海岸線をどこまでも 本州一周 (になるかもしれない旅)  現在鹿島灘を踏破中
 ◆第12+28日目(2011年1月8日) 鹿島セントラルホテル 〜 はまなす公園前駅


 今年はじめての「海岸線をどこまでも」シリーズは、鹿島セントラルホテルから始まる。ホテルといっても、この地区の中心となるバスターミナルである。東京駅から、1時間半のバスの旅だ。ホテルから、海に向かって歩き出す。

   

  1 鹿島セントラルホテルバスターミナル        2 鹿島セントラルホテル
   



  3 和田山緑地へ向かう道               4 和田山緑地 その1
   



 高圧線の下に延びる和田山緑地を北に向かう。踏切を渡ると、まだ利用されていない荒涼とした広大な土地が広がっている。

  5 和田山緑地 その2                6 未利用の埋立地
   

  7 神栖市東深芝付近の踏切山             8 踏切から鹿嶋方面へ伸びる線路
   

 北埠頭は、一番最後に開発された地区らしく、まだ何も無い。この日本の経済状況で、果たして進出する企業があるのか、心配になる。

  9 神栖市居切付近                  10 北埠頭コンテナターミナル入口
   

  11 神栖市居切付近の踏切              12 神栖市・鹿嶋市境界付近
   



  13  鹿嶋市泉川付近の踏切              14 踏切から神栖方面に伸びる線路
   

 もう一度踏切を渡って、今度は東方向に戻って行く。



 やっと、住友金属工業鹿島工場の西側に回りこんでくることが出来た。その西門の北側に、工場の敷地に喰い込むような目立たない公園がある。桜花公園である。

  15 住友金属工業鹿嶋工場西門             16 桜花公園碑文
   



 この公園については、多くを語らないでも、解説板を読んでいただければわかるだろう。

  17 桜花公園解説板                 18 桜花公園碑
   

  19 掩体壕解説板                  20 掩体壕
  

  21 桜花機体 その1                22 桜花機体 その2
   

  23 桜花解説板
   

 解説では、「有人ロケット爆弾です。」などと簡単に書いてあるが、このような兵器を作った旧日本軍は、現代の我々からみるとやはり狂気の沙汰としか思えない。おもちゃのような桜花の機体を見ていると、日本が勝てる要素はなかったのだということが実感できる。
 ここには、開発前の鹿島地方の地図もあった。ここは、当然ながら飛行場である。鹿島港のあるあたりには、北浦から流れだす川があったようだ。南端には、元の大きさの神之池もみえる。もちろん、鹿島灘は長大な砂浜として太平洋の荒波を受け止めていたようだ。

  24 開発前の鹿嶋地方  




 さらに北上すると、別の公園があった。住友金属工業が設置した、地元住民へのサービスと自社の宣伝を兼ねた公園らしい。

  25 桜公園                     26 野たたら復元模型
   

    27 野たたら解説板
   

 住友金属工業が来る前から、鹿島灘は鉄製品の産地であったようだ。

  28 野たたら                    29 ベル(溶鉱炉の上部)
   

 30 桜公園から見た住友金属工業鹿島工場        31 桜公園
   

 公園内には、製鉄所で使われていた設備がオブジェとして飾られている。

  32 第二東名神高速道路橋梁モデル          33 溶けた鉄を運ぶ鍋
   

  34 実験用溶鉱炉                  35 巨大なファン
   

  36 沖ノ鳥島用鉄製テトラポッド           37 H鋼整形ロール
   

  38 圧延工程で使われる歯車 その1         39 歯車その2
   



 右に入る緑道は、工場の横を通って高松緑地へ続く道である。

  40 高松緑地へ続く緑道 その1           41 緑道 その2
   

 高松緑地には、スポーツ施設があり、運営は鹿島アントラーズ関係の会社が指定管理者として担当しているようだ。

  42 高松緑地                    43 高松緑地の開発記念碑
   

 高松緑地の片隅には、写真43の大きな碑が建っていた。硬い長文だが、その碑文を次に掲げておいたので、興味のある方は読んでいただきたい。


 昭和30年代半ば、茨城県は岩上二郎知事主導の下、鹿島灘沿岸の広大な土地と霞ヶ浦、北浦の豊富な水に着目し、県土の均衡ある発展と後進県からの脱却を悲願に、巨大な掘込み式港湾と鉄鋼、石油化学を中心とした一大コンビナートの築造を柱とする鹿島臨海工業地帯建設の構想を打ち出した。交通網の立ち遅れから陸の孤島といわれた鹿島地方に、農商工会のもと「人間性の勝利」を獲得するという哲学がそこにあった。この構想は、大規模開発による戦後日本の発展を目指した全国総合開発計画と合致し、国家プロジェクト「鹿島開発」として推進されることになった。
 鹿島開発の成否を握ったのは、港湾・工業団地・住宅等の配置に必要な五千ヘクタールに及ぶ膨大な用地の取得であった。これには、計画区域の土地を提供する代わりに、その六割分の代替地を地域外に確保するという、四・六方式が考案された。そして、難しい土地取得を短期間に成し遂げ、鹿島開発を成功に導いたこの方式は、後に賛辞をもって鹿島方式と呼ばれるに至った。これを推進したのは、昭和三十七年、茨城県と地元鹿島・神栖・波崎の三町とで設立した鹿島臨海工業地帯開発組合であるが、夢としか映らなかった開発構想に対する大きな期待と著しい不安とで揺れ動く地元住民との交渉は、文字どおり困難を極めた。
 しかし、多くの住民は未来への夢と希望を鹿島開発に託し、住み慣れた先祖伝来の土地あるいは開拓農民として築いてきた土地を提供し、移転していった。
 昭和四十四年、開発に携わった全ての関係者の夢とともに鹿島港が開港し、住友金属工業が操業を開始した。鹿島三町の住民は、鹿島開発という未曽有の荒波の中で翻弄されたが、用地提供者に対しては、鹿島開発用地提供者生活安定対策事業団が各町に設立され、生活面を支援する事業が展開された。
 鹿島開発は、その後の石油ショック等によるわが国経済の減速から、当初計画どおりの都市建設に至らない曲折を経たが、二十世紀最後の巨大開発にふさわしい成果を収め、全国有数の工業製品出荷額を誇って今日に至っている。鹿島開発組合も昭和五十九年に解散し、鹿島町も大野村との合併により、平成七年に鹿嶋市として市制を施行し、さらに平成十四年には世界を感動させたサッカーワールドカップがカシマサッカースタジアムにおいて開催されたのである。
 ここに鹿島開発用地提供者生活安定対策鹿嶋市事業団の解散に当たり、記念之碑を建立し、鹿島開発の歴史を歩んだ多くの先人の労苦を偲ぶとともに、開発の偉業を永く後世に伝えるものである。


 他でも同じような記載をみたが、茨城県や鹿島地区の人達が本当に貧しかったのかどうかはわからない。しかし、碑文からは、高度成長の波に乗って豊かになりたいという、エネルギーのようなものを感じる。当時の日本人はみなそうだったのだろう。ちょうど今の中国がそうであるように。
 その後、日本は公害や自然破壊などの犠牲を払いながらも、豊かになり先進国の仲間入りを果たし、バブルの絶頂期をピークに今、緩やかに衰退の時代を迎えている。この先、鹿島工業地帯が飛躍的に発展することはないだろうが、何とかこの日本を少しでも長く支えていってもらいたいものである。



 交差点の向こうには、鹿島アントラーズのクラブハウスがあった。

  44 鹿島アントラーズクラブハウス その1      45 鹿島アントラーズクラブハウス その2
   

 練習場の片隅に忘れられたスパイクが残っていた。泥にまみれたそのシューズにはどんなドラマが秘められているのだろうか。華やかなゲームで活躍する選手の姿か、それとも才能が花開かずに下積みで終わった選手のそれだろうか。

  46 鹿島アントラーズ練習場             47 置き忘れられたスパイク
   

  48 住友金属鹿島火力発電所             49 平井浜緑地
   

 火力発電所前の交差点を左折して、北上する。元々の陸地と埋立地との間には、水路と緑地帯がある。緑地帯の中には遊歩道があったらしいのだが、写真49のとおり、雑草に覆われ不法投棄の現場になって荒れ果てていた。
 ここは、平井という地名だが、テトラポッドが写っている写真50の様に、海岸線の名残が残っている。これより西側は、埋立地とは全く違う写真51のような集落になっていて、対照的だ。

  50 平井浜跡                    51 平井集落
   

 蛸壺らしきものが無造作に置いてあるなど、漁村の雰囲気も残っている。

  52 蛸壺?                       53 平井児童公園
   

  54 子鹿幼稚園                   55 埋立地から鹿島灘へ
   

 そして、いよいよ海の雰囲気が漂ってきた。



 ついに、海岸に出た。日川浜以来の自然海岸である。

  56 平井海岸 その1                57 平井海岸 その2
   

 やはり砂浜を歩くのは気持ちがいいものだ。

  58 平井海岸 その3                59 平井海岸地 その4
   

  60 平井海岸 その5                 61 平井海岸 その6
   

 鹿島港の北側の鹿島灘も、やはり浸食傾向にあるようで、コンクリートの突堤が等間隔に突き出ている。

  62 下津海岸 その1                63 下津海岸 その2
   

 砂浜から鹿島臨海工業地帯を振り返ると、風車と煙突が並ぶ要塞のような威容がシルエットになって浮かんでいた。

 64 下津海岸から鹿島工業地帯を振り返る


 写真66の地点では、ついに砂浜が消失してしまっていた。九十九里浜では度々見かけたが、鹿島灘に来てからは、これほど深刻なのは初めてである。

  65 防砂柵                     66 消失した砂浜
   



 67 防砂柵と砂丘                   68 小宮作海岸
   

 淋しげな海沿いの集落が、なんとも哀愁のある味を出している。

  69 明石海岸の鳥居                 70 明石集落その1
   

 サーファーも少なく、人が殆どいない海岸線をどこまでも歩いていく。

 71 明石集落 その2                 72 明石海岸
   



  73 シーズンオフの海の家              74 海岸の廃屋
   



 75 小山海岸(鹿嶋市)


 角折地区に入る。

  76 角折海岸 その1                77 角折海岸 その2
   

 鉄道はかなり内陸部を走っているようで、列車の音も車の音もしない海岸線に響くのは、波の音だけである。

 78 角折海岸 その3                 79 角折海岸 その4
   



 太陽の高度はだいぶ低くなり、自分の影が砂浜に長く延びる。

 80 長く伸びる影                   81 銅像がある突堤
   

 海に突き出たところに銅像のようなものがあるのを発見した。偉い人の像でも建っているのだろうか。

  82 銅像への道                   83 突堤から南を望む
   

 さっそく行ってみると、それは「はまなすの精」という女性の像であった。

  84 突堤から北を望む                85 はまなすの精
   

 突堤に打ち寄せる波浪のエネルギーは、この施設を設計した人の予想をはるかに上回っていたようで、像の周囲にめぐらされたアルミフェンスは、そのほとんどが写真86のように、根元から根こそぎ折れていた。そのため、せっかくの像を立ち入り禁止にしているのだが、そのフェンスまで写真87のとおり波の力で破壊されている。まあ、私のような素人でもアルミでは無理だろうと思う。

 86 壊れたアルミフェンス その1           87 壊れたアルミフェンス その2
   

 この突堤のすぐ北側で釣りをしている人がいた。と言っても、九十九里浜でも見られたように網を使っているようなので、バケツの中を見たら、やはりカニ漁であった。ヒラツメガニという種類のようだ。味噌汁に入れると美味しそうである。

 88 釣り                       89 88の釣果
   

 さて、日暮れまであまり時間が無くなったので、海岸を引き上げて西に向かう。はまなす公園の展望台がみえるが、今日は寄っていく時間はなさそうだ。

  90 はまなす公民館                 91 はまなす公園宇宙展望台
   

 駅に着いた。写真93のとおり駅名は長いので省略する。読み仮名が22文字あり、南阿蘇水の生まれる里白水高原駅と並んで日本一長い駅名だそうである。しかし、正式文字数で負けているらしい。

  92 長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅          93 駅標識
   

 駅名は長いが、列車のダイヤの間隔も長いので、寒い中で鹿島神宮駅行きの列車を30分以上待つ。ちなみに駅には他の乗客は一人もいない。
 やがて、北からやってきた赤いディーゼルカーに乗り込んで鹿島神宮駅についた。

  94 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線列車           95 鹿島神宮駅
   

 ここからの、佐原行きの電車も30分以上待つようだ。これでは時間がかかりすぎるので、東京行きの高速バスに乗ることにした。料金を払ってバスに乗ると、次の人が「10分後に出るバスとどちらが早く東京駅に着くか」を運転手に聞いた。なんと、後発のバスは40分も早く東京駅に着くらしい。慌てて降りようとすると、料金は払い戻せないという。「途中下車はないのだから、先に言えよっ!!!」と思ったが、もめても仕方が無いので仕方なくこのバスにのる。工業地帯を回って、鹿島セントラルホテルから東京駅に向かうので時間がかかるようだ。
 首都高速は渋滞しており、東海道線も遅れが出たので、自宅まで5時間近くかかってしまった。今日はついていないようだが、まあ、帰りでよかった。

   

 今日は、鹿島港と鹿島工業地帯を後に、再び鹿島灘海岸の自然の砂浜に戻ることができた。
 しかし、鹿島灘は遠い。このまま北に行くに従ってますます遠くなるが、どうしたものだろうか。

 (本日の歩数:39329歩)

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