あるが忙しそうだ。
9 景信山 その2 10 景信山 その3
11 景信山から八王子方面を望む
景信山は「かげのぶやま」と読むらしいが、武士の名前のようなかっこいい名前である。
Wikiによると
北条景信という戦国時代の武将の名前が由来らしい。しかし、「北条景信」でネット検索してみても、Wikiの
景信山の記載の
二次引用がヒットするだけ
で、歴史的資料はひとつもない。つまり、どんな人物だったのかはっきりしないのである。謎である。ただ、北条氏照の家臣らしいことがわかったので、さらに検索してみると、
ここに詳細が書いてあった
ので抜粋してみる。
山名は北条氏照の武将だった
横地将監景信
(横田長次、横地吉信、横地監物、横地将監景信、横井景信ともいう)が、甲斐の武田軍に備えて烽火(のしろ※)台を築いたことによるといわれています。景信山烽火台と呼ばれます。横地景信は北条氏照が滝山城に入る際に、側近として小田原からつかわされた、北条氏照一番の重臣です。真実かどうかは不明ですが、山頂に立つと確かに山梨県上野原方面がよく見渡せ、戦国の時代の物見の山としては位置も高さも十分といえます。別の説では、豊臣勢の小田原攻めの際、八王子城城代だったが、横地将監景信が、八王子城落城の際、この山に登ってから尾根伝いに逃亡したと言い伝えがあり、これから山の名がついたともいいます。 (※原文のまま 筆者注:「のろし」の誤りか?)
つまり、「北条景信」という人物は実在しなかったのだ。正しくは、北条氏照の家臣である「横地(将監)景信」が、山名の由来なのである。Wikiを書いた人が勘違いして書き、それを多くの人が
誤りに気づかないまま、
引用しているということになる。Wikiの影響力を改めて実感するとともに、無条件に信用してはいけないという良い例である。
さて、
北条氏照
は、小田原北条氏の全盛期を築いた
北条氏康
の三男だ。氏康の後継者
で武田信玄の娘婿、
北条氏政
の弟でもある。最初、北条氏照は
滝山城
にいたが、1569年に小田原に侵攻した武田信玄の家臣、小山田信茂に攻められた。この時の反省から、北条氏照は
8人の王子の伝説のあった山
に、
八王子城
を造ったらしい。これが、八王子の地名の由来である。写真11の右側にみえる山が八王子城である。
この時に、小山田信茂が奇襲に使ったのが今日のスタート地点である小仏峠で、それ以来、道が開かれて後の甲州街道の原型となったようだ。
時は過ぎて1590年、豊臣秀吉が天下統一の最後に北条氏を滅ぼした時、この八王子城を攻めたのは、上杉景勝・前田利家・真田昌幸という大河ドラマの主役級の豪華メンバーである。この時、城主の北条氏照は小田原におり、城代として守っていたのが、家臣の横地監物吉信、つまり先程来話題となっている横地景信である。八王子城の落城により、景信は景信山にのがれ、檜原城の落城を経て小河内村で自害したということらしい。おそらく、いつも物見台として使っていたこの山から尾根伝いに陣馬山方面に行き檜原城に落ちていったのだろう。
話が、山の名前の由来からすっかりそれてしまったが、現在の県境は昔の国境であり、戦国時代は、北条氏と武田氏、後に秀吉とのせめぎ合いがあった地でもある。この明るいハイキングコースにも血なまぐさい歴史があったと思うとまた違った興味がわいて来るものだ。
12 景信山山頂案内板 13 堂所山へ その1
景信山を後にして、次の目的地である堂所山へ向かう。写真13のとおり、東京都側は広葉樹林、神奈川県側は薄暗い針葉樹の人工林となっている。
14 堂所山へ その2 15 堂所山直下
30分ほど歩くと、右手に急坂の分岐点があり案内板が立っていた。道は堂所山を巻いており、堂所山へ行くには右の急坂を登るらしい。若い二人の山ガールが、どちらに行くか相談している。結論は、「若さに任せて右に行っちゃう。」という事になったようだ。いや、筆者が想像したのではなく、本人たちが自分でそう言っていたのである。
何故か年甲斐もなくライバル心が芽生えた筆者は、木の根がうねる急坂に取り付き、先に行く中年夫婦をかわして堂所山山頂へ向かう。県境は堂所山なのでここは行かなくてはなるまい。
16 堂所山直下の案内板 17 堂所山への急坂
陣馬山への分岐点を過ぎると、すぐに731mの山頂に着いた。写真のとおり山頂にいる人達の平均年齢は高い。お互いに道がどこに続いているのか情報交換をしているのだが、聞いていて話が全くかみ合っていないのが可笑しい。
18 堂所山・陣馬山方面分岐点 19 堂所山山頂
20 堂所山から丹沢方面を望む
頂上の人たちの会話によると、堂所山から先に行くと日帰り入浴もできる
夕やけ小やけふれあいの里
という所に出るらしい。もちろんそちらには行かず、分岐点に戻って、陣馬山方面へ県境をトレースする。
21 巻き道との合流地点 22 底沢峠へ
標高721mの底沢峠に到着。峠から左に下る神奈川県側は美女谷温泉を経て相模川へ、右の東京都側は陣馬高原へと続いている。
23 底沢峠 その1 24 底沢峠 その2
25 明王峠 その1 26 明王峠 その2
明王峠に着いた。ここにも人がたくさんいる。水分を補給し、トイレに行くが、当然水洗ではなく、男女別でもない。しかし、女性でも平気で利用しているようだ。
27 明王峠案内板
上の案内図は、上下を間違えたわけではない。右上の方位標識を見ればわかるように、神奈川県が立てたこの地図は、南が上になっているのである。理由はわからないが、地図は北を上にするのがルールである。手持ちの地図との照合がやりにくく、地図が頭に入っている人にとっても、地図を読むのが苦手な初心者にとっても誤解を生じやすい。慌てて逆方向に行って道に迷うおそれもあり、このやり方には賛成できないので、ここではあえて上下を逆にして掲載しておく。
28 明王峠 その3 29 奈良子峠
陣谷温泉を経て藤野駅に至る道を左に分ける奈良子峠を過ぎる。
30 陣馬山へ その1 31 都県境の石標
ここでも、東京側が広葉樹林、神奈川県側が暗い人工林という、左右が対照的な県境らしい道が続く。
32 陣馬山へ その2 33 藤野方面分岐点
栃谷尾根に続く道の分岐を過ぎると、右手に陣馬山らしき高まりと人の声が感じられた。
34 陣馬山へ その3
広い道の真ん中に建つ県境の石標が邪魔である。
35 陣馬山へ その4
森が明るくなって、いよいよ頂上が見えてきた。
36 陣馬山直下 37 陣馬山の茶屋 その1
13時ちょうど、ついに
陣馬山
山頂に着いた。
38 陣馬山から南、丹沢方面を望む
広々として実に気持ちがいい頂上である。天気も展望も申し分ない。陣馬山の象徴となっている白い馬のオブジェがある。
茶屋が3軒ある他、広い芝生やベンチがあり、宴会をしている人もいた。
39 陣馬山山頂の馬の像 40 陣馬山山頂の碑
ところで、後から写真と地図を整理していて気がついたのだが、写真39の馬の下の銘板と写真40の右の標識には、標高857mと書いてある。しかし、国土地理院の地形図と昭文社の登山用地図では、854.8mとなっているのである。GPSの時代に、2.2mもの違いは誤差として見逃すわけにはいかない違いである。昭文社は当然地形図を元にしているのだろう。
857mを採用しているのは、
Wikiの記載
と
藤野観光協会のHP
で、
八王子市の公式HP
と
相模原市観光協会のHP
は、
国土地理院の
855mを採用してい
る。神奈川県、東京都、相模原市のHPには標高の記載はない。
人が多く訪れる有名な山のわりには、2種類の標高が混在しているのも不思議な気がするが、ここは権威に逆らわないほうがいいだろうということで、標高は854.8mということにしておく。東日本大震災で、標高が変わっているかもしれないが。どちらにしても、県境の最高高度記録であることは間違いない。
それにしても、たった2mの差にこだわったり、お上の権威に弱かったり、われながら、男として、いや人間としての度量の狭さに恥じ入るばかりである。2mの差が日常生活にどれほど影響があるのかと問われれば、はっきり言って何も無い。ただ、すっきりしないだけである。
標高の他にも、「陣馬山」か「陣場山」か、「じんばやま」か「じんばさん」かなど、ナゾが多い山である。
41 陣馬山の茶屋 その2 42 陣馬山の茶屋 その3
ここからは、神奈川県最北端の山、生藤山がよく見えた。尾根は険しく見えて、意外と遠い感じがする。
43 陣馬山から県境の尾根と生藤山を望む
東京都が立てた案内地図はちゃんと北が上になっていたが、標高は857mとなっていた。
44 陣馬山山頂案内板
陣馬山の頂上には、立派な茶屋が営業しているが、水や電気はどうしているのだろうか。その答えは、山頂付近で見たキャタピラ付きのタンク車にあるようだ。写真に撮るのを忘れてしまったが、これで和田峠経由で燃料や水を運んでいるのではないかと推察された。実際に、和田峠への道はキャタピラ車が通れるよう、幅広になっており、キャタピラの跡もあった。
45 和田峠へ 46 和田峠
15分ほどで、和田峠に着いた。標高は690mなので一気に160m下ったことになる。時間は午後1時半を廻ったところだが、余裕をみて、ここで今日の県境縦断は終りにしよう。ここから東京都側の陣馬高原下のバス停までは、かなりの距離があるのだ。
47 林道完成記念碑 48 生藤山方面の県境に伸びる林道
念のため、次回のアプローチを見ておく。薄暗い林道だ。これではこの時間から突入する気にはならない。
49 和田峠から八王子方面を望む
50 最初の民家 51 石塔群
長い林道歩きの後、やっと里に出た。こちらは、武田軍の小田原侵攻により小仏峠の街道が一般的になる前の街道筋である。
52 陣馬高原下バス停付近
午後2時半、懐かしい里の雰囲気を残す
陣馬高原下バス停
に到着すると、運良くバスが待っていたので、飛び乗り高尾駅へ向かった。
今日の行程も、人が多く賑やかで楽しい奥高尾の尾根伝いであった。行き交う多くの人は、山歩きを楽しんでいるのであって、県境を意識しているわけではない。自分だけ違う目的で歩いているのも少しさみしい気がした。
歩きながら「知ってる? ここは延々と続く神奈川県と東京都の都県境なんだよっ。高そうなトレッキングシューズを履いて登山道の真ん中を歩いているあなたの左足は神奈川県で、右足は東京都を歩いているのっ!」と叫びたくなるが、実行したらすかさず携帯電話で警視庁山岳警備隊を呼ばれそうなので我慢した。歩く目的は人それぞれである。
さて、次回は奥高尾縦走路に別れを告げて、いよいよ神奈川県最北端の生藤山に迫ることになりそうだ。期待と不安に心が高まるのを抑えきれないが、これから梅雨の季節に入るので夏前に到達できるかどうか、微妙なところである。それにしても、次回のスタートは標高352mのここから690mの和田峠まで、350mを登り返さなければならないと思うと少し気が重くなった。
(本日の歩数:28404歩)
NEXT
◆
第23日目(2011年6月4日)和田峠 〜 上野原駅
PREV ◆
第21日目(2011年5月4日) 境川源流 〜小仏峠
ご意見・感想はこちらまで