新河岸川探訪

 川越から江戸まで、水運のために開かれ、明治時代に鉄道が開通するまで繁栄した半人工河川。現在は、直線化され隅田川に注ぐ。
◆第4日目 2010年12月25日  新琵琶橋 〜 霞川

 諸事情により、思いの外、調査が長期間に渡った新河岸川だが、いよいよ終盤に差し掛かってきた。前回で、明治時代までの水運が盛んだった新河岸川はほぼ踏破した。今日は、いよいよ、その後の改修により川越市街地を流れるようになった現在の新河岸川の源流にアプローチできるだろう。川越駅に着いたときは、そう楽観視していた。
 しかし、最後に待っていた
思いがけない衝撃の結末とは.....





  1 川越駅                      2 龍池弁財天
    

 川越駅から新琵琶橋をめざす。途中にあった池は、龍池弁財天であった。おそらく新河岸川の源流の一つになっているのだろう。周辺には住宅が立ち並んでいるが、ここだけは時が止まっていた。

  3 龍池弁財天解説板                 4 龍池弁財天の湧水池
  

 新琵琶橋から先が、新河岸川の未調査部分だ。川の水量は季節もあるのだろうが、だいぶ少ない。地図によると、川は、これから市街地を取り囲んで半周するように流れている。

  5 新琵琶橋                     6 新琵琶橋から上流を望む
   



 右岸にある立派な建物は福祉センターだ。

  7 川越市総合福祉センター              8 杉下橋から上流を望む
   

 杉下橋の先で右岸の道が途切れる。ここからは、迂回して川越城内を歩く。

  9 三芳野神社                    10 川越城本丸御殿
   

 川越城址である。戦国時代は河越城といったらしい。関東地方を支配していた上杉持朝という武将が、江戸城と共に家来の太田道灌に作らせた名城である。ところが、上杉家は関東を支配する名門ではあるのだが、山内上杉家と扇谷上杉家が親戚同士で争いばかりしており、才能を妬まれた太田道灌は、主君に暗殺されてしまう。太田道灌の墓といえば、渋田川を探索中に出会ったのが懐かしい。
 この仲間割れにつけこんだのが、当時、売り出し中の新興勢力、小田原北条氏である。両上杉家は、ここ河越で連合して北条軍と戦うが、8万の大軍にもかかわらず、負けてしまう。これが、有名な河越夜戦である。まあ、内輪揉めばかりして、挙句の果てに有能な部下を殺してしまうようでは、負けて当然であろう。
 その結果、南関東の大部分は北条氏が支配することになり、上杉家は滅びかけるが、それを助けて、家督と関東管領職を継いだのが越後の長尾景虎、つまりあの上杉謙信である。その後、小田原北条、越後上杉、甲斐武田は、関東の覇権をめぐって三つどもえの死闘を繰り広げるのである。
 話がそれたが、要するに、関東諸国を治めるためには、ここ河越がいかに重要な拠点かということであって、江戸幕府も、この川越を重要視することになる。新河岸川はその江戸と川越を結ぶ大動脈だったのである。
 その栄華を今に残した川越城の御殿は、残念ながら修理中であった。

  11 川越美術館・博物館               12 新城下橋から上流を望む
   

 新城下橋から川沿いの道に復帰する。

  13 城下橋から上流を望む              14 宮下橋から上流を望む
   

 このあたりの新河岸川は、城下町にふさわしい、歴史を感じさせる佇まいでゆったりと流れている。

  15 河畔の桜並木 その1             16 旧上尾街道解説板
  

  17 旧上尾街道                   18 氷川橋から上流を望む
   



 19 河畔の桜並木

 現代の河岸とも言うべき舟着場があった。現在は、観光イベントとしてお客さんを乗せているらしい。昔は、ここは新河岸川と繋がっていないはずなので、時代考証をすると合わない気もするが、まあ、雰囲気的にはOKだろう。
 では、この川は昔は何と呼ばれていたのか。それとも新たに開削したのだろうか。その謎を解く鍵は、すぐ上流に架かっている古い橋にあった。古い堰と一緒になっている田谷橋である。

  20 田谷堰と舟着場                 21 田谷堰と田谷橋
   

 昭和13年に架けられたこの橋の銘板には、写真22のとおり、新赤間川とある。Wikiによると、赤間川は、元々この田谷橋付近から東に流れて、あの伊佐沼に流れ込んでいたらしい。大正から昭和初期にかけて改修が行われ、新河岸川と継ったので、新赤間川と名付けられたのではないだろうか。当時、新河岸川は、伊佐沼から流れる現在の九十川とその下流の事を指していたと考えられる。
 ということは、田谷橋から仙波河岸までの風情あふれる川は、見た目によらずそんなに歴史があるものではない事がわかる。

  22 田谷橋の新赤間川銘板              23 田谷橋から下流を望む
   

 さすがに川越である。写真24のように川を愛する人がいるようだ。

  24 川を掃除する人                 25 道灌橋
   

 あの太田道灌の名前がついた橋があった。

  26 道灌橋から上流を望む              27 東明寺橋
   

 東明寺橋から上流は、写真のように河床のすぐ上を歩く歩道が整備されている。

  28 東明寺橋から下流を望む             29 河畔の歩道 その1
   



  30 河畔の歩道 その2               31 濯紫(たくし)公園付近
   

 由緒がありそうな雰囲気の場所に着いた。大老になる前に川越藩主でもあった、あの柳沢吉保の別荘があったそうだ。

  32 濯紫公園解説板                 33 上流から濯紫公園を振り返る
  

 歴史ある町並みの中を、川は流れていく。

  34 石原橋                     35 石原橋上
   

  36 石原橋から上流を望む              37 赤間川公園の橋から下流を望む
   

 赤間川公園についた。もう完全に赤間川の名前のほうが、とおりが良いようだ。

  38 赤間川公園の橋から上流を望む          39 黄金橋から上流を望む
   



 市街地の西側にさしかかった。まだ風情がある。川の柵などにも気を使っているようだ。

  40 川越市月吉町付近 その1            41 川越月吉町付近 その2
   

  42 三日月橋                    43 三日月橋から下流を望む
   

 三日月橋の陸橋の新しい標識は、赤間川ではなく新河岸川の名称が使われていた。

  44 三日月橋から上流を望む             45 東武東上線鉄橋
   

  46 観音寺橋から上流を望む             47 川越線鉄橋
   



 東武東上線と川越線の2本の鉄路を過ぎると、周りの風景は市街地から田園地帯に変わってきた。Wikiによると、新河岸川の起点は、この八幡橋だという。これより上流は赤間川なのか。よくわからないが、写真48のとおり、川はまだ上流に伸びているので、さらに遡っていく。

  48 八幡橋から上流を望む              49 川越市上野田町付近
   

  50 石橋供養塔                   51 川越市寿町付近 その1
   

 大きな交差点の横に、石橋供養塔という古そうな石塔が建っていた。江戸時代は、石橋に付随してよく造られたらしく、昔の人が橋を大切にしていた事がわかる。生活に欠かせない大切なインフラだったのだろう。
 寿団地を過ぎると、環境は完全に田園地帯になる。新河岸川は、もう農業用水路と変わらない姿で、水量も多くないが、流れはしっかりしていて、まだ上流に続いている。
 今までいくつかの川の分岐点を過ぎてきたが、その都度水量の多いほうの川を遡ってきた。本当にこれが新河岸川上流、つまり赤間川なのか、確信が持てない。

  52 川越市寿町付近 その2             53 尚美学園大付近
   

 下の地図には、赤間川の表記があるが、実はこの日は詳細な地形図を持っていなかったのである。



  54 川越市豊田町付近 その1            55 川越市豊田町付近 その2
   

 写真56の合流地点はどちらに行くか少し迷ったが、水量の多い右側を選択した。

  56 川越市豊田町付近 その3            57 川越市豊田町付近 その4
   

  58 豊田新田付近                  59 関越道(赤間川避溢橋)
   

 田圃の中を流れる川は、関越道にぶつかった。ここで赤間川避溢橋の標識があり、本流であることが分かって一安心した。

  60 関越道の下を流れる新河岸川(赤間川)       61 豊田橋から上流を望む
   

 下の地図を見ると、水路が複雑に何本も流れている。よくここまで迷わなかったものだ。



  62 川越南高校付近 その1             63 川越南高校付近 その2
   

 高校の横を流れる、写真63の合流地点では川幅が同じくらいなので迷った。結局、ここでも水量の多そうな右側を選択する。

  64 西武安比奈線 その1              65 西武安比奈線 その2
   

 川沿いの道がないので、一般道を歩いていると廃線跡に遭遇した。ネットで検索してみると、西武安比奈線というらしい。道路の両側に続く線路はもう撤去されており、事実上の廃線だと思われるが、西武鉄道は、車両基地を作る計画を捨てていないようだ。

  66 川越市大袋新田付近               67 県道川越越生線から上流を望む
   

 川は県道川越越生線を暗渠で越えて、台地と田圃の間を流れるようになる。道はないので、畦道を歩く。眺めはいいが、なんとなく不安である。その理由は現在地がわからないからである。詳細な地図がなく、水路も複雑なので、もうどこを歩いているのか、どの流れを遡っているのか、さっぱりわからない。
 後でHP用に地図にプロットする必要があるので、こういう場合は、参考になるものをとにかくたくさんデジカメで撮っておく。例えば、バス停、寺社、住居表示、住所入りの表札、学校などのランドマーク的な建物、などである。

  68 川越市かし野台1丁目付近            69 川越市藤倉付近
   

 この時はわからなかったが、後で記録を検証してみると、写真70の時に狭山市に入っていたようである。源流は川越市内だと考えていたので、完全に想定外である。用水路のようになってからも、なぜか延々と続いている。一体どこまで行くのだろうか。

  70 市境の橋から上流の狭山市側を望む        71 狭山市下奥富付近 その1
   



 上の地図では、73地点と74地点の間には青い線の表示がなく、川が途切れているように見えるが、実際はつながっている。

  72 西武学園文理小                 73 狭山市下奥富付近 その2
   

 とんがり屋根の学校を過ぎると、道の看板に新狭山駅という文字が出ていた。そういえばなんとなく人通りが多くなったような感じである。

  74 狭山市上奥富付近                75 赤間川通り標識
   

 畑の中を流れる川に沿う道路に、写真75の「赤間川通り」の標識を見つける。嬉しい。川筋は間違っていなかったかとホッとした。
 高速道路のような道を過ぎる。地下を流れているのか、川の構造が腑に落ちないがまあよしとしよう。
 そして、写真77の支流合流地点を見つけた。横から流れ込む川のほうが水量が多いようだ。その上流ではほとんど水が流れていない。主要な水源はこの右岸に流れ込む川といえないこともない。
 この支流は国土地理院の地図に載っていないので、こちらの地図を見ていただいたほうが分かりやすいだろう。

  76 狭山環状道路から上流を望む           77 瑞光寺前の支流合流
   



 川が国道16号線を横切ると、写真78のような広い田んぼの真中を一直線に流れる川、というよりも用水路といったほうが良い光景が広がっていた。正面に夕日が傾きかけている。水量は少ないがまだ干上がってはいない。この時、不安が現実になってきたことを自覚した。現在位置も最寄りの駅もわからず、このまま源流に行き着くことができずに日が暮れたらと思うと、自然と早足になってしまう。今日はもう相当の距離を歩いているはずで、リハビリ中の身に無限の体力などあろうはずもない。
 この時の心境を例えれば、子供の頃に、一人で遠出して家に戻れずに、日が暮れそうになってしまった、あの心細い感覚に似ている。

  78 狭山市狭山付近                 79 石橋供養塔
   

  80 狭山市入間川3丁目付近 その1         81 狭山市入間川3丁目付近 その2
   

 サティがあったので、なんとなくホッとする。しかし、駅が近いとは限らない。
 住宅地を抜けると、写真82の水門があった。上流側の正面からは、豊富な水がどんどん流れているが、こちら側の水門は閉まっているようで、水は左岸側から分岐した水路に流れ込んでいる。方向から見て、多分、入間川に流れていくのだろう。こちらの赤間川の水量が少なかったのは、この水門が閉じられていたせいだ。これは、まさにこの赤間川上流が農業用水として使われていることを示している。
 しかし、わずかとはいえ水が流れていないわけではない。このまま、さらに遡って源流を突き止めるしかない。しかし、水量が減って源流間近かと期待したのに、又水量が増えてしまった。今日中に水源まで行くのは諦めたほうが良いかもしれない。

  82 狭山市入間川4丁目付近の水門          83 狭山市 鵜ノ木付近
   



 さらにこの水路を突き詰めていくと、突然写真84のように暗渠になって、川の土手に出た。入間川かと思ったが、どうも違うようだ。後にこの川が霞川という名であったことを知る。
 少し上流には堰があり、写真86のとおり、取水施設がある。この施設は、今までの流れに比べて取水量が少なく、位置的にも少しおかしい気がするが、入間第二用水と書いてあるので、ここが赤間川源流の取水口だろう。ここから、農業用水として取水されている流れが新河岸川すなわち赤間川源流の正体だったのである。

  84 暗渠                      85 霞川右岸
   

  86 入間第二用水土地改良区取水施設         87 霞川左岸から取水施設を望む
   

 夕日に照らされた霞川は哀愁を漂わせているが、グズグズしていると真っ暗になってしまう。橋の上で駅への行き方を尋ねると、それほど遠くないようだ。

 88 万年橋から霞川上流を望む


  89 入間市駅
      

 何とか入間市駅にたどり着いた。



 
それにしても、新河岸川、そしてその上流である赤間川の源流探索は、予想よりもずっと長く困難であったが、意外な形で幕を閉じたのである.....と、この時は思っていた。
 家に帰って、今日のルートを確認する。源流が入間市とは、ずいぶん遠くに来てしまったものだと地図を見ると、そこには、衝撃の事実が隠されていた。
 下の地図をもう一度見てほしい。赤間川の青いラインは、何と霞川を横切っているのだ。ショックである。だいたい、水路が霞川を横断していないことは、現地でこの目で確かめているのだ。



 このような大失敗をしてしまった原因には、複数の要因がある。まず、詳細な地図を用意しなかったこと、偶然にも現地に堰と取水口があったこと、暗くなりかけていたこと、そして何よりも季節は冬、時間的、体力的に限界で、不自然な点を確かめようとせずに、とにかく、ここで終りにしたい、早く帰りたいという心理が強く働いたことが挙げられるだろう。
 自業自得である。これは、もう一回、追加調査をする必要があるだろう。こんどこそ、赤間川の最初の一滴を突き止めなければ、この旅は終わらない。

 (本日の歩数:38877歩)

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