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利根運河探訪
明治時代に水運のために作られた、利根川と江戸川をショートカットする本格的な運河 |
◆2020年12月29日 利根運河 (利根川〜江戸川)
この水の旅では、自然河川はもちろん、玉川上水などの人工水路、北沢川など現在はもう存在しない川などいろいろ歩いてきたが、今回は初めての運河だ。運河といえばスエズやパナマのようなでっかいやつを思い浮かべるが、何となくロマンのある水路である。
神奈川県にも京浜運河があるが、あれはほぼ海である。しかし、この日本にも本格的な運河があったことを最近知った。利根運河である。
時はさかのぼり安土桃山時代、徳川家康は江戸の街を水害から守るとともに、北からの水運を確保するために、それまで江戸湾に流れ込んでいた利根川を銚子から太平洋に注ぎ込むように無理やり付け替える大工事を始めた。その結果、江戸時代には、利根川から関宿までさかのぼり、江戸川を下って江戸へという北からの水運ルートが確立した。
そして時は下り、明治時代、まだ鉄道はなく、北からの物資は水運に頼っていたが、いかんせん遠回りである。
ならば、利根川と江戸川をショートカットしちゃえ...と明治の人は考えた。それを実現したのが、利根運河である。まあ、下の図を見ていただければ、一目瞭然だ。
ちなみに、水運ならば銚子沖から外房を回って、浦賀水道から江戸へ入れば良いじゃないか、と思う人もいるだろう。しかし、犬吠埼から先の九十九里浜沖は、多くの難破船が漂着していることを海岸線の旅で紹介したとおり、難所なのである。つまり、大きな船が必要な上に、江戸湾入り口も座礁しやすく混雑していたのだ。
....と、いろいろ御託を並べたが、お前みたいな素人の荒唐無稽な話だろ、と信じてもらえないかもしれないので、現地にあった公式の解説も載せておこう。
というわけで、現地に飛ぶ。利根運河と利根川の合流地点に一番近い駅を探すと、つくばエクスプレス線の柏たなか駅であることがわかった。
南千住から乗ったが、各駅停車のくせにモーターが唸りを上げている。この路線は新しい高規格路線なので、飛ばすのだ。スマホで計測してみると120km/h出ていた。
駅の所在地は、駅名から千葉県柏市のようだ。つくばエクスプレスは、つくば市に行く路線なので都内から直接茨城県へ乗り入れていると思っていたが、千葉県を通過していることは今まで気が付かなかった。千葉県の大きさをナメてはいけない。
ちなみに田んぼの中に駅があるから田中かと思ったら、どうやら田中村という地名から来ているようだ。
駅前のコンビニに寄ってから、タクシー乗り場に向かう。利根川まで歩けないこともないが、かなり時間がかかりそうなので、運転手さんに地図を示して、合流地点まで行ってもらう。しかし、運転手さんによると、そこまで車は入れないようだ。
1 柏たなか駅 2 利根川口へ
9時51分、ごみ焼却場の前で降ろしてもらい、写真2の道を歩き出す。タクシー料金は1200円だった。運河の北側沿いの道である。
3 利根川口の道路
10時9分、利根川との合流地点についた。ここが、運河の東端である。水が流れている様子はない。対岸はもう茨城県守谷市である。写真3のように立派な道路と橋があるが、車は走っておらず、車両進入禁止なのかもしれない。
4 利根運河の現利根川口(分岐地点)
さて、ここで運河ができる前の状況が気になったので、歴史的農業環境閲覧システムにお世話になり明治初期から中期に作成された迅速測図と現在の地図を参照してみよう。
沼地が入り江のように西に広がり、運河を掘るには絶好の地形であったことがわかる。
5 現利根川口から江戸川方面を望む 6 運河横を江戸川方面へ
いよいよここから西へ向かって歩き出す。江戸川口を目指すのだ。それにしても荒涼とした風景だ。やがて水門のような施設が見えてきた。水が流れている感じはない。この施設の名称を調べると、野田導水機場と言うらしい。運河水門とも言われると書いてあるものもあり、情報は錯綜しているが、この施設はいつなんのために作られたのだろうか。運河のためではないことは、スクリーン構造や新しさから明らかである。
7 野田導水機場?遠景 8 野田導水機場から利根川方面を望む
これには、東京の水不足が関係しているらしい。高度成長期に水需要が逼迫してきたため、利根川から江戸川に水を流して、水道原水を確保しようと考えたわけである。江戸川の下流には金町浄水場など東京都や千葉県の水の供給源があるのだ。このため、明治時代に作られたこの利根運河に急遽目がつけられたらしい。ちなみに、運河建設当初は利根川のほうが水位が低かったが、利根川の河床の上昇により逆転したという。
この野田緊急暫定導水路工事は1975年に完成したので、おそらくここは、そのときに作られた利根川からの取水口だろう。運河が導水路という別の役割で復活したわけである。
それにしてもなぜ「緊急暫定」なのだろうか。実はこのときすでに、利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路が計画されていたのだが、おそらく高度経済成長と急激な人口増加で水需要が急増したため、その完成を待てなかったので、急遽事業化されたのだろう。
北千葉導水路は、千葉県印西市・我孫子市境界付近の利根川と松戸市の江戸川を接続する水路で、1974年に着工し2000年にやっと完成している。つまり、2000年に、利根運河は導水路としての主役をバトンタッチしたわけだが、利根川の水を江戸川に流す洪水調節の役目は完全に終わったわけではないようだ。それに環境上、治水上も運河に水を流すことは必要だろう。
9 野田導水機場から江戸川方面を望む 10 船戸橋?
橋が見えてきた。近づいてみると荒廃した通行止めの橋である。橋の名前を調べてみると、Wikiには千葉県道・茨城県道46号野田牛久線の船戸橋だと書いてある。こんな道が県道のわけはないとさらに調べてみると、驚くべきことがわかった。この情報は正しかったのである。次の地図を見てほしい。
確かに県道46号線になっている。利根川の対岸、守谷市側を見てみると46号線は利根川の手前で途切れている。つまり、この県道は、利根川を越えて千葉県と茨城県を結ぶ計画の道路だが、諸事情により、(おそらく橋の建設費用や常磐自動車道の整備だと思うが)ほったらかしになっているのであった。写真2の道や写真10の橋は、車両が通行できない無人の荒れた道であるが、まさしく県道なのであった。ちなみにこの未成区間には県道の標識は一切ない。
11 船戸橋から利根川方面を望む 12 船戸橋から江戸川方面を望む
13 旧利根運河流路? 14 ブッシュ
運河の南側を遡行しようと考えていたので、幻の県道46号線から、写真13に見える堤防上に上がろうとしたが、道がない。一部水路のようになっており、また、写真14のようにブッシュがすごい。
現地では気づかなかったが、野田緊急暫定導水路のことを調べているうちにある疑念が湧いた。導水路をわざわざ作ったということは、運河の利根川口は別にあったのではないか、という疑問である。
ここでお世話になったのが、今昔マップ である。大正時代の地図はなかったが、戦後すぐの地図があった。導水路が建設される1970年代以前の地図なら運河が記載されているはずだ。
衝撃の事実がわかった。左側の古地図によると、運河は現在の船戸橋からそのまま真っすぐに進み、利根川とは斜めに合流している。つまり、写真13、14の葦原から堤防に沿って運河が作られていたのである。どうりで水が溜まっていたわけだ。今まで見てきた船戸橋から利根川までの水路と水門は、利根運河ではなく、1970年代に新しく掘られた野田緊急暫定導水路だったのだ。利根運河の旧利根川口は現在の常磐自動車道の利根川橋付近で、航空写真を見ると現在もその痕跡が残っている。
というわけで、ブッシュを掻き分けて傷だらけになって堤防の上に上がって撮った写真は、利根運河を撮ったつもりだったが、実はほとんど野田緊急暫定導水路だったというオチである。
15 堤防上から利根運河・野田緊急暫定導水路?を望む
16 堤防上から江戸川方面を望む 17 海から96km標識
写真16の堤防上は、サイクリングの人が多い。左側は農地になっているが、ここは田中調整池という利根川増水時の遊水池となっているらしい。平時は池ではなく農地であるが、いざという時は水没するのである。
海から96kmという標識があったが、おそらくこれは利根川、つまり銚子の河口からの距離を示しているのだろう。
18 利根運河とクリアビューゴルフクラブ
運河の反対側には立派なホテルもあるゴルフ場があるが、あそこも利根川増水時は危なそうである。先程古地図で見たように、もともとこのあたりは沼地、つまり天然の遊水池だったのである。
19 柏市北部クリーンセンター 20 運河と利根川の境界標識と運河水門
タクシーを降りた清掃工場まで戻ってきた。利根川の大きな看板がある。管理上は、ここまでは利根川で、この運河水門から西が利根運河ということらしい。ここまでは守谷出張所、ここから先は運河出張所と書いてあった。
21 国土交通省江戸川河川出張所・野田導水路操作所 22 水堰橋遠景
県道7号我孫子関宿線の水堰橋をすぎると景色が落ち着いてくる。残念なことに、天候は曇りで青空の下の運河の写真は撮れない。天気予報は外れである。
23 江戸川から7.0km地点から江戸川方面を望む
24 宮本排水樋管 25 柏市立柏高等学校と休憩所
高校があり、野球部が熱心に練習していた。それにしてもこんなところに高校があるとは、通学が大変そうである。
利根運河沿いの道には、写真26のように江戸川からの距離が書いてある標識が0.5kmおきに立っている。歩くときの目安になるので心強い。
26 江戸川から6.5km地点から江戸川方面を望む 27 船戸山高野歩道橋
28 歩道橋から利根川方面を望む 29 歩道橋から江戸川方面を望む
このあたりまでくると人家は殆ど見当たらず、見渡す限りの山林と湿地、農地である。
30 江戸川から6.0km地点から江戸川方面を望む 31 5.5km地点から江戸川方面を望む
32 城の越排水樋管
このあたりは、利根運河がだいたい市の境界になっており、対岸は野田市である。両側の地形を見ると丘陵地であり、運河を掘り進むのも苦労しただろう。当時はまだ重機はなく、ほぼ人力で掘ったはずである。
33 対岸の葦原と山林
写真34は工事、といっても堤防の草刈りであるが、ちゃんと工事の目的や実施者、期間などの情報を開示している。税金を使っているので、このような情報提供は大切だし、地元の人達の安心にもつながると思う。
34 河川堤防維持工事説明板 35 国道16号線柏大橋
国道16号線と交差する。柏大橋だ。
36 柏大橋下の運河 37 一里塚第三緑地
途中には所々にちょっとした公園があり、休憩するには良いが、トイレはない。
38 柏市大青田付近 39 諏訪下樋管
40 江戸川から4.5km地点を望む
41 対岸の森
42 流山市へ
標識はなかったが、そろそろ柏市から流山市に入ったはずだ。心做しか都会的な雰囲気が漂い始めた。川沿いに住宅も見える。
43 江戸川から4.0km地点を望む
44 桜並木 45 眺望の丘付近の赤いベンチ
新興住宅地になり、桜並木やベンチが現れて、一挙に都会的な公園の様相を呈してきた。小高い場所があったので行ってみた。眺望の丘と言うらしい。
46 緑のベンチ 47 眺望の丘
48 眺望の丘から利根川方面を望む
49 土木遺産記念プレート
解説の中身は、利根運河が土木遺産になったことと、ここからの眺めは運河唯一だと言うことらしい。
50 眺望の丘から江戸川方面を望む
対岸の野田市側には、大きな建物が並んでいる。東京理科大学と書いてある。
51 緑のベンチと桜並木 52 対岸の東京理科大学
自転車置き場が現れた。駅が近いことがわかる。
53 ふれあい橋遠景 54 ふれあい橋
歩行者専用のアーチ橋があった。対岸まで渡ると、東京理科大学野田キャンパスである。この橋を渡っているのは若い人ばかりであったのも当たり前だ。初めて来たが、理科大の主要キャンパスになっているようだ。橋で運河を越えて大学に行くというのも、なんかオシャレである。ただし、あくまでここは東京都ではなく千葉県なので、大学名から言えばディズニーランドと同じく、やや疑問が残りそうだ。
55 ふれあい橋から利根川方面を望む
56 利根運河標識 57 東武野田線運河橋梁
このあたりは、駅にも近く利根運河が最も華やかなところだ。ちなみに、東武野田線の駅名はなんと「運河駅」である。千葉県北部に住む人や理科大生なら知っているだろうが、残念ながら神奈川県に住み、東武線に乗ることもない人間にとっては、初めて知る駅名だった。東武野田線は、最近では東武アーバンパークラインという都会的な愛称名がつけられている。野田線だとなんとなく醤油をイメージしてしまうからだろうか。しかし、野田線の前身は千葉県営軽便鉄道であり、まさに野田の醤油を運ぶことが目的だったようだ。
さて、軽便鉄道の駅名は東深井となる予定であったが、運河に変更するよう圧力をかけた会社があった。それが、この運河を作った、利根運河株式会社である。最初は国策だったらしいが、形式上とはいえ民間会社が運河を作ったというのも驚きである。このあたりの観光地化も進めたらしい。宣伝のための駅名はそのものズバリである。
桜並木のほとりにたくさんの旅館や茶屋が立ち並び、運河に客船や貨物船が行き交うのを想像するとワクワクする。当時の写真があるので載せておこう。ちゃんと鉄橋が写っている。
大正時代の利根運河 Wikimedia Commons より
58 運河橋から江戸川方面を望む
59 運河橋と東武野田線
水辺公園へ降りてみる。奥多摩湖で見たような浮橋がある。
60 運河水辺公園 その1
子供が遊ぶ平和な水辺の光景である。水は清流ではないが、それほど汚いわけでもない。流れは、利根川に向かっていることがはっきりとわかる。水源は途中から流れ込む小河川や湧水だろうか。
61 公園の浮き橋から運河橋を望む 62 公園の浮き橋から江戸川方面を望む
63 運河水辺公園 その2
64 運河水辺公園 その3
65 水鳥の楽園 66 公園から江戸川方面へ
67 西深井歩道橋から利根川方面を望む
68 西深井歩道橋から江戸川方面を望む
このあたりで丘陵地は終わり、低地が広がっている。江戸川の氾濫原だ。南側には工場がいくつかある。流山工業団地である。
69 下水道管渠 70 新川揚水機場
71 江戸川から1.5km地点から江戸川方面を望む 72 運河大橋
運河大橋が見えた。県道5号松戸野田線であるが、橋の銘板には有料道路と書いてあった。現在は無料化されて普通の県道になっているらしい。この橋をすぎると、地図上は南側に深井新田という広大な水田が広がっているはずであるが、実際は現在の日本農業を象徴するように耕作放棄地になっていた。その代わりに遠くにクレーンが見えて大きな建造物を作っているようだ。このすぐ先には、常磐自動車道の流山インターチェンジがあるので、物流基地ではないかと想像する。ヤマトかアマゾンか?
73 南側の耕作放棄地と物流センター?建設
これだけ広大な土地はそうないので10年後には全く違った景色になりそうだ。
74 江戸川へ 75 0.5km地点から江戸川方面を望む
江戸川まで500mの標識があった。もうすぐそこだ。橋の袂に利根運河と江戸川の境界標識が立っている。
76 河川管理境界標識 77 利根運河江戸川口
12時22分ついに江戸川が見えた。利根川口からここまで、8.5km、2時間半かかったが、ついに歩ききった。
78 江戸川合流地点南側 79 江戸川から利根運河を望む
ちなみに、江戸川口の位置を古い地図で確認したが、こちらは変わっていない。ここが明治時代の江戸川への出口である。客船は、ここから江戸川を下っていよいよ東京都心に向かったのだ。
80 江戸川合流地点北側 81 江戸川の海から34.75km標識
ここには、江戸川の海からの距離標があった。約35kmなので、船は東京まであと2時間もあれば着いたのではないだろうか。
82 運河河口公園
ちょっとした公園で休憩した後、疲れた体で立ち上がる。ここから運河駅まで帰らなくてはならない。今度は反対側運河の北側の道を辿ることにする。
83 山崎排水樋管
84 運河水辺公園 その4 85 運河水辺公園 その5
ここに利根運河を始めとする水域を仕切っている役所があった。出張所とはいえなかなか立派な建物である。しかも、名前まで運河出張所である。
86 国土交通省江戸川河川事務所運河出張所 87 利根運河記念石碑
石碑があり、その横に利根運河の解説板があったが、その内容は、冒頭に載せたとおりである。
88 運河水辺公園の時計台と運河橋
89 利根運河株式会社手水石
90 手水石解説板
91 運河水辺公園ガイドマップ
運河駅から帰宅の途につくわけだが、そのまえに寄り道をすることにした。ルアジーランド流山という住宅地だが、ニュージーランドの街並みを再現しているというのである。これは見ておこう。
位置的には眺望の丘の北側、住所は東深井である。実際に行ってみると、期待ほどではなかった。まず、日本と海外の最も大きな違いである見苦しい電信柱がある。茶色に塗って目立たないようにしているが、残念ながら空は嘘をつかないのである。道路幅もそれほど広いわけではない。そして、なによりも敷地面積が外国とは違いすぎる。建物は洋風ではあるが、いわゆるレンガや木を模倣した樹脂系の建材を多用した建売のような住宅が並んでおり、少し誇大広告ではないかと思った。しかし、写真92のあたりだけは、電柱が無く、ちょっとそれっぽい雰囲気になっていた。土地の狭さはさておき、いい感じである。
わざわざニュージーランドから視察に来たそうであるが、逆に一般的な日本の道路、住宅地の土地の狭さ、低レベルな建物デザインや品質、電信柱の乱立や看板など日本人の都市景観にたいする美的感覚、ウサギ小屋と揶揄される住宅を外国人が見てどう思うのだろうか。少し心配ではある。
92 ルアジーランド流山
13時45分、運河駅に着いた。帰りは、柏に出て常磐線で帰ろう。ちなみに、利根運河は常磐線や総武線の開通により、その短い使命を終えたそうだ。
93 東武野田線運河駅東口
利根運河、いままで知らなかったが、運河ならではの歴史や景観、そして何よりも、関東平野を堀り抜いて利根川と江戸川をショートカットしてしまうというスケールの大きな明治の人たちの発想と実行力を、この目で見ることができた。
日本国内でも、まだまだ知らないこと、見ていないものも多いことを痛感する体験であった。
本日の歩数 27,950歩
関連サイト ◆北千葉導水路(2021年1月1日)
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