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多 摩 川 探 訪
山梨県と埼玉県の県境、奥秩父の山中から流れ出て、奥多摩湖を経て、多摩地区を流れ、神奈川県と東京都の境界を下り、羽田と川崎の埋め立て地で東京湾に注ぐ大河 |
◆第3+2日目 (2009年9月14日) 多摩大橋(東京都昭島市)〜青梅駅
本日の踏破区間(赤線)
本日の天気図 (日本気象協会 tenki.jp)
八高線の小宮駅を降りる。天気は晴れ。まだ9月の中旬なので、暑くなりそうだ。今日は、多摩大橋を出発点に、中流域を遡ることになる。
1 小宮駅
2 多摩大橋から上流を望む
多摩大橋の両岸は緑の河川敷だが、下水処理場も両岸にある。今までいったいいくつの処理場があったか思い出せないが、それだけたくさんの人が住んでいるということでもある。おそらく何百万人という数だろう。下水道ができる前はそのまま流れ込んでいたのだから、多摩川がどれだけ汚かったのか、想像するのも恐ろしい。ここは、下水道のおかげで、子供が泳いだり、鮎が上ってくるようになったことを喜ぶべきだろう。
3 多摩大橋
4 多摩川上流水再生センター処理水排水路
くじら運動公園を歩く。この名称の由来は、後ほど明らかになる。
やがて鉄橋が見えてきた。河川敷に降りてみると岸に砂岩のような茶色の一枚岩が広がっている。
5 八高線多摩川鉄橋 6 鉄橋下から上流を望む
鉄橋は、橋脚が水流で浚われないよう、周りをコンクリートブロックで固められていた。その隙間に水が流れ込むため、写真8のように対岸に渡ることができた。
下流側は、写真7のように岩を掘り抜いたような流路ができている。
7 鉄橋下から下流を望む 8 鉄橋下のコンクリートブロック
左岸に戻ると公園の一角に2つの解説板が立っていた。一つが写真9の公園の名前の由来となったエピソードである。160万年前のクジラだそうだ。この岩は、海の底だったのである。このクジラの化石が出た地点の近くからは、写真10の鉄製の車輪が発見されている。もう一つの解説板はこの事故に関するものだ。
9 クジラ化石の説明板 10 車輪の展示
この車輪は堤防の上に展示してある。解説板から、戦争直後の混乱した時代の悲劇によるものであることがわかった。車輪の前にある枯れた花束は、おそらく8月24日に誰かが供えたものだろう。
11 列車事故解説板
それから、63年後の今、世の中は平和になり、悲劇があった川にも美しい公園ができて、写真12のとおり、子供たちの歓声が響いている。この子たちの祖父母でさえ、この事件を直接体験していない世代であろう。
12 クジラ公園の子供たち 13 日野用水堰
河畔には、まだ、快適な道路が続いているが、植物が繁茂している河川敷が広くて川面は見えない。
14 河川敷の生態保全地区 15 昭島市昭和町付近
いつしか、道は自転車から歩行者向けになっていた。この自然豊かな道は、拝島橋の下を潜るが、いつものとおり、河畔の道をそれていったん橋の上に出る。
16 河川敷の歩道 17 拝島橋からみる下流の淵
やや緑色の水は、写真17のように割合透明度が高い。
18 拝島橋から下流を望む 19 橋上の水質自動観測所
この橋から見る景色は写真のとおり、緑豊かな大地と相まってなかなか雄大である。多摩丘陵の奥には、この川の水源となるであろう高い山々の姿も見える。
20 拝島橋から上流を望む
橋の上からは、例の堆積岩の河床の浸食がよく見えてなかなか美しい。両河岸も緑にあふれている。
21 拝島橋からみる上流の河床 22 拝島橋
多摩川にあるたいていの大きな橋がそうであるように、ここも昔、渡しがあったところで、橋の袂に、写真23のとおり、その跡が記されている。
拝島橋の上流の道は、桜並木になっていて雰囲気がいい。こんな道だと、どこまでも歩けるような気がして気分爽快である。少し暑いことを除けば。
23 拝島渡し跡の解説板 24 昭島市拝島町付近の桜並木
25 拝島水道橋 26 昭和用水堰
27 拝島町都営アパート付近 28 水神様
カラフルな水道橋、取水堰から水神様まで、水にまつわる今昔の施設が点在する道を遡る。景色は最高だが、気温が高く、時々休憩して水分を補給しながらの歩きとなる。
玉川上水から流れてくる水路を渡ると、看板が立っていた。昭島市から福生市に入ったのである。そこは、広く、美しい公園になっていた。
29 福生南公園 その1 30 福生南公園 その2
31 福生南公園 その3
青く広い空に、時計台が映える。
32 福生南公園 その4 33 福生南公園からみた睦橋
公園を過ぎると睦橋だが、この橋は珍しく平凡な構造で、名前もなんだか地味である。この下流で、多摩川は秋川と合流しているが、合流地点は遠くて見えないようだ。
34 睦橋から下流を望む 35 睦橋から上流を望む
36 福生団地付近の河畔の道 37 五日市線鉄橋
JR五日市線の鉄橋の手前にちょうど50kmのポストがあった。道は相変わらずのんびりとした雰囲気。平日だからか、自転車も少ない。
38 多摩川中央公園 その1 39 多摩川中央公園 その2
40 多摩川中央公園 その3 41 多摩川中央公園 その4
多摩中央公園に着き、ベンチでコンビニおにぎりを食べる。
42 多摩川中央公園内の碑 43 多摩川中央公園 その5
ここに、写真42のような渡し跡の碑らしいものが複数あったが、なぜか名称が食い違っている。牛浜渡津跡か石濱渡津跡かいったいどちらなのか。その混乱の理由はここに詳しい。要するに、牛浜が現存の地名で、石浜は歴史上の地名ということらしい。
44 多摩川中央公園のトイレ 45 多摩橋から下流を望む
この公園のトイレは、写真44のとおりなかなか立派である。左側にはなぜかトイレの出口で寝ている人が....
46 多摩橋から上流を望む 47 福生市北田園付近から対岸を望む
多摩橋を過ぎると、河川敷はまた自然に戻り、前方に森が見えてきた。柳山公園である。こちらは、人工的な多摩中央公園と違って、森が深い。
48 柳山公園の森を望む 49 柳山公園 その1
50 柳山公園 その2 51 永田橋
永田橋につく。この橋は工事中で、上流側に新しい橋脚が建っていた。
52 永田橋から下流を望む 53 かに坂公園
静かな広い芝生のかに坂公園を過ぎると、鮎釣り場があった。このあたりになると、釣り人が多くなってくる。友釣り用のオトリ鮎も売っている。縄張りを持つ鮎がオトリを攻撃してきたところを引っ掛けるこの漁法は、このご時世にあまり評判がよくないようだ。たしかに、生まれ変わっても、オトリ鮎だけにはなりたくないと思う。
さらに行くと、前方に高い橋が見えてくる。羽村大橋である。このあたりで、福生市から羽村市内に入る。
54 秋川漁協福生支部の釣り場テント 55 羽村大橋を望む
この橋は、右岸側の台地上に直接アクセスしているため、非常に高さがある。こちら側の河岸から橋の上まではかなり高い階段を登っていく。そのため、橋から見る景色は写真56,57のとおりすばらしい。かなり遠くまで見通せる。
56 羽村大橋から下流を望む
57 羽村大橋から上流を望む
58 羽村大橋から上流右岸を望む 59 羽村堰下橋から下流を望む
羽村堰下橋付近は流れも穏やかで広い河川敷が広がっている。写真61のように、川に足をつけながらくつろいでいるグループがいた。楽しそうである。
60 羽村堰下橋から上流を望む 61 羽村堰の下流でくつろぐ若者
羽村堰は、玉川上水の取水口となっている多摩川でも一番有名な堰で、現在も水源として非常に重要な役割を果たしている。その玉川上水の難工事を請け負い、見事完成させたのが、写真62の玉川兄弟だ。
62 玉川兄弟像 63 筏通し場解説板
64 羽村堰取水口付近 65 羽村堰 第1水門
玉川上水は、写真64の堰の上流側で取水し、写真65の奥の水門から導水されている。写真65の手前左側にある小吐水門からは余剰水が放流されている。その放流水は写真64の右側に写っている白い水流である。
66 第2水門 67 玉川上水
第1水門で取水された水は、写真66の第2水門を通って、写真67の玉川上水に流れ出していくのだ。この堰が果たす役割は、言葉で説明すると複雑なので、写真68を見ていただいた方が理解が早いだろう。羽村堰と小作堰、狭山湖、多摩湖、利根川、そしていくつかの浄水場の関係はなかなか複雑であるが、江戸時代に作られた羽村堰や玉川上水が現在も現役で都民の水道水源として重要な役割を果たしているのを見ると感動を覚える。
数年前に撮影した狭山湖の写真があったので、興味のある方はこちら。
68 羽村堰、玉川上水と水道水源の関係
69 東京都水道局羽村取水場 70 水神宮
71 羽村陣屋跡 72 陣屋門
陣屋は、都の水道局の事務所に変わっているが、役割は今も昔も同じである。水神宮はその歴史の移り変わりをずっと見守ってきたのである。
この文化遺産ともいえる羽村堰を後に、水上公園通りと名付けられた川沿いの道をいく。この道は昔の奥多摩街道だそうだ。
73 水上公園通り 74 上流側の水上公園通りから見た羽村堰
この羽村を含めた三多摩地区は昔から首都圏の水源地帯であったが、明治時代の一時期には、神奈川県であったことは知る人ぞ知る事実である。ちなみに三多摩とは、西、南、北の各多摩郡であり、東多摩郡であった中野区や杉並区を除いた多摩地区のこと、すなわち23区と島嶼部を除く東京都のことである。
強引に東京都に移管された経過はこのあたりに詳しいが、表向きは、コレラの発生などの問題に対応するために、帝都の水源である多摩川や玉川上水を東京府の管理下に置くという理由だったようだ。しかし政府が多摩地区で盛んだった自由民権運動を封じ込めようとしたいう説もあるらしい。
というわけで、昔は神奈川県だったこのあたりをうろうろすることは、このサイトの趣旨にも合致するということになる。
75 桜づつみ公園から見た対岸 76 羽村市浄水場
川沿いに、美術館かラブホテルと間違えそうな建物があるが、なんと羽村市浄水場である。こんな立派な堰がありながら、羽村市自身の水道は、上流で別に作っているというのがおもしろい。
やがて堤防上の舗装路が途切れ、鳥居が出現した。阿蘇神社の入り口らしいが、神社は見えず、その奥に未舗装の道が続いている。空が少し曇ってきた。
77 桜づつみ公園 78 阿蘇神社参道入り口
薄暗い森の中に、不気味な石塔が並んでいる。解説文に書かれていた文章は次のようなものであった。
「この辺り一帯は、山王様または山王森と呼ばれ、大樹が茂り草深いやぶでした。左右の五輪塔は、砂岩製で江戸初期に作られたものと思われ、応永31年(1424年)に一峰院を開いた三田雅楽之助平将定等の墓といわれています。墓所の中央にある宝篋印塔は江戸中期の様式を残していますが、昭和の初期にここへ移されたようで、塔身や基部は近年補修されています。一峰院の縁起によれば、将定は法名を三汲道正居士といい、中世に青梅地方を支配した豪族三田氏の一門で、羽村に関係深い武将であったようです。左端の八幡祠は将定の霊を祭ったものといわれ、右端の石塔は一種の水神と考えられます。」
79 伝三田雅楽之助平将定等の墓 80 山王森
薄暗く不気味な森を抜けると、写真81のように、用水路を渡った。羽用水である。江戸時代とあまり変わらないであろう、何とも懐かしい風情の用水路脇の道を歩く。
81 羽用水を渡る 82 羽用水
83 阿蘇神社への小径 84 阿蘇神社
時代劇に出てくるような小径の突き当たりが、阿蘇神社である。写真78の鳥居からは結構な距離がある。この神社はいかにも古そうな佇まいで、写真85の縁起によると601年創建とつたえられているらしい。本当なら飛鳥時代にあたり、非常に古い神社といえるだろう。平将門、小田原北条氏、徳川家康、家光と、関東のこの地を支配した歴代のそうそうたるメンバーが関係しているらしい。
85 阿蘇神社由来解説板
阿蘇神社の先からは、川沿いの道はなくなり、地図と勘を頼りに一般道を歩くことになる。写真86のような、美しい門の住宅があったりする。
86 羽村市羽加美付近の住宅 87 河岸崖の竹藪
しばらく行くと、小作取水堰が見えてきた。羽村堰に勝るとも劣らない、なかなか立派な堰だ。規模的には、むしろダムに近いかもしれない。
88 下流から見る小作取水堰 89 沈砂池
90 小作堰管理橋から下流の羽用水取水口を望む 91 小作堰管理橋から下流を望む
92 小作取水堰解説版
堰の上は橋になっており、対岸に渡る。
93 小作堰管理橋から上流を望む 94 小作堰管理橋
右岸の一般道をしばらく歩くと、多摩川橋である。小作堰からは、アーチ橋に見えたが、実際はその上流にアーチ橋があった。
95 多摩川橋から下流を望む 96 多摩川橋から上流を望む
隣にあるアーチ橋が、水管の上に歩道がついた友田水管橋である。歩行者専用だが、手すりが低くて少し怖い気がする。みんな多摩川橋を渡っており、こちらは誰も歩いていない。
97 友田水管橋 98 友田水管橋から下流を望む
水管橋の先には、奇妙な西部劇風の施設があったが、個人の家なのか、何らかの施設なのかよくわからなかった。
99 友田水管橋から上流を望む 100 水管橋近くのファーム?
宮前通りという道を少し行くと、緑の丘のふもとに松本神社という古社があった。鎌倉時代の創建で、珍しい板葺きの本殿は江戸時代のものだそうだ。そして、新興住宅地を抜けると、丘を貫通する高速道路に突き当たる。ここからは、青梅市に入る。
101 松本神社 102 首都圏中央連絡自動車道
ここから、河川敷に降りていく。
103 青梅市民球技場 104 上流から見た圏央道
ここは、流れが豪快で、ちょうどよい釣り場になっているようだ。
105 球技場前の多摩川 その1 106 球技場前の多摩川 その2
またもや河畔の道が途切れたので、地図を片手に写真107のような一般道を行く。左側が突然の崖になっている場所があるはずだが、歩いている分には普通の住宅街だ。
そして、下奥多摩橋に着くが、近づいてもまったく橋があるとは気づかない。両岸が平らな台地になっており、そこに橋がかかっているので写真108のようにただの道路にしか見えないのだ。中流の大きな橋とはずいぶん違う。
107 青梅市河辺町付近 108 下奥多摩橋
橋の中央からは、写真109や111のように、緑の崖がよく見える。ここまでくると、多摩川は大地を直接浸食しているため、広い河川敷はなくなったようだ。したがって、河畔の道もないわけである。
ここ、青梅市は多摩川にとってのターニングポイントとなる場所である。
この地図を見てほしい。青梅を中心に右の下流側(東側)に放射状に道路が広がっているのがわかる。空からの写真でもわかるように、青梅は多摩川の作った扇状地の扇の要に当たるわけだ。現在の多摩川は扇状地の南側を流れているといることになる。写真を見ると、横田基地は、広大な扇状地の真ん中に横たわっている。
専門家の資料だとわかりやすい。武蔵野台地は、武蔵野扇状地とも呼ばれ、全体が過去の多摩川の堆積物から形成されているそうだ。
ここからは、いよいよ奥秩父山地を目指してさかのぼっていくわけで、多摩川もだんだん深い谷になることが予想される。
109 下奥多摩橋から下流を望む 110 下奥多摩橋からみる下流左岸の淵
111 下奥多摩橋から上流を望む 112 下奥多摩橋からみる上流左岸の淵
崖の下は深い淵になっており、青みがかった水が美しい。釣り人も絵になる光景である。ここまでくると下水処理水の割合も少なくなっていそうだ。
113 日枝神社前の住宅? 114 調布橋
同じように、両岸の緑の崖がよく見える調布橋につく。もう橋以外のところでは川を見ることができない。
115 調布橋から下流を望む 116 調布橋から上流を望む
簡保の宿を過ぎて、今日の最終目的地である釜の淵公園に着く。
117 釜の淵公園の鮎美橋 118 鮎美橋上
公園内の橋から見る多摩川は、蛇行して大きな曲線を描きながら、いつしか自然の姿を取り戻していた。
119 鮎美橋から下流を望む 120 鮎美橋から上流を望む
時間と体力が限界となってしまった。空も曇っている。したがって、公園内の多摩川の姿をじっくり見ることは次回に持ち越すことにして、青梅駅に向けて河岸段丘の坂を上り始める。
青梅駅への坂道は写真121のようになかなか趣があるが、道がわかりにくく初めての人は地図が必要だろう。青梅駅前は想像していたよりもずっと素朴であった。都内の駅というより、地方の少し大きな町といったたたずまいである。
121 青梅駅への坂道 122 青梅駅前
今日は、多摩川中流域を青梅まで遡った。昭島市、福生市、羽村市、青梅市と歩いたが、前回よりものんびりした雰囲気の楽しい道であった。多摩大橋から阿蘇神社までの左岸は、河畔を容易に歩けるが、阿蘇神社以降は河川敷が狭くなり、河川が台地を浸食してくることから、川沿いの道はなくなる。歩く場合は地図が必要だろう。
歩いているときはわからないが、後で地図を見てみると、青梅から広がる典型的な扇状地の地形が見て取れる。
扇状地がおわると、山中の谷に入るのが普通である。そういった意味では、今日で中流域の探索が終わったということになるのだろうか。ここまでくると見た目の水質はきれいで、泳いだり釣った鮎を食べたりしても違和感はなさそうだ。
人の営みに目を転じると、川の利用方法が下水処理水の放流から水道水源の取水に変わってきたことがわかる。特に、羽村堰は、歴史があり、なおかつ現在もその役割を果たしていることに感銘を覚えた。羽村堰のおかげで、この付近は川に親しむことができる、ちょっとした観光地になっており、今日のハイライトとも言えるだろう。
次回はいよいよ源流を目指して険しい山岳地帯に突入か?
本日の踏破区間(赤線)
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